百二十五章《マルニ》
「制約の言語回路」百二十五章
あれから、しばしば琉璃は星声を伴って、バーに行った。
バーにはいつもマルニがいて、大陸仏教の本を読んでいた。
アメリカ人なのに、哲学的なところがなくて、琉璃はマルニに好感を持っていた。
簡素に意見を言ってくるのが、アメリカ人だというイメージがあったから、割におしとやかだという印象。
大陸人は、本音ではアメリカ人のことを嫌いだという人も少なくない。琉璃は特に自説があるわけじゃないが、アメリカにはやはりというか、同族嫌悪が発動してしまう。
イタリア系ということもあり、そこまで背が高いわけじゃない。
マルニは、時たま留学生の友達を連れていた。でもそういう時、琉璃は話しかけられれば会話するだけで、半分一人で酒を楽しんでいた。星声が、明るい声で、対応してくれているから、特段気を遣うこともなかった。
琉璃は、綺麗の前ではあれだけ振り撒く愛想や可愛らしさを、マルニの前では見せなかった。
それは、塩対応とはむしろ逆の、琉璃の中では敬意を表す態度だった。打ち解けないけれど、敵意や嫌悪があるわけではない。
どちらかというと大陸の頑固なおじいさんのような、国中にありふれた感情表現だった。琉璃はそれを自覚していたわけではないけれど、失礼に当たるとは考えていなかった。
***
朝ごはんにかぼちゃ粥を買って食べている時に、マルニと留学生仲間は、琉璃に気づかずに隣の席に座った。
琉璃はすぐに気づいたが、マルニは珍しく声を張って、朝にしてはテンション高く仲間と話していた。
琉璃はその仲間の名前を思い出そうとしていた。確か、バーにも来ていたのだ。
「琉璃さんじゃぁ、ありませんかぁ」
大袈裟で間延びした発音で、ハッと思い出した。フレッド。なんで思い出せたのかはわからない。カナダ人。
マルニは、こちらを見ると無表情で会釈だけした。
わかるな、と思った。私も、そういうふうに会釈する、と。
星声がいない中で二人に会うのは初めてだった。ゆっくり粥を噛んで、茶を飲む。
マルニがフランス語で何か喋った。
フレッドがそれに苦笑気味に返事をする。
二人は揚げパンや肉まんなんかを頬張って、上機嫌におしゃべりをしていた。フランス語はわからないから、あえて聞き耳は立てなかった。
「授業ですか?」
マルニは琉璃に聞いた。
「いや、朝ごはんを食べていただけだけど」
「この辺りでオススメの場所はありますか? ちょっとこの辺りを散策してみたいのですが」
「案内しても、いいけれど」
琉璃はおずおずと申し出た。「どういうところに行きたいの?」
「本屋とか」
「それだったら大学の本屋が一番いいと思うよ。私の実家は本屋だけど、あれだけ専門書を並べることはできない。海城宇宙技芸センターにも、洋書も扱う本屋があるけど」
「洋書は、図書館でも読めます。だから、普通の人が、楽しんで読む、一般の小説なんかを見れるといいんですが」
「うち、来る?」
「売上に貢献しますよ」
「ありがとう。フレッドも、マルニも、スクーターとか持ってる?」
「道のそこここにあるじゃないですか。レンタルしますよ」
「私、自分のものがあるから取ってくる。北門前集合」
そう言うと琉璃は食器を片付けた。小走りで駐車場まで行く。
からからとスクーターを引いて、北門まで行くと、フレッドはいなかった。
「? フレッドは?」
「授業だそうです」
「? ちょっとよくわからない」
「すみません、説明が難しい」
「マルニは来るの?」
「ええ、もちろん」
琉璃はヘルメットをかぶるとスクーターにまたがって道に出た。
秋風は琉璃の服をはためかせた。十分ばかりでスクーターを道に寄せ、コンビニで飲み物を買う。忘れてたよ、と琉璃は言った。
マルニに道を事前に示す。左折する場所だけ共有した。
無然市場に無事に着くと、琉璃は実家の本屋の暖簾をくぐった。
「ここが、私の家。本屋をやってる」
「素晴らしい。洞窟みたいですね。明かりが松明のように揺らめいていて」
「ふん、褒めているのかな、それは。あぁ、言っておくけど、魯迅は難しいから、読むなら弟の周作人がいい」
「他には何かありますか?」
「路揺の『平凡的世界』は? 少し長いけど」
「最近のものではないですよね?」
「私のお母さんは、面白いものしか店頭に置かないから、あとは、マルニのフィーリングに任せる」
琉璃の声を聞いて、母親が顔をのぞかせた。琉璃は一瞬ビクッと体を震わせた。
「友達?」
「そうだよ」
「一冊持っていってもらいなさい。四百元までならいいわ」
琉璃はうなずいた。
「聞いていた? お母さんの好意で、一冊持っていってもらってもよくなった」
「ありがとう」
「見ていて。私、家族に挨拶してくるから」
琉璃は暖簾の向こう側へ入っていった。
マルニは本を手に取り、悩ましげにページをめくった。
しばらくすると、とてとてと、琉璃が戻ってきた。
「これ、お菓子。お母さんから」
「ありがとう」
「茶を飲むなら、私(のお母さん)が出す。斜め向かいの喫茶店でお菓子をかじろう。本は決まった?」
「鳩摩羅什の伝記にします」
「仏教が好きなんだ」
「そう。とても好きなんだ。喫茶店もありがとう。でも、タダでもらって、喫茶店代も持ってもらうことは」
「学生は、お金がないのが普通だけど、やっぱり、アメリカ人は金持ちなのかな?」
「とんでもない。僕の家も、僕自身も、学べることが贅沢なのは、わかっていますよ。庶民です、本当に」
「では、遠慮なさらず」
琉璃は斜め向かいの喫茶店で、お菓子をつまみながら茶を飲んだ。マルニはコーヒーにした。
「とても、おいしい」
「それはよかった」
琉璃はタバコに火をつけた。
「また怒られるよ」
店の子の英英がつぶやいた。
「余計なお世話」
「言いつけてやろうかなー」
「勉強教えてあげようか?」
「琉璃姐さん、勘弁してよー」
「あっという間に一年経っちゃったね」
「つまり琉璃姐さんがおばさんに近づいたということで、っ、痛」
「魅力的なお姉さんになったの。言い直して」
「麗しいです、はい」
くすくすと、喫茶店を切り盛りしているママが笑った。
「この子、最近本読んでるのよ。きっと、琉璃さんに感化されたのね」
「孟母三遷的なやつですかね。私は英英の家のタバコの煙を。英英は我が家の本屋の本をということですか」
「琉璃さんほど本読んでる人はいないわ。タバコくらい目をつぶっちゃう」
***
お昼を、無然市場のレストランで食べた。
琉璃の顔は本当にどこでも利くらしく、値段格安でいくらでも食べられた。
「お嬢様なんですね」
「ただの町娘だよ」
「地元に根を張って、緩やかな人間関係を形成する」
「子供というのは、祝福だから、みんな優しいのさ。早く、子供を作らないとな」
「どんな人と結婚するんですか?」
「一緒に、ぼおっとしてくれる人。私を笑顔にしてくれる人」
「僕じゃダメですか?」
「ふふ、その入りは、悪くない。てっきりマルニは星声派の人かと。大陸女は人気がないと思っていたけど」
マルニは首を振った。
「そんなことありません。せっかく大陸に来たのですし、勇気を出したい。好きです。僕の恋人になってくれませんか?」