百二十一章《サクガル》
「制約の言語回路」百二十一章
夏休みの長い期間、九曇は帰省していた。
久々に本を読まない生活をしたいと思って、飛行機に乗った。
大陸の西のサクガルという地域。自然に、魯迅の『故郷』の書き出しを思い出す。
父は頭のいい人だったと聞いている。人のために働く人だった。
母親は、凡庸な人だ。九曇は、母に言われるがままに、小さい頃は勉強していた。
幸いというかなんというか、九曇は優秀だったから、母親の漠然とした学問の道筋に対する空想に、概ね合致して歩みを進めることができた。実にラッキーなことだった。
勉強してみると、母親の考えているルートは、およそ印象的なものでしかないことに気づく。でも、そのことをぶつけたい時には、もう母の元を離れて雷格にいた。
雷格は、畑のようなところだ。満遍なく水が与えられ、養分が行き渡る。
落第ということは原理的にあり得なかった。何を読もうと肯定されたから。
人生の全てを賭けても本は読みきれない、構造上無限にある本を、ただ手にするだけ。
雷格は、教育ママのお小言のシェルターとして機能していた。
授業は普通の中高と同じ。ただ、南では別格だった。
***
サクガルに帰ると、母親は知り合いの子の勉強を見てやってほしいと、さりげなく言った。優秀な息子を持った虚栄心は、隠しきれないらしい。
大学受験が控えた高校生が来たのは、まだよかった。
よもや座ることもできない小学生を机に縛りつけることを頼まれるのかと思っていたから。それがサクガルの現実でもあった。
「兵隊にはなりたくない」
というのが、サクガルの女の子、火酒と、男の子、龍許の勉強する理由だった。
西は広大な灌漑農地であり、島国との戦争の人員供給地でもあった。
最近城市大出身の鬼教官がやってきたと、子供たちは噂で聞いて恐々としていた。
月書は、赴任したサクガルで、まず徹底的に新兵の言語を鍛えた。
学のないというと可哀想だが、教育水準の低い新兵に、島国の言葉を叩き込むのは拷問に近い。
教師はその夫の陽成だった。
陽成の気さくで、仲間意識の強い話し方は、かなりウケが良く、困難かと思われた新兵訓練は順調だった。
陽成は月書の厳しいところをフォローして、結果的に強力な軍隊を作ることに一役かった。
月書は夜に塾を開いて、勉強に目覚めたが、本も先生もいない新兵に、頭の使い方を教える。
術式や魔法もなんでもござれ。天才月書の独擅場だった。
「最近、練兵場からはすごい音がするの」
九曇の母親は言った。
九曇自身も、今まで聞いたことのない種類の音を何度も聞いた。
火酒から、首都の教官が来ているらしいことを聞いた。
「教官?」
「うん。城市大を出て、軍で左遷されたんだって」
「それは、相当頭が良くて強いってことだな」
「どうして?」
「頭がいい人は、邪魔なんだよ」
「そうなの? でもそうすると、人は何で勉強するの?」
「さあ、僕はその理由を考えたことがないな」
「またまたぁ」
「本当にそうなんだ。理由なんかないよ。だって、理由が必要ってことは、本当はやりたくないってことでしょ。理由探しほど惨めなことはないよ」
「特権階級って感じ」
「火酒と同じだよ。特別な身分っていうのは、もうこの世界にはないんだ」
「そうは思えないけど」
「全て、外見上のことだよ。見かけはよく嘘をつくから」
火酒は、でもよく勉強した。
勉強する習慣がないだけで、頭は悪くない。
龍許の方は、やる気なく、いつもガクッとうなだれている。友達と遊びたいのだと言う。でも友達はみな、受験して東へ行くからと、演歌のようなわびしさで、嫌々、本当に嫌々勉強していた。
そういう輩はほっておくに限る。諭しても悪態をつくだけだ。コミュニケーションがもったいない。
母親からせっつかれても、九曇は適当に返事した。
「お世話になっている人のお子さんなの」
「そう? でも、彼はやりたくないらしいよ」
「表向きはそうかもしれない。でも、せめて大学だけはって」
「子供はそう思ってないみたいだから」
それだけで、母親はヘソを曲げた。
翌日、龍許のところへ行く。龍許は、少し話したそうにしていた。
ただ、九曇は、その「話したそう」な空気が、嫌いだった。
単に勉強から注意を逸らしているだけだというように思えたから。
龍許は、客観的な評価は置いておいて、自分のことを頭がいいと思っていた。
人のことは徹底的に馬鹿にしていた。
特段努力はしない。本もほとんど読んだことはない。勉強もほとんどしていない。
むしろ、頭がいいとされている九曇を、侮りさえしていた。
でも、九曇はその一点だけ、龍許に希望を見出していた。
規範から逸脱した部分が、彼特有の個性だったから。
例えば、謙虚であることとか、慎ましくあることとかは、資質としては一部の人間に偏在していて、あまねく皆が持ち合わせているわけじゃない。
だから、それも人であり、これも人だ。
「競争は好き?」
「いんや?」
「今が、ポイント・オブ・ノー・リターン。学びは積み重ねだからね。そろそろやらないと、追いつかないよ」
「別に俺はいいんだ。友達はみんな東へ行く、その潮流が、嫌なだけで」
「つまり龍許は、翻ってとても真面目だということだ」
「俺が真面目?」
「よく、自分のことを知っている。つまり、君は自分が勉強に向いていないことを、隠すどころかさらけ出して誇っている。この大陸という学歴社会で、それをさらけ出せるのは、人生に正直だね」
「それ、褒めてないだろ? 皮肉か?」
「今、一人遊びの方法を教えている。隣に人がいないと勉強もできないのか?」
「一人遊びってなんだよ」
龍許は唇を尖らせる。
「勉強に目的なんかないんだ。人生はゲームじゃない。遊びなんだよ。赤ちゃんが積み木で遊ぶのと、勉強は全く変わらない。与えられたパラメータで満足するゲームじゃない。自分でその意味を考えて作る遊びなんだ」
龍許は疑問符を頭に浮かべた。九曇の言っていることの三割もわからない。
「先生、勉強が好きなのか?」
「勉強してないと暇だからね。遊びさ」
「どうすりゃいい?」
「孤独に耐えることだよ」
「先生に友達がいないだけだろ?」
九曇は笑った。それは確かにそうだったから。
「あとは、遠い目標ではなくて、時間的に手前にある目標を作って、片付けていくことかな」
「やけに当たり前のことを言うな」
「君はすぐ忘れるだろ?」
「馬鹿にすんなよ先生、見てろよ」
「友達のアカウントは一旦ミュートにしてみたら?」
それは、九曇が初めて言った、具体的なアドバイスだった。
すぐに端末を触ると、龍許は友達のアカウントを削除した。
龍許の目には闘志が宿っていた。
「ゲームアカウントも、もう必要ないんじゃない?」
「先生、……つけ上がるなよな。わかってるよ」
たったその二つのことで、龍許は勉強に熱中した。友達と遊ぶことやゲームをすることに忙しかったのだ。
九曇が膨大な量の宿題を出しても、龍許はやり損なうことがなかった。
二人は、ことにあたっては正対した。助走をつけることに成功した龍許は、気がつけば立派な「龍」になっていた。
九曇は、最初に龍許に発破をかけた後は、あまり干渉しなかった。変な依存関係を作ることは本意ではなかったから。
***
サクガルの夏は涼しかった。
高原に、高山から吹く風が、優しく当たっていた。
九曇は懐かしさを覚えた。山々を見ると陰翳がくっきりと山肌に刻まれていた。どこへ向かうとも知れない、自分の人生の背後には、この山々があり、この涼しい高原がある。
母親は、上機嫌だった。知り合いの息子が勉強するようになったと言われ、誇らしい気持ちになったらしい。
たまたまハマっただけで、九曇には何の意図もなかった。そういう運びになることを誰も知らなかったし、特に因果もなかったように思われた。