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百二十章《閉鎖関係》

「制約の言語回路」百二十章《閉鎖関係》


 大学の真ん中に走る車通りが、歩行者天国になり、カフェがパラソルを開いて席を用意し、同時に古書市も開催された。


 五月の薫風が、もう半袖でもいいと、大学生に告げていた。


 琉璃は半袖短パン、肩かけパーカーといういでたち。綺麗はスキニージーンズにTシャツをタックイン。背が高いのにさらに厚底の靴を履き、周囲を睥睨していた。


 綺麗に声をかける男子がいるのに、琉璃は少し驚いていた。


 綺麗が研究室訪問で受け入れてくれた情報系・情報学環の男子学生は、どうやら趣味が合うらしく、ゲームやら漫画やらの話で綺麗と盛り上がる。


 琉璃は雨情の同期・先輩とすれ違いざまに手を振った。


 祭りのような時間。


 外国語のクラスで一緒の同期がすれ違うと、琉璃から声をかけることもあった。


 パラソルの下でタバコを吸って本を読んでいると、琉璃は声をかけられた。


「琉璃さん、タバコ吸ってると、またお母さんに叩かれてしまいますよ」


「星声」


「どうもこんにちは」


「制服じゃないんだね」


「ええ、私ももう大学生ですから」


「ようこそ交大へ。同期はきちんと受かってる?」


「八分二分ですね」


「上々だね」


「ええ。それでは、琉璃さん、ごきげんよう」


「ごきげんよう」


 星声は琉璃の後輩で、今日はしっとりした髪にウェーブを走らせていた。白いシャツと黒いズボンで、かなりかっちりしていた。


 星声はそれほど背が高くなく、腰はやわらに細い。かけているトートバッグは結構大きくて、ちゃんとしたブランドのもののようだった。


 星声は無然市場でも、いつも制服だったから、私服をそんなに綺麗に着ているとは思わなくて、少しびっくりした。


 琉璃は服にこだわらないから、余計にそう思う。


 星声は、小顔で、髪を短めに切って、革靴を履いていた。


 髪は深く黒を湛えていて、革靴もよく磨かれていた。


 シャツは体の大きさにぴったり合ったもので、胸の膨らみは慎ましい。


 後ろ姿がとても可愛らしかった。


「もっと話したらよかったのに」


 綺麗は気を利かせて言った。


「星声にも予定はあるだろうから」


「控えめだね、琉璃」


「まあね。お嬢様、最近知り合い増えた?」


「いんや? 特段」


「さっき話していたのは先輩?」


「情報学環。この前見学に行ったら、歓迎してくれたから」


「お嬢様、さすが大陸人ね。情報リテラシーが高い」


「琉璃がアナログすぎるだけ」


「それは否めない」


***


 九曇と路淳は一週間ごとに行う読書のサマリーの共有をパラソルの下でやっていた。


 複雑なことをやっているのに、何一つとして気取らない。華やかさがなくて、知性のドライブとしては物足りないのは、知識がつきすぎて、負荷を負荷として受け止めない強靭があるから。


 専門知識のいくつかの確認を終え、生き生きとしているとはお世辞にも言えない、疲れた目を閉じて、九曇はコーヒーを口にした。


 二人で、ずいぶん遠くまで来たが、この先の道も平坦じゃない。


 九曇はどこかで一息つきたかった。


「疲れてる?」


 路淳は九曇に聞いた。


「少しね」


「お稽古事は、やめると却って辛いよ」


「やめるなんてとんでもない。少しぼんやりしていただけだよ」


「九曇は、いつも何かを庇いながら、前に進む」


「なんだろうね。あんまり意識してないけど」


「意識したら、息ができなくなると思うよ」


「わかるの?」


「なんとなくね」


 路淳は文字に指を這わせ、九曇を見なかった。


「孤独とか?」


「孤独なの?」


「そりゃそうさ、友達は少ない」


「それは孤独の必要条件でしかない」


「わかってる。言ってみただけ」


 九曇も顔を上げなかった。そのパラソルの下だけ、気温が七度くらい低い。


「よく考えてみて。都心から家へ帰る時間、夜の八時。私たちは夜に、都心へ向かう電車を待っている。それが、私たちが孤独ということ」


「よくわからない。つまりどういうこと?」


「この国は、人ひとりの幸せなんてどうでもいいの」


「いつから路淳はそんな思弁的なったんだ?」


 路淳は本から目を離さず、笑いもしなかった。


「でも確かにそうだな。幸せがこの国で主題になったことなんて、一度もなかったかもしれない」


「チラッと見てみて、隣のパラソル。美人が二人。私たちと同じように本を読んでいる。後輩なり先輩なりと話している、この数十分で何人か」


「確かに」


「背の高い方は、北の出身。言葉遣いからそれとわかる。背の低い方は、南。地元出身。文化とか生活様式っていうのは、人間関係にまで影響するのね。そういうの、あなたは妬ましいと思わないでしょう」


「僕は僕だからね」


「あなたは孤独ではない。少なくとも私は隣にいる。私はそう思いたい。でも私のこの言葉遣いからもわかるように、九曇にとっての私は、木の人形かイルカのぬいぐるみでしかない」


「まさか」


「ただ、私は何も九曇に、血の通ったコミュニケーションを望んでいるわけではないの」


「血が通ってない? 僕はそんなに冷血かな」


「人から体温を奪わないで」


「ごめん。気をつけるよ」


***


 夜は屋台が出て、車通りは人であふれた。


 角煮飯をかき込んで、琉璃はカクテルで酔っ払った。


 綺麗の手に手を合わせ、指を絡めて繋いだ。綺麗は酒に強いのか、しこたま飲んだのに酔う気配がなかった。


 いつもふわふわしている琉璃だが、今日は実にふわふわしていた。


 猫みたいに綺麗にすりすりする。二人の体は甘い匂いで包まれていた。


 琉璃姫が甘えているのに、綺麗はほとんど琉璃を気にしていなかった。とりあえず食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んでいた。


「おや、綺麗氏ではないか」


「おお、風屋氏」


 風屋かぜやは情報学環所属の三年生。日系で、綺麗とはかなり話が合う。


「琉璃氏はおねむかな?」


「お子様だからな」


「お子様じゃないやい、むー」


 琉璃は綺麗の二の腕に胸をくっつける。


 綺麗が風屋と話していると、琉璃はつまらなそうに綺麗の手を取って振る。綺麗は全く取り合わない。琉璃はプンプンとして、なんとか注意を引きつけようとするけれど、綺麗の酔っ払い対応はマニュアル通り。余計な優しさで関係が壊れるのもよくない。


 風屋も知り合いを呼び、琉璃と綺麗を囲んで、宴会になった。


 先輩がかなり気前よく奢ってくれるから、琉璃も綺麗も気持ちよく飲んでいた。臨界点に達すると、琉璃はふぎゅーと座り込み、慌てて綺麗は琉璃の手を引いてトイレに向かわせた。


「お嬢様、ごめん」


「琉璃、酒に弱いのね」


 胃に滞留していたアルコールを吐き出して、琉璃はだいぶ意識を取り戻した。


「すっきりした?」


「なんとか。無様すぎる」


「全然、そんなことないよ」


 琉璃は大きくため息をついた。


 夜気は光を浮かべ、船頭の死神が魂を狩る準備をしていた。


***


 不満顔をすればいい時代なんて、この身に訪れたことがなかった。そういう方面の発露は、ありていに言えばタブーだったんだろう。


 西で九曇が過ごした少年時代が、深く彼を規定している。


「笑うことも泣くこともない?」


「笑ったことも泣いたこともないよ」


 その時の表情は確かに笑っていたが、それは、本当に笑っているわけではもちろんなかった。


 真実なんてものがあるとは、九曇には信じられなかった。本当の感情に、本当の感情が返ってくるなんて、小説の中のことで、くっきりと浮き上がる人間的自我なんて、おとぎ話だと思っていた。


 悲しくなったことも嬉しくなってことも、たぶん厳密には経験していない。


「そのことを、九曇は特別だと思う?」


「どういうこと?」


「そういうのってありふれた、単なる欠落の経験なんじゃないの? 欠落を埋めるために、初めて感情が生まれるんだから。最初からある感情なんて、頭の悪いゲームの設定かなにか。たとえ人生がゲームの「ような」ものだとしても、人類はゲームをやっているわけじゃない。ゲームみたいに能力値が最初から機械的に振られているわけではないんだから」


「気取るなと」


「そうよ」

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