百十七章《春付和》
「制約の言語回路」百十七章《春付和》
大陸の龍井府電気街よりずっとディープ。第一都市の春付和。
もう「サブ」カルチャーとは呼べないほど、島国の本流になった文化の聖地。
ゲーム屋を三軒当たったが、どこでも「ゆず雲」は売り切れていた。
綺子の邪魔をするまいと別行動を選択した雨猫。
雨猫は喫茶店かと思いふと入ったメイド喫茶で、メイドさんの歓待を受けて、浮かれていた。
雨猫は英語と大陸語しかできないが、メイドさんたちの言語リテラシーの高さは、それを問題にしなかった。
あれよあれよという間に、メイドさんの衣装を着せられ、メイドさんに扮して、店で立ち回った。
「雨猫です」
まるでメイドさんになるためにつけられた名前。綺子の予知能力にはただただ驚くばかり。
故南勢観光客が来ると「あめねこー」と呼ばれる。「にゃー」と返事すると、客より先にメイドさんたちが沸いた。
雨猫の大陸語は海城訛りだったから、故南の人には雨猫が故南人でないことはすぐわかる。
でもそんな野暮なこと、誰も指摘なんかしない。
雨猫は、わずか数時間の活躍で、メイド喫茶の評判をかなり高めた。
看板に「故南語使えます」というサインを書き、それに釣られて何人もの故南人がそのメイド喫茶に来店した。
雨猫の頭にはカチューシャ、雨猫の長い茶髪に似合う色のもの。
英語でおもてなしをするメイドさんに、英語でのせりふを教えてもらい、いい感じに大陸語に翻訳。
わちゃわちゃと楽しく接客していると、一人お客さんが入ってきた。
「あめねこー?」
「ち、ちがう。綺子、これは、ちょっと誘われただけで、ちょっとだけだから、そのッ」
「かわいいよぉー?」
「違う」
「雨猫ちゃんのお連れ様ですか? ようこそ、おかえりなさいませ! ほら、雨猫ちゃん?」
「う、くっ、き、綺子、おかえりなさいませ」
***
綺子は春付和を歩き回って、一軒のゲーム屋にたどり着いた。
そこは、個人商店のようで、人はいるものの、混雑しているわけではなかった。
「「あった」」
声がかぶった。
「「え?」」
隣に女性が立っていた。
「ゆず雲?」
女性が聞いた。背の高い、ボブカットにしている。前には子どもを抱えている。
「はい」
「これ、ラス一って書いてあるけど」
「そうですね」
「? 島国の人じゃないの?」
「ええ、まあ」
「故南の人じゃないよね?」
「ええと」
「まさか、大陸から来たの?」
「あの、さっきから何を言って……」
「わざわざ大陸から来たの? ゲームを買いに?」
「はい……」
「そっか」
子連れの女の子はしばらく考える仕草をした。
綺子は自分と同じくらい背が高い女性に会ったのは久々だった。
「いいよ。持っていって。きっと島国では再販されるから。……大学生? 島国の言葉がとても堪能ね」
「大学生です。日系なので。お子さん、可愛いですね」
前に抱えている子は、綺子をじっと見ていた。
「学生結婚。おすすめはしないけど」
綺子は曖昧に笑った。「月雪、ほら、こんにちはー、は?」
子どもは目をぱちくりとさせて、綺子を見つめていた。言葉を発する気配はない。
「綾衣、買い物は終わった?」
女性を呼ぶ声。
「終わったよ飾絵。不首尾だけど、仕方ない」
「ん、どうしたの?」
「いいや、どうでもいいこと。ほら行こう?」
「あゆく」
子どもは唐突に声を上げた。
「綾衣、月雪歩くって」
女性の旦那が言った。
「春付和じゃ危ないよ」
「あゆく!」
「手ぇ、離さないよ?」
「あゆくの!!」
「はいはい」
だっこから下ろすと、子どもは綺子に手を振った。
「お姉さんにじゃあねって」
「じゃあね」
綺子はその三人家族を見送った。胸元にはゆず雲があった。それだけで、島国の印象はうなぎのぼりだった。
***
雨猫はメイドさんたちとメッセージアカウントを交換して、特に英語が堪能なメイドさんと、チャットを楽しんでいた。
綺子は早速「ゆず雲」をやっていた。
雑然としたホテルの部屋。
どうやらゲーム機とその充電器を出すために、綺子が荷物をぶち撒けたらしい。
でゅふふ、にたにた、と、美少女たちの可愛い絵に綺子は典型的な反応を示す。
(私の方が可愛くない?)
綺子を横目に見ながら、雨猫は納得がいかない様子。
「あめねこー、ジュース買ってきてー」
「お嬢様、何味のものをご所望ですか?」
「ぶとうがいい」
「承りました、お嬢様。暖かくしてお待ちください」
雨猫は、ダウンジャケットを羽織ると、タバコを吸いながら夜道を歩いた。
ホテルを出て気づいたが、先にフロントで情報を仕入れておくべきだった。
自動販売機を睨んでも、ぶどうジュースは見つからない。
皇居のそばからだいぶ離れて、コンビニを見つける。
「ぶどうジュースありますか?」
なんとか島国の言葉で言ったのだが、伝わらなかったので、英語で言い直した。
「ぶどうジュースを探しています」
「ワインではなくて?」
「そう。友達が飲みたいらしくて」
「それはきっと、上等なものを希望しているのではないですか? ここはコンビニエンスストアです」
「上等なものを希望しているかはわからないのですが、ここにはぶどうジュースはない、ということですね?」
「少し離れたところに、スーパーマーケットがあります。そこでお買い求めください。ここはコンビニエンスストアであり、グローサリーストアではありません」
店員の英語は相当程度のレベルだった。使う単語も文法も発音も、簡便以上のものではなかったが、必要な情報を親切に教えてくれた。
「ここがこの店の前の道、真っ直ぐ東に四ブロック。少し遠いですがそこを折れてください」
地図を見せてくれる。
「ありがとう」
雨猫はとことことその道を歩き、「業務用」と書かれた看板を見て、首を傾げた。
中に入る。雨猫は店内にそれなりに人がいるのに驚いた。
ぶどうジュースを探すと、それなりに値の張る美味しそうなものも置いてあった。
「ふむふむ」
一本選ぶと、お会計に持っていく。
レジの示す金額を払い、ぶどうジュースを片手に今来た道を帰っていく。
遠くで犬の遠吠えがした。
歌を歌いながら自転車で走り去っていく若者。
雨猫はタバコに火をつけると、美味そうに吸って煙を吐いた。
***
ガチャリとホテルの部屋の扉を開けると、その扉が綺子の額に当たった。
「あ、あめねこぉ」
「どうしたの?」
「帰ってこないから心配して」
「綺子に言われてぶどうジュース買ってきたんだけど」
「え?」
「え? って?」
「なんでもない、ありがとうありがとう」
「冗談のつもりだったとか?」
「まさかまさか。ありがとうありがとう。遅かったから、誰かに襲われたのかと思った」
「そんな治安の悪い国なの?」
「島国って治安いいって言うけど、実際のことは知らないから。雨猫可愛いし」
「まあな」
ぶどうジュースの栓を抜き、グラスにひたひたと注ぐ。
かんぱい!
「美味しいな」
「よくこんな美味しいジュースが見つかったね」
「業務用スーパーマーケットだって、なんか意味がわからなかった」
「レストランがお客さんなんじゃない?」
「ああ、そういうこと? それは高級なのか、それともリーズナブルなんだろうか?」
綺子は手元の端末を触って、業務用スーパーを検索する。
「リーズナブルらしい」
「このぶどうジュース百元くらいしたけど」
「高級レストランも品物を買うからかな?」
「まあいいけど。お嬢様、満足?」
「満足!」
「明日はどうするの?」
「第一都市めぐりかな? 雨猫は何したい?」
「大陸料理が食べたい」
「賛成」