百二十四章《星声》
「制約の言語回路」百二十四章《星声》
日曜日、授業の準備をしようと、図書館へ向かった。
綺麗は寝ていたから、琉璃はそおっと動いた。
触媒化学の基本書を読みながら、物理化学の教科書を並行して進めた。
物理化学の教科書は英語で、語学が得意とは言えない琉璃には、なかなかハードな読み物だった。
手元のノートには本文の抄訳と要約を取って、なんとか授業についていけるように、最低限の工夫をする。
単語帳の暗記とか、そういうことをしている余裕はなかった。全て現在進行形、本を読み進めて、翻訳する。
いい方法があったら、教えて欲しかったが、綺麗に聞いても芳しい返事はないだろう。
綺麗にとって勉強は運動だが、琉璃にとって勉強は戦いだった。
ただ、二人に共通するのは、そこに理由がないこと。運動は自発的な生活習慣だし、戦いは生きることそのものだ。
タバコを吸うと、気合を入れて食事をし、体力の続く限り要約していく。
ボールペンのインクが切れてしまうまで、つまり深夜零時半まで、琉璃は勉強を続けた。
「琉璃さん」
ささやくような声で、琉璃を指す。後輩の星声だった。
「星声、ちょうどよかった。ボールペン貸してくれない?」
「?」
「インク切らしちゃって」
「いいですよ、琉璃さん。ノリ打ちしてもいいですか?」
「ノリ打ちって何?」
「ご一緒しても? ということの婉曲表現です」
「もちろん」
例えば、勉強の動画を撮るとする。琉璃はほとんど集中力を切らさない。立ったり座ったりもしない。ノートを文字で埋めていく。だからきっと映えるだろう。
星声は、細く長い、エロスをまとった知的な指先で、ページをめくる。線を引いたり、ノートを取ったりはしない。たまにクスッと笑ったり、しかめっ面をしてみたり、リラックスして勉強を楽しんでいる。
少しボーイッシュな服装は、ショートヘアの星声を常に引き立てていた。
二時間ほど勉強した後で、琉璃は星声と一緒にタバコを吸った。
星声は形だけ遠慮したが、琉璃がぜひと言うので、一本火をくすぶらせた。
缶コーヒーで乾杯して、もうすぐ午前三時になろうという時間だった。
「あ、琉璃さん、どうやら仲間がすぐそこのバーで呑んでいるみたいです。もしよければ。今日はお好み焼きがあるそうですよ、ご一緒にぜひ」
勉強して茹で上がった頭を解きほぐすには、ちょうどいい。
バーの重たい扉を開けて、煙が飽和した空気圧を感じる。
「こんばんは」
バーテンダーが言うと「仲間」が振り向いた。星声を向いて手を振ろうとして、琉璃を見て少し強張った。
「ヨーロッパ人に見えるけど」
「大陸語も堪能ですよ」
琉璃は目を見開いた。
「留学生?」
「そゆことです」
「ふうん」
琉璃は成り行き上、留学生の隣に座ることになった。
「琉璃さんです、私の先輩。地元が一緒なんです」
「こんばんは、僕はマルニと言います。イタリア系のアメリカ人です」
琉璃は機械的にうなずいた。
香水の香りは、大陸にはないものだった。
服装は、琉璃が見てもすぐにわかるほど洒落たもので、でもトゲがなかった。
秋にしては少し軽装で、寒くはないかと聞きたくなった。
「珍しいですね」
「何が、ですか?」
「大陸に興味があるアメリカの人は、珍しいということです」
琉璃は、少し硬い英語で言った。
「その話し方からすると、琉璃さんは、アメリカには全く興味がないんですね?」
「アメリカには、行ったことがありません」
「その割に英語は堪能なようですが」
「部分的には」
「僕は、大陸びいきなんです」
「ノスタルジーやのどかさから来る印象ですか?」
マルニは苦笑した。
「いえ、一貫した姿勢や、物質的な強さに惹かれるだけです」
「substantial」
「ええ、島国のように空疎ではありません」
「それはよくわかりません。島国は文化の発達した国です」
琉璃は、文を区切って言った。
「島国に、行ったことがあるのですか?」
その質問に琉璃は魅力的な笑みで答えた。
タバコを取り出して火をつける。
「アメリカの、どの大学からいらしたんですか?」
「スタンフォード大学です。東洋研究が盛んで」
「文学ですか?」
「宗教や社会ですかね」
「ありがたいことです。アメリカの学術研究に、国内の研究者は負うことが大きいですから」
「琉璃さんはあまり大陸人だという感じがしない」
それを聞いて、星声は笑った。
「マルニ、違うよ。これが本当の大陸人なんだよ」
星声は、ニコニコしながら言った。「喧嘩して、頑固で、家族想いな大陸人ばかりじゃないよ」
「まあそれは、星声を見ても思いました。交大の子が、大陸人なのですね」
「ちょっと誇張が過ぎたかな。城市大だとまた、雰囲気が違うだろうけど。でもここが、南の風土の代表だと、私は思うよ」
星声は言った。
酒を飲んでいくらか落ち着いた琉璃は、マルニに聞いた。
「アメリカ人は、東洋人を下に見ている? 軽蔑することはある?」
少し言葉が砕けた。
「あるでしょうね。でもそういう人は、先ほどの語法で言えば、正確にはアメリカ人ではありません。地図を見て、島国の場所を指し示すこともできない人たちですよ」
「大陸はさ、昔からそうだけど、大陸だけで物質的にも精神的にも完結している。それは、アメリカと近いんじゃないかな」
「つまり、どちらも帝国的であり、他国に対して偏見を持っている」
「大陸は、なんとなく粗野で、アメリカも、傲慢って感じがする」
「でも、琉璃さんのように細やかな人が、人こそが、大陸人なんですよね?」
「結論的にはね。私が代表できるかはわからないけど」
琉璃は、カフェインが切れてきたのか、眠気に襲われた。つまみのオリーブの実を食べて、カクンと頭を垂れた。
「少し寝ないと」
もう朝になりかかっていた。「星声、お金は、後で送金するよ」
「おやすみなさい、琉璃さん」
***
空は明るくなりかけていた。
寮に帰ると、昼間爆睡していた綺麗が起きていて、勉強していた。珍しく図書館ではないのは、どちらかというと情報系の勉強をしているからだろう。
「琉璃、朝ごはんあるよ」
「ありがとう、お嬢様」
「肉まんは三個までね。十個買ってあるけど、私、ちょっとお腹減ってるから」
「二個もらう」
ガツガツと食べて、体力回復。
そのままベッドにダイブした。
「授業は?」
「三限」
「起こしてあげるよ。ゆっくり寝てて」
「ありがとう」
綺麗は、情報系の学生らしく、画面から目を離さず、手はキーボードを打ち続けている。
かしゃかしゃと昔ながらのキーボードを打つ音が、とても心地よい子守唄だった。
***
「るりー、おきてー」
「おじょうさま、もうすこしねかせてー」
「あんなに頑張って出てる授業なんだから、もったいないよー」
「……むにゃむにゃ」
「るりー」
「おじょうさまー、むにゃむにゃ」
「コーヒー淹れてあげるから」
「むー、ねむるのー」
「るりー?」
「だいじょうぶだよー」
「いや、全然寝てるじゃん」
「おきてるよー、むにゃむにゃ」
「可愛すぎかよ」
「そんなことないよー」
「食べちゃうよ?」
「おじょうさまー、ラノベの読み過ぎー」
瑠璃の寝言は、気の利いた冗談を言ったつもりだった綺麗にぶっ刺さった。
言葉の槍に貫かれた傷から、致命的な失血があり、しばらく言葉がなく、泣き顔で、琉璃を置き去った。
がちゃんという扉を閉める音があり、琉璃は寝ぼけたまま、起き上がり、寝癖もそのままに授業へ向かった。
綺麗とは、おそらく夢の中で話していたのだ。罪の意識も生まれずに、授業へ出た。
「ちょうどいい時間に起きたな、さすが私だ」と、自賛するまであった。