百二十八章《下剋上》
「制約の言語回路」百二十八章《下剋上》
「お嬢様は、啓蒙ってどう思う?」
「不可知論者よりはマシってイメージ」
綺麗は、ベッドで本を読みながら答えた。続けて、「猫の方が可愛い」とつけ足した。
***
中国哲学は、忘れられたのか。
大陸の伝統的な思想哲学は、一般の人にはもう、現代のテクニカルな議論も、懐古的な文献調査もなく、表面的なイメージだけ流布している。
人民にあまねく行き渡るような、滋味のあるテクストは、大学という監獄の中にしかない。ほとんどの人民は、それに触れることも、知ることも、許されていない。
敷衍する文脈で、いくつも本が出ているのに、それらは何か精彩を欠いていて、どこか不十分な気がする。
なぜだろう。何かを伝える時の話し方(あるいは書き方)が問題なのだろうか。
社会進出のための、受験という制度が問題なんだろうか。
生きるために必要な知識は、天から降ってこない。雨はなく、大地はいつも乾いている。
綺麗は、雨を降らすことができる稀有な存在だ。彼女が歩いた後には草木が芽吹く。
人を豊かにすることができる。
琉璃は井戸を持っている。綺麗で澄んだ、美味しい水を、いつも水筒に入れている。
では、それ以外の人は?
大陸の普通人は?
どうすれば生活は良くなり、人を愛し、戦争を終わらせることができるのか。
弱肉強食の大陸社会で、より善く生きるにはどうすればいいのか。なんて、ナイーブなことを、大陸人は誰も考えていない。
***
綺麗が久々に、北城市へと帰り、第二を覗いた。
しばらくぶりのことで、知っている生徒はもちろんいないし、先生も、綺麗を覚えている人は、数えるくらいしかいなかった。
少しだけ、違和感があったけれど、綺麗は特に気にしなかった。
家族のところでぬくぬくしていると、チャットが飛んできた。
燦だった。
ベッドから飛び上がって、着替えると、チャイムが鳴った。
「はーい」
母親が出る。
「燦です。綺麗姉さんはいますか?」
「綺麗ー」
「今行く、着替えてるからちょっと待ってー!」
燦、燦だ。久しぶりすぎる。
バタバタと外に出ると、燦がいた。
「燦!」
「姉さんッ! おかえりなさいです!」
「ただいまだよー」
抱きしめ合うと、燦の体が、昔より随分柔らかくなっていることに気づいた。
綺麗ほどではないが、背も高くなっている。
「受験はどうだった?」
「城市大学です」
「やるぅ」
「実にいいニュース。書家としてはどう?」
「もう、ずいぶん稼いでいます。でも、第二時代の姉さんほどは、稼いでないと思いますけど」
「謙遜も板についてきたね」
「恐縮なのです!」
綺麗と燦は、ラーメン屋で麺をすすった。
城市大の北西にある、気の利いた本屋で、何冊か本を買い、棋院で囲碁を打った。
「姉さん、鈍りましたね」
「ごめん。ボロボロだ」
「しばらくやってない?」
「昔は、よくやったよね」
「私は今もよく打ちます」
少し髪を伸ばしたか? 燦は部分部分で少しずつ変化している。
「たぶん、燦が強すぎるんだよ。城市大の人と、打ってるの?」
言葉はなかったが、燦は否定もしなかった。
「綺麗姉は、昔より美しい」
「これから下り坂」
「そんなことない。姉さんは、いつも綺麗。でも」
「でも?」
「北城弁のキレは、少しなくなっている」
「ああ、そうかも。ルームメイトが海城市の子だから」
「あの気の強い話し方、私は好きだったのになぁー」
「ごめんよ」
「でも、柔らかくて可愛い発音」
「そうかな? でもびっくりしたよ。私が帰ってきたのは、お母さんから聞いたの?」
「チャット仲間なので」
「お母さんもやるなぁ。新進気鋭の書家と、友達なんて」
「新進気鋭なんてとんでもない。もうベテランですよ」
綺麗と燦はくすくすと笑った。「それに、大陸の人の字は、誰であれ美しいから。綺麗姉のだって」
「それと、燦の書は違うよ。上手い下手じゃない芸術。だからこそ、燦は、書家なんじゃない?」
「まぁねー。っと、そういえば、綺麗姉が北城市を離れて、少し変わったことが」
「?」
「最近、下剋上が流行っているらしい」
「下剋上?」
「本当ならナンバースクールを狙うくらいの、上位の中高生が、ナンバースクールに進学しなくなってるんだって」
「へえ」
「北城市ではもう結構ニュースになっていて、いわゆるプライベートスクールに、上位層が流れているんだとか」
「あれじゃない? 詰め込み教育に対する反動なのかもね」
「第二も、第四も、今はスカスカなんだと」
「残念ね」
「そう? 私はいいことと思うけど。姉さんも、そう思うと思っていた」
***
大陸で、プライベートスクールが流行らない理由は、いくつかある。
受験競争が厳しい大陸では、ナンバースクールで培われた、体系的な受験教育のメソッドが、絶対的だったこと。
あるいは、有名大学に進学することのうまみが、異常なほど大きいこと。
そして、ナンバースクールでの人脈が、人生の大きな部分を占めること。
その他にも多くのことが挙げられる。
綺麗が、プライベートスクール進学のトレンドを調べたところ、大まかに言って、二つの利点があることがわかった。
一、海外大学進学。
二、受験を意識しない教育カリキュラム。
綺麗や燦、琉璃や月書のような、一流のエリートならナンバースクールでも問題はないのだ。ストレスを感じずに、さらりと大学に合格する。でも、それ以外の生徒は、それとは異なる。
ことは、普通の優秀な学生が、「非人間的」な受験制度に、反旗を翻したことから始まる。
北城市のそういったムーブメントは、徐々に都市部の若者に「感染」していった。
特に、中学校に入学する段階で、実力層のかなりの部分が、中抜きされる形で受験から離脱した。
それは、最初わずかなボリュームでしかなかったのに、綺麗が大学を卒業する頃には、学生人口の5%まで膨れ上がっていた。
塾に費やすお金をそういう「私立中高」に回し、なんの成果もない、非人間的な受験競争を、空洞化させるまでに至る。
底辺の5%ではないのだ。優秀な生徒の中の割合でいけば、3割から4割にも膨らむ、異常事態だった。