百二十三章《時代》
「制約の言語回路」百二十三章《時代》
琉璃の住んでいた無然市場より、海城市中心部から見て奥の方には、波を作っている小高い丘があり、その上にマンションが立っている。
琉璃はそれを「盾」と呼んでいた。「盾」に住んでいる雨情高校の生徒は多く、周囲の公園やスーパーはいつも活気があった。
無然市場は知る人ぞ知る商店街だが、「盾」は、大陸が現代化する中で生まれた、生活空間の最も典型的なものだった。
一時期、住宅の供給過剰と、価格の高騰が、「盾」に暗雲をもたらしたが、今、適正な価格に価格が落ち着くと、若い世代が、安い住宅環境を求めて「盾」に住むようになった。
無然市場の家々は、洞窟のようであり、代々受け継がれる古い建物は、中を変え、外を整え、延命される。
そういう泥臭いところが、「盾」にはなかった。
琉璃はよく「盾」に遊びに行った。中学生の頃は、友達の住まいはほとんどが「盾」だったから。
逆に、琉璃が友達を呼ぶと、家の薄暗さにみんな面食らう。住みにくそうだと思うらしい。
***
「盾?」
「と、私は呼んでいる」
いつものおしゃべりで、琉璃が言った。
「何から何を守っているの?」
「当然、野蛮から文明を」
「琉璃は、野蛮なの?」
「それは論を待たないよ、お嬢様」
ケトルで湯を沸かし、烏龍茶を淹れる。
カップを温め、熱い茶を注ぐと、綺麗はすぐに飲んだ。猫舌な琉璃は、ふーふーしてちびちび口につける。
「たしかに、野菜の猫だからな」
「よく盾のみんなは可愛がってくれた」
「可愛いもん」
琉璃は、さあ? みたいな仕草で、肩をすくめる。
「盾の向こうには何があるの?」
「いい質問だね、お嬢様。何があると思う?」
「工場?」
「なかなかセンスがいいですね。他に考えられるのは?」
「鉄道の車両基地とか」
「おおおー、なるほどね」
「で?」
「空軍基地があるの」
「へえ、広いの?」
「建物も近代的で、なかなか良くできた基地なのよ。車両基地はほとんど正解だ。さすがお嬢様」
「飛行機は海城市の上を通らないの?」
「あんまり見ないよね。市政府の議会で、私のお父さんは、それを許さない決議案を出しました」
「琉璃も政治をやるの?」
琉璃はしばらく考えた。
「それも悪くない」
いかにも興味がないという顔。綺麗は苦笑した。
「お嬢様は、島国と大陸だったら、どちらが故郷なの?」
「大陸だよ」
「へえ、意外」
「私は、大陸人だから。でも他の人の感覚は、違うらしいね。血統的な基準で、島国を選ぶ人が多いみたい。それも、戦争があれば浮き彫りになることで、平時では気にすることもない。まあ、別に、どっちでもいいんだけどね」
「どちらかの死者に同情するとかは?」
「どちらでも関係ないよ」
「大陸が故郷なのはどうして?」
「私に島国の友達はいないから」
思いの外簡単な返事に、琉璃は驚いた。
綺麗はそういうことを考え詰めていそうだったから、意外だった。
「琉璃は?」
「へ?」
「戦争についてどう思っているの?」
「終わればいいなって」
「そうだね」
「私、また島国に行きたいから」
「また雨猫になって、メイドさんをやりたい?」
「やりたい!」
***
授業は徐々に難しくなっていく。
読書する余裕があった学部一年生の時に比べ、授業準備に時間がかかって、なかなか本にまで手が伸びない。
教養の授業を二年生までやるのは、大陸ではかなり珍しい。ただ二年生のカリキュラムは、専門的と言っても良かった。語学の中級はかなり骨が折れ、コマ数も多かった。
語学があまり得意ではない琉璃は、かなりしんどそうに授業に臨んでいた。
辞書を片手に、図書館で深夜まで勉強する。
よく寮のベランダで、タバコを咥えながら、発表原稿の暗記をしていた。
綺麗に対して行っていた、親切やサービスは一時休止。一年生の時のふわふわでは、二年生は乗り切れないようだ。
秋でも葉を落とさない、常緑の木々、海城市の温暖な気候は、体を動かすには最適なのに、散歩の一つもできない。
「琉璃ー、ご飯食べ行こー」
「ごめん、お嬢様。また今度」
「またって、この前もまたって言ってたじゃん」
「ごめんて」
「そんなに大変なの?」
「お嬢様は頭がいいから大変じゃないかもしれないけど、私はそんなにできるわけじゃない」
「でも、ご飯くらい、ちゃんと食べなきゃだめだよ!」
「そんなのわかってるよ!!」
「わかってないでしょ。最近ご飯どうしてるの??」
「お嬢様には、関係ないでしょ!」
「関係ないって、琉璃は私が風邪をひいたらご飯を買ってきてくれるのに」
「最初言っていたことと全然違う難癖つけないで、ご飯は一緒に食べないって言ってるの。時間がないから。私の食事事情に口を出さないでよ」
「買ってきたら食べる?」
「そんなこと、お嬢様は、気にしなくていいんだよ」
「琉璃、意固地にならないでよ」
消しゴムが飛んできた。
綺麗はお返しに枕を投げる。
琉璃は怒り心頭らしく、かなり険しい形相で、綺麗を睨んでいた。
「こんなところで喧嘩する時間があるなら、ご飯食べに行かない?」
綺麗は皮肉混じりに言った。ご飯を一緒に行く気は、「さらさら」ない言い方。
琉璃の眼光は鋭く、あんなに可愛い小さな女の子が、敵意を露わにすると、こんなふうに顔が歪むのか。綺麗は、怖くてたまらなかった。
「別にいい。ご飯を食べに行かないのは、お嬢様の軽い話し口を、今は聞きたくないからだから。こういうモードなの。苛立ちをぶつけたいだけだから」
やんわりと言葉を曲げるのに、口調は全く打ち解けてなかった。
「ごめん。ご飯買ってくる」
「私の分はいい」
「肉まんがいい? わかりました。ゆっくり勉強してて」
「お嬢様、冗談は、……」
「飲み物は何がいい?」
「……コーヒー」
「琉璃ごめん。謝るよ」
「お嬢様が謝ることじゃない。私に、余裕がないのが、いけない、だけだから」
***
ご飯を持ってくると、琉璃は机に突っ伏して眠っていた。
涙が頬を伝っている。
浅い息を繰り返し、時折喉がヒュウと鳴る。何回か咳き込むと、苦しそうに歯軋りする音がした。
なんでそんなに頑張るのだろう。
できることだけで良くないか?
琉璃はそうは思わないだろうけど、なんとかして緩めてやりたかった。
緩めることを知らない人はいる。いつもキツく締めている方が、「気楽な」人。
琉璃は飄々としていて、でもいろんなことを考えている。
天然なのに頭のいいアニメキャラみたいなものだ。
昔見た日常系のアニメに出てくるヒロインと、性格は違うけどよく似ている。
助けてあげたいと、綺麗は思った。
たぶん、それは、傲慢なのだろう。
彼女が苦しんでいる姿は、いじらしく、可愛らしく、美しくすらあった。
机の上で息の分だけ膨らみながら、動かない琉璃は、一つの造形であり、一つの彫刻だった。
柔らかい土の色が、彼女の肌に塗られて、しっとりと湿り気を帯びていた。
***
琉璃は夢の中で新幹線を運転していた。夜に、数人の車掌を率いて、空間を、早い速度で切り開いていた。
夜風を切る車体は、海城市から北城市へと、ハイスピードで進んでいた。
大陸の町々は青白く光り、大陸の大都市は仄かに赤く輝いていた。
多くの人は、車内で眠っていた。
琉璃の目は暗闇の先を見据え、高い練度と緊張感で白い手袋が握るレバーの感触を確かめていた。
新幹線が運ぶ乗客の夢を、割らないように、落とさないように、大切に守り通す。
誰もが安心して旅ができる快適なシートの上で、みな夢を見ていた。
現実は夢より夢らしい。
安逸に眠っているだけで千キロあまりを踏破できる現実は、非現実的であまりに夢らしかった。
麻酔か、催眠術にかけられているかのように、乗客は安逸に眠っていた。琉璃はその、信託によって新幹線の運転席に座っていた。その信託は、架空のものであり、なおかつ内実が備わっていた。社会契約論の、お手本のような擬制に、みな勘づきはするものの、確信を持って運転手の琉璃の存在を思い描けなかった。
琉璃は、逆に夢にまどろむ乗客の、一人一人の顔を思い浮かべることができた。夢を見ている人の顔を思い浮かべることが、琉璃の仕事と言っても過言ではなかった。
「まもなく、北城市です」
車掌の一人は言った。チャイムが鳴り、アナウンスが首尾よく行われると、琉璃は新幹線の速度を落とした。
現実という容れ物に入っている夢は、気づいたら消えていた。最初からなかったのかもしれない。それが確かに経験されたことであっても、その感触を確かめることも、その存在を確言することも、誰にもできなかった。
琉璃だけが、そのことの成り行きをなぞることができた。
個々の夢は消える。でも集団にとっての夢は、確かにそこにあったと言えるのだ。つまりそれが、時代ということなのだ。