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百二十二章《香霜》

「制約の言語回路」百二十二章《香霜》


 人を殺すために体を鍛えるわけじゃない。自分が死なないためだけに、私たちは体を鍛え、言葉を学び、科学的知識を身につける。


 結果的に人は死ぬ。それは私たちが殺すからだ。あるいは私たちが力及ばずに殺されるからだ。


***


 月書は、左遷された状況下でも最善を尽くした。西部戦線にはむしろ適任だったと思われる。


 サクガルは、島国との戦争の兵力供給地と前に言ったが、西方インド大陸や、北方ロシアとの前線でもあった。


 小競り合いはいつも生じていて、ピリピリしていたところに、月書は来た。


 月書の圧倒的な実力で、敵兵は効果的に無力化され、なおかつ殺さずの姿勢から、無用の怨恨を残さずに、戦線を維持することができた。


 月書と一緒に飛ぶのは、西部戦線の魔導部隊にとって、困難こそあれ、誇りだった。


 ごみみたいな指揮官に、戦線を絶対に維持するよう言われ、何人も無駄に死んでいった。


 指揮官自体に作戦遂行力がないこともままあった。


 だから、最前線で敵を挫く月書は、前線のメンツに驚くほど信頼されていた。


 第四で築いた首都とのパイプを生かし、西部戦線には図書室が作られ、限られた予算を使い陽成は、ありったけの本を注文した。


 外交部も、三階建のビル一棟というこぢんまりした感じで、陽成的にはやりやすいことこの上なかった。陽成の判断で予算を使うことができた。


 武器弾薬は常に不足している。特に予算大喰らいの機関銃には、かなり手を焼いていた。


 衛生用品は規格通りのものが届くのに発注して一週間はかかる。医師と看護師は一人ずつしかいない。


 コットンのガーゼは、綿はサクガルで作っているにもかかわらず、不足気味だった。


***


 万年人手不足のサクガルに、若手でやる気に満ちあふれた陽成が来たのは、かなり僥倖だった。


 睡眠時間は一体いつなんだと、恫喝したくなるくらい、陽成は働いた。


 行政文書の作成から、予算の要求、外交会談のレジュメ作り、冬将軍への備え。いくらでもやることはあった。


 一たび小競り合いが生じれば、何日も徹夜で報告書を書いた。


 軍と外交部は一緒になって現場に当たった。それは、月書と陽成がいて初めて成功する試みだった。


 なにより、月書は最強なのである。内から裏切りに遭っても、かすり傷一つつけず鎮圧するだろう。


 よく働く二人のおかげで、前線はいつになく活気立っていた。


***


 火酒づてに、練兵場で訓練している地元の人々は、九曇の存在を聞いた。


「陽成さんとか、月書さんより頭がいいのかな?」


 というのが、皆の共通の疑問だったらしい。


 科学的知識を入れる勉強会に、陽成はほとんど役に立たず、月書も細かな公式を忘れていた。そこで白羽の矢が立ったのが九曇だった。


 陽成の部下である香霜こうそうが、お土産を持って九曇の家を訪れた。


 例によって母親は、息子顕示欲の権化となり、九曇を香霜に紹介した。


 暇だったから、九曇も、特に嫌とは言わなかった。


***


「アルカさんって、ご存知ですか?」


 月書は挨拶の後、最初に九曇に聞いた。


「偉大な先輩です。城市大に進学された、雷格のエースです」


「あの方は、本当に博覧強記でいらっしゃった。大学で、圧倒的な存在感でした。あなたにも通じるものを感じます」


 九曇は「恐縮です」と胸の前に手を置き、ぺこりと頭を下げた。


 高校で凄まじい成績を上げた月書だったが、大学の学問は修習に困難を覚えたこともあった。


 逆に、九曇は高校の勉強、特に大学受験に関しては、それほど凝った勉強をしてこなかった。でも、雷格で培った読書力は、驚くほどの効果で九曇の大学での成績を上げていた。


 九曇は、嘱託として、物理・化学・数学の勉強会の座長を務めた。


 陽成が用意した図書室の一室で、その日のレジュメを作り、参考図書を陽成に要望して、勉強会を進めた。


 月書が一番熱心に勉強会に参加した。


 いくつかの物理に関する計算過程は、月書の魔法魔術の演算に組み込まれることになった。


 数学の概念操作は、かなり難解だったが、押さえるべきポイントを強調すると、まずは一周という感じで、テンポよく講座での輪読をこなした。


 数学的概念操作は、魔法魔術の言語構成に深く関わることだった。


 魔法の術式構成の際に直感的にやっている演算が、実は数学を参照することでより明確に、より強力に行えることは、多くの局面で見受けられた。


 月書は驚いた。


 九曇は「枯渇」しないのだ。


 いくら話しても、ネタ切れになることがなく、記憶のあり方は鮮明で正確だった。


 本で読んだことはそのまま覚えているのではないかと疑いたくなるくらいの記憶力だった。


 わかりやすいわかりにくいの問題ではなく、提示される具体例は巧妙に問題の本質を浮き彫りにし、テンプレートではなく、かといって精密さを欠いているわけでもなかった。


 優れた文学を読んでいるような気すらしてくる。


 大卒で、西部戦線に配属され、かつて理工学部に所属していたという兵士でさえ舌を巻くほどの知識量。


「すごく楽しいです、九曇さん」


 戦線は、平時は時を忘れて勉強した。


 ロシア南方部隊には、手痛い一撃を加えてある。月書がいるうちは大体平時なのだ。


「魔術にご興味は?」


「僕には魔力がないんです」


「研究されたらいい。お手伝いしますよ」


「僕は、魔術が人を殺すのが嫌なんです」


 月書は、目を見開いて、口を開け、何かを言おうとして空気を吸った。言葉は出なかった。


***


「これ」


「?」


 陽成は金の入った封筒を九曇に渡した。


「これは?」


「謝金です。少ないけれど。大学の先生を呼ぶ時の謝金の目安があったから、それに準じて。大丈夫、正式なお金です」


「僕は、そんなにお金を使いません」


「美味しいものでも食べてください」


「陽成さんは、仲間に優しい」


「俺は、普通ですよ」


 交通費を抜いた残りは、母親に渡した。


「あらぁ」


 母親はすごく嬉しそうだった。


 夏の長い二ヶ月が終わろうとしていた。


 カンカン照りの太陽が、灌漑農地の水分を奪う。


 夜は月がまるで絵本の中の世界のように、星々を従えながら、夜空に輝いていた。


 太陽と月。陽成と月書はサクガルの天球を支えているのかもしれない。


***


 香霜は、夜の九時に、陽成と事務作業をしていた。万年人手不足の西部戦線で、一番ネックだった協働の風土が、徐々に醸成されてきたらしく、香霜は陽成の仕事を奪いに奪って、なんとかして陽成を休ませようとした。


 宿直室で寝ることが多い陽成に、「新婚なんですよね?」と圧をかけ、なんとか宿舎で寝てもらう。


 夜中に作業していると、練兵場で音がするので、パーカをかぶって拡声器で、「月書さん、夜なので演習はやめてください。繰り返します。夜の演習はやめてください」と呼びかける。


 ワーカーホリックだらけの職場で、気づいたら香霜は、自分が一番ワーカーホリックになっていた。


 香霜は二十五歳。月書たちとほとんど同じ年齢。月書と陽成が来るまでは、一人で西部戦線の事務を担当してきた。


 だから今は楽しい。


 陽成と机を並べて、他愛のない話をしながら、共に働けるのは、幸せ以外の何物でもなかった。


 大学でロシア語を学んだ香霜は、戦線の平和化に尽力していた。


 でもある時気づいた。


「中央はもしかして、戦争がある方がいいと、思っているんじゃないのか?」


 政治学上のタブーだったが「大陸に兵士となる若者はたくさんいる」ことと合わせて考えると、中央の結論は、戦線の膠着化と固定化だった。


「平和のコストってやつだよね。単なる平和より安くつくから。人の命と引き換えに統治はらくになるからね」


 陽成は小声で言った。真向かいのパソコンの端末を見ている。


「政治のために、人が死ぬんですか?」


「だって、人民は尽きることがないほどたくさんいるじゃない」


「陽成さん」


「ごめんごめん、冗談だよ。強ければいいんだ。強ければ。そのために月書はここにいるんだから」


「北城市空襲を防いだ功労者が、今度サクガルで、一体何をするんですか?」


「俺たちは、結局砲ではなく弾、戦略的存在ではなく戦術的存在だ。今自分のやっている仕事がどれだけ理想から遠くても、香霜の存在は何にも代え難い。俺たちにしかできないことがあるから、俺たちはここにいるんだと、思いたくないか? 九曇さんも言っていたじゃないか、手元のことをコツコツと計算するしか方法はないんだよ」

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