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百二十六章《豹》

「制約の言語回路」百二十六章《豹》


「お嬢様、私、告白されてしまった」


「誰に?」


「留学生。全くひととなりを知らない」


「返事は?」


「いいよって言った」


「そう」


 綺麗は驚きをおくびにも出さない。


「特に物語はないんだ」


「琉璃の内面に深く関わるものはないと」


「そりゃそうだよ。ただ、一ついいなと思ったのは、どうやら私の雰囲気が好きらしい。それはいいことだ。私には内面なんてないから。はぁあ、恋愛なんて、したことないよ」


「嬉しそう」


 琉璃はそう言われて、かなり驚いたみたいだった。


「そ、う、かな」


 ぱさりと手に持っていた紙を落とす。距離を掴みかねているのは琉璃の方で、かといって綺麗は、どうでもいいとは思っていなかった。


 かさりと、紙を拾う。


「やっぱり、経験が浅いのがいけないのかな」


「浮かれてなんぼでしょ、恋愛なんて」


「何をしてあげればいい?」


「考えなくても、向こうから色々言ってくるよ」


「そうだよね」


 琉璃はくしゃりと手に持っていた紙を丸めた。もう一度広げて、それからまた潰して、屑箱へと捨てた。


 タバコ吸ってくる。


 そう言ってベランダに出た。


 綺麗は湯を沸かし、二人分の烏龍茶を淹れた。午後の四時。陽が少し傾いていた秋の日だった。


 琉璃のメッセージアプリに通知があった。


「晩御飯でもどうですか?」


 タバコを吸いながら返信する。


「どこか、レストランに行く? 食堂で済ます?」


「僕は、レストランの方が楽しいかなと」


「私がマルニをうまく楽しませてあげられるかはわからないけれど、地下鉄に乗って行こうか。雨情の近くに一軒、レストランを知っている」


「楽しみです」


 端末を仕舞って、琉璃は身支度をした。流石にチャイナドレスというわけにはいかないが、琉璃の持っているオシャレめの服で、綺麗と相談して少しメイクもする。


「大丈夫かな」


 前髪を鏡の前で整えながら、琉璃は気弱に言った。


「可愛いじゃん。大丈夫だよ」


「それじゃあ、いってくるよ」


「いってらっしゃい」


***


 雨情高校の雨情は、地名である。


 海城市の南西、交大は南東にあるから、距離的には地下鉄で数駅というところ。


 琉璃は昔、高校の同級生と、商店街でよく遊んでいた。雨情高校の生徒であれば、割引価格で飲み食いできた。彼らは上得意であり、将来の大陸を背負う人材だった。


 琉璃は同級生の列の後ろの方で、ぼんやりみんなと違う方を見ていて、仲間からよく「琉璃」と名前を呼ばれた。ハッとしてパタパタと列に戻る。不出来なカルガモなのだ。


 よく行っていたレストランは、今日もやっていた。広い店内、雨情の生徒が何人かいた。


 琉璃は、店内を見渡して、知り合いがいないことを確認する。


「ここは、北京料理の店」


 琉璃は英語で言った。


 店内の生徒たちがこちらを見るということはない。


「よくテスト明けに、みんなで北京ダック食べに来ていた」


「贅沢ですね」


「そうだね。贅沢だ。もちろん、贅沢ってことはわかってたよ。でもそれは、テストではライバルだった仲間と、仲直りするための、大切な儀式だった。アメリカ人にしてみれば、そういうわちゃわちゃは、子供っぽく見えるのかしら?」


「こんなふうに、幼い顔が並んでご飯を食べているのは、少し意外です。ただ、これだけはわかります。琉璃さんと付き合うと、美味しいご飯が食べられる」


 琉璃は微笑んだ。


 茶を飲みながら、何皿も頼んでマルニを歓待する。


 琉璃が注文する勢いに、マルニはそんなに食べられるのかと心配になった。


 結果的に、その心配は無用で、琉璃はガツガツと食事をした。


「北京ダックは、肉まで食べるんだよ」


 無邪気に話す琉璃は、実はこの恋愛を楽しんでいた。


 マルニも、琉璃も、穏やかめの人だ。禅に惹かれて大陸の仏教を研究しに来るくらいだから、精神的な統一が主眼なのだろう。足るを知り、過剰と過小を迂回する。


 琉璃が、大皿から小皿に食事を取り分ける手際は、やはり東洋人的で、ホスピタリティがあった。


 というか、琉璃はかなり世話焼きなのだ。


 酒は飲まなかった。それは少しだけ、マルニを警戒してのこと。


 自分の酔ったところを見せるには、まだ早いと思ったのだ。


「これは、値踏みしているわけじゃなくて、単に興味から聞くんだけど、マルニは何になるの?」


「学者です」


「大陸仏教の?」


「そうです」


「それはまた、稼げなさそうだねえ」


 マルニは苦笑いした。そういう冗談をいうタイプには見えなかった。打ち解けてきたとまでは言えないけれど、琉璃からの軽口は、嬉しかった。


「琉璃さんは?」


「哲学・科学史家」


「それも相当稼げなさそう」


「そいつあ、どーかな」


「アメリカの哲学者で好きな人はいますか?」


「パース」


「通ですね」


「そうでもないよ」


「科学史は、どうして?」


「単に理科が好きってだけ。得意ではないけど」


「琉璃さんが書く文章を読んでみたいですね」


「文法の限界に挑んでる」


「読みにくいと」


 琉璃はケタケタと笑った。


「アメリカ人って、わかりやすい文しか書かないで、それを自慢してくるイメージ」


「それは、なんというか、その、自慢は、してないかな?」


「大陸は、漢字の国だよ。アルファベット如きで、調子に乗らないでほしい」


「はぃ、すみません」


 琉璃は冗談で言っているのに、マルニはそれを琉璃の一つの側面だと認識したみたいで、小さな齟齬が生まれた。でもその齟齬は、コミュニケーションを損なうものではなく、逆に活性化させ、新たな局面へと導く働きを持っていた。


 帰り道で琉璃がタバコを取り出すと、マルニは少し驚いたように背中で体を引いた。


「ん?」


「いや、なんでも」


「タバコを吸う女は嫌いかな?」


「いや、そういうわけでは、ないです。ただ、琉璃さんは素敵な香りをしているのに、タバコでカモフラージュされているのが、もったいないな、と」


「わざとだよ」


「わざと?」


「息の匂いとか、体の匂いとか、そういうのを、コントロールしたいだけ。……マルニはなんで香水をつけるの? ダサいよ? って言われたらどう思う?」


「タバコは香水と同じだと」


「タバコの煙は、常につく嘘なんだよ。本当の私の匂いは、日によって変わるしね。本当であっては、いけないと思う」


「体の香りに、嘘や本当があるんですか?」


「マルニはないの? あまり考えたことがないのかな」


 琉璃は、もうこの時点で、アメリカ人のプライドと哲学的傾向を操作する感覚を自分のものにしていた。


「あまり考えたことがない、それは心外ですね。僕は」


「ああ、ああ、いいよ。私がタバコを吸う、本当の理由がわからないんだね。そんなこと普通だし、綺麗でもわからないだろうから、マルニに聞くのは酷だよね。うんうん」


「琉璃さん、僕は」


 とまで言って、マルニは琉璃が、自分の口元を視線で串刺しにしているのに気づいた。


 穏やか癒し系かと思っていたら、とんでもない。豹のように獰猛で、しなやかで、肉食的だった。


「その東洋的幻惑に、理性では答えを出せないでいる」


「幻惑なんてとんでもない。ただ、そんなにわかりやすくないの」


「高貴だ」


 そう口走りそうになって、ハッとマルニは口を閉ざした。言葉を飲み込んで、自分が、琉璃を好きになった理由を、懸命に上書きした。


 貴族的であり、魔的だった。


 半分以上、備わっているものだった。でもそれは、このタイミングまで一度も、ただの一度も表出しなかったのだ。


 マルニは、タバコの煙一つでこれほど変わるのか、とは、言い切れなかった。

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