十二章《歴積》
「制約の言語回路」十二章《歴積》
与えなければならないと、緻里は思う。何かの関係で受け取るだけではいけない。
でも何を与えればいいのだろう?
何も持ってはいないのに。
***
海都の街に出て、買い物をする。
靴や服を買い、夏を準備する。
緻里は最近、よく空を飛ぶ。湿った空気が緻里を呼ぶ。授業中も意識は空にある。海風を切りながら少しずつ遠くへと体を運ぶ。
今年初めての積乱雲が海上に現れ、浮雲の中の氷の冷たさを感じ取る。
雲の中で視界が悪くとも、気流を読めば大概のことがわかる。
背中にじんわりと汗がにじむ。
ひらりと中心の裏山に降りる。
そこで風は止む。
近くで音楽が聞こえてくる。トランペットが心地よいジャズを奏でていた。
裏山から大学と海を眺めることのできるベンチで、音はとても滑らかに、少し酔うような空気の入れ方で、彼は確かに空気を掴んでいた。音が響き、天高く飛翔する。
緻里はまるで自分が鳥になったかのように、音のはばたきを目で追いかける。
ひとしきりのジャズが終わった後、緻里は拍手した。
穏やかそうな顔つきの、同い年くらいの男子学生は、ゆっくりとお辞儀をした。
にぱっと、恥ずかしそうに笑う顔が、なんとも言えず可愛らしい。
「緻里くん、だよね」
「どうして?」
「なんか頭良さそうだって、みんな言ってたよ。にはは、やっかみだよね。でも、僕もやっかみたくなるよ。さっき空を飛んでいた。観測体制はもう整えられているよ」
「観測体制って」
緻里は笑った。
「もちろん、冗談だけど。僕は歴積といいます。別に覚えてくれなくてもいいんだけど、せっかく演奏を聞いてもらったから」
歴積はベンチの上に立つと、高らかにトランペットを吹いた。
風を切り刻みながらトビが舞い降りた。歴積の方にとまる。
柔和な表情の奥に、緻里は微かな野性を感じ取る。
「大きな鳥だね」
「うん。この辺りのトビはとても大きい。タカやワシと見紛うくらいだね」
「歴積くんは、タカも操れるの?」
「操るというか、鳥は友達だよ。ねえ?」
歴積はトビに微笑んだ。
「優しいんだね」
「優しいのは、当たり前だよ」
その言葉自体が持つ語感は、なんとなく冷たいものだった。
「そうかな」
「心を持っているものだけが優しくなれるんだから」
「心?」
「うん、感情でも、精神でもない。心。大学中心の『心』の字だよ」
心について考えたことはなかった。しばらく黙考する。
「お話できて嬉しいよ、緻里くん」
「こちらこそ、いい演奏を聞かせてくれてありがとう。歴積くんは、これから山を降りるの?」
「うん。暗くならないうちに。緻里くんが羨ましいよ。鳥になりたいという僕の夢も、緻里くんにかかれば大したことないんだもんね」
緻里は曖昧に笑って誤魔化した。才能についての言及を、昔はなんとも思わなかったのに、ここにきて、というのは制約を感じるごとに、自意識が膨らんで言いふらしたくなる。もちろん理性はそれを押し留める。でも、人目につくように飛ぶことなんて、高校生の頃はなかった気がする。
自信がないのかもしれない。
「それに」と歴積は続けた。「風を操るなんていう、とても汎用性の高い能力は、やっぱり羨ましいよ。ああごめん。そんな悲しそうな顔をさせるつもりはなかったんだ」
歴積の言葉が理解できることは、緻里を裏側から苦しめた。
歴積はそのトランペットの演奏技術以上に、眼光紙背に徹する、人間の微妙な表情に対する観察眼があった。
短い対話からも、気取らないせりふと簡潔な描写があり、なにより「緩い」空気を体にまとい、人を油断させるところがある。
「行っていいよ」
トランペットをしまい、短い口笛でトビに指示をする。
微妙な仕草で一緒に山を下りることを誘う。下山の間、会話がない時、歴積はハミングで歌を歌っていた。楽しげで、緊張というものがない。
明かりが降りたキャンパスに着くと、カフェテリアに寄って二人で夕食を食べる。
「僕はいつも考えるんだよ、緻里くん。果たして凡庸な人間はいるのかなって……僕は反語が嫌いで、というのは、不誠実だと思うからなんだけど、だから、僕は全ての人が凡庸だと思うんだ」
「逆説的な反語だ」
スパゲッティを口に頬張りながら、緻里はうなずいた。
「全ての人は人であると言って差し支えない。どんな人も人間を超えられないし、誰も人間に劣後することはできない。と、ここで、じゃあ人とは? 人間とは? という疑問が出てくるよね。……『食べる者』これは野蛮だね。『考える者』これはあまりに高尚だ。緻里くんならどう定義する」
「『時間を押し広げる者』」
「『認識する者』ということ?」
「歴積くんは、頭がいいんだな」
歴積はにははと笑った。
緻里はカフェテリア内のガラスに映る自分を見た。柔らかい照明が吊り下がっている。満席というほど混んではいないが、そこそこ人は入っている。動くもの、響く声、鳴る靴のかかと、食器の当たる音。急に劇場めいてくる。
「知覚が全てだと思うには、人間が処理する情報は多く複雑で、知覚の不完全を喧伝するには、人はあまりに知覚に頼りすぎているね」
「言葉に形がないのが問題なんだよ」
緻里の言葉に歴積は笑った。
「緻里くんの言葉は見えるよ。感触があるね、気づいてないでしょ」
緻里は、その歴積の言っている意味を判じかねた。「言語は行為だから。オースティンも言っていたよ」それからまた歴積はひとしきり笑った。「言葉は、不完全ではないと思うよ。人間の身体という驚くほど可塑性のある容れ物に挿入された、汎用性の高いソフトウェア」
「汎用性」
「誰でも使える。言葉を学べば、誰でも芸術に接続できる。ねえ? 人も殺せるよ」
歴積は発言の後に少し逡巡し、ほんのんずか焦りを露わにした。
「でも、意味に対する答えはない」
緻里は語調を強めて言った。「ないと思う。殺人を遂行する力はあっても、力そのものは無意味だと思う」
「じゃあ言語は純粋な行為ってこと?」
「歴積くんは、言葉に憧れがあるんだね」
「悔しいな、看破されちゃうとは。海都には優秀な学生がいるはずなのに、満足に会話できたためしがないから、僕は嬉しいよ」
「こういう話はさ」
「うん」
「年を経ることにできなくなるよね。年齢のせいじゃなくて、昔あれほど話していた学友が、違う顔をしていたり、忙しかったり」
緻里は自分がこんな風に話すことに驚いた。言雅に会ったからだろうか。自分の話し方に感心してしまう。
「資格がないってずうっと思ってたんだ。僕は田舎者だからね。わかるな。きっと緻里くんの友達はとても優秀だったんだよね」
「それ以上に仲が良かった」
「大人にならないと思索をしてはいけないなんて、分相応不相応の思想なんて、遠慮しなければ、もっと楽しかったんだろうなぁ」
「友達……大人には友達はいないのかな」
「怖いよね。赤茶けた夕日を共に見る人がいないなんて」
緻里と歴積はカフェテリアの閉店までおしゃべりをした。二人は友達になろうとしていた。緻里は、そういえば嬢憂はどうしているだろうなんて思いながら、三日月の強い光を見て、違和感を覚えた。サイレンが鳴ったのは午後九時過ぎで、苛烈なる夜間の爆撃が始まった。