百十六章《神楽》
「制約の言語回路」百十六章《神楽》
垣宮には大雪が降っていた。
湖畔の旅館からは湖に吸い込まれていく雪が見えた。
食堂の朝食で焼き魚を食べ、随分と和食に慣れたね、と、綺子は雨猫に言った。器用に骨を避ける雨猫と、骨まで噛んで食してしまう綺子。海苔や納豆も美味しく食べている。
雨猫は外の風景をスケッチし、綺子は短いエッセイをノートに書きつけていた。
その旅館に泊まっている人は、長逗留している人が多かった。
露天の浴場に行くと、いつも同じ人が湯に浸かっていた。
雨猫は露天風呂には行かず、部屋のシャワーで済ましたが、綺子は大浴場で体を温めた。
少し年上の、社会人に見える二人組とよく顔を合わせる。
「大学生?」
二人組の一人は湯に浸かりながら、綺子に聞いた。
「はい。お二人は?」
「社会人。……といっても、あんまり稼いでないけど。日本人じゃ、ないよね?」
「故南から来ました。でも日系ですよ。もちろん第一言語は故南語ですけど」
二人組の片方は、綺子に興味を持ったらしく、梓という名前だと明かした。
「綺子です。どうぞよろしくお願いします」
「本名?」
「いえ、あだ名です。本名は島国ではちょっと直接的な形容動詞なので」
「ふうん」
梓はしばらく考えた。綺子という名付けは玄人っぽく、漢字がわからなかったが、形容動詞というヒントでひらめいて、何回かこくこくとうなずいた。
梓の相方は、綺子に全く興味がないみたいだった。肩に湯をかけながら、雪を見て手で受けている。
「島国の、どこの出身なんですか?」
「第一都市。今は、神楽に住んでいる」
「神楽は、明日泊まるところです」
「いいところだよ。天然の要害で、空気は綺麗だし、気難しい人もいるけど、まあ悪くはない。地元に長く住んでいる人も多い。世襲的といえばそんな感じもするけど」
「端的に言ってお金持ちが多い」
「ははは、その通り。私は、実家は第一都市だから、ああいう高級住宅街には憧れるよ」
「梓は、第一都市の高級住宅街出身でしょ?」
相方がつぶやいた。
「そうとも言う」
「私、先に上がっているから」
「私も上がるよ。お疲れさん。相手してくれてありがとね」
梓は綺子に手を振って湯から上がった。
***
「タバコが切れそうだ」
雨猫が苦悶の表情を浮かべて言った。
「それは大変」
「綺子、わかってない。全然わかってない。どれだけ私がこの旅でタバコ節約をしているのか、わかってない」
「もうちょい節約頑張ってね」
「鬼ぃ」
「今日は電車に乗りっぱなしだから、タバコなんて吸う暇ないよ」
「次はどこ?」
「神楽。第一都市の隣の県の町だよ」
西都から降り続いていた雪は、山々の境界を幾重にも越えると、弱まりやがて降りやんだ。
山がすぐのところに迫る、海岸沿いを電車は走る。遠くに船が見える。
波は高いようには見えない。海風にさらされて、錆びた看板には味がある。
かつて栄えた名残がそこここに落ちている。
行く人ばかり増えた。待つ人はそこにはほとんどいない。待つ間に老いて、やがて死んでしまう。帰ってくる人を見ることなく、死んでしまうのだ。
そういう人がいる場所を訪ねる人はいない。そういう駅には誰も降りない。
海岸から離れ、トンネルをいくつか抜けると、ふと、平野に入ったことがわかる。
車窓から文明の香りが漂ってくる。人々の生気が伝わってくる。
「島国の電車とか駅っておかしいよね、まるで生きているみたい」
接続して乗った「神楽線」の車両はずいぶん新しかった。
乗客には若い人が増え、海外からの客も見かけた。綺子は自分のことをそういう外国人だと思っていたが、雨猫はそれとは異なる自意識を持っていた。
それは、この旅が旅行であっても、観光とは言えないことが理由だった。
訪ねた名所旧跡は特にない。ほとんど電車の中だったり、旅館の囲碁盤の前だったりした。
電車の速度は、景色を楽しむには少し速く、歩くとそのスピードは空気感を掴むには遅すぎた。
雨猫は何度も後ろを振り返る。見逃した景色があるような気がして、首を伸ばした。
神楽の駅と街は、緑が深かった。冬でも色を落とさない垣根。
宿に向かって坂を登る。山の斜面に宿はあった。
後ろを振り返ると、遠くに駅が見えた。線路の上を走る電車の音が、振り返って初めて聴こえた。耳が前を向いているからだろうか。
雨猫は綺子の袖を引っ張り、綺子は振り返ると笑った。
見えない天蓋が、音を集めて星のように降らせているみたいだった。
空はあくまで低く、樹木は空を支えるように並行に高さを揃えて立っていた。
宿は一つの大きなリビングと、複数の個室を持つコテージのような建物で、リビングの背はとても高く、中二階があり、その中二階の窓からは、神楽の駅と電車をはっきりと見ることができた。
宿の室温は高く、セーターが暑いくらいだった。灰皿が置いてあって、タバコを吸うことができる。
雨猫が宿の管理人に「タバコを買いたいのだが」と英語で言うと、「銘柄は?」と聞かれた。
「そんなに重くなくていい。香りすぎない方がいいかも」
管理人は、カウンターの後ろの引き出しから、封の切れているタバコを出して、「試してみるといい」とまず一本差し出した。
それは、絶妙に甘く、雨猫の好みの味だった。
「よくわかるね。最高の味。四箱もらえない?」
五箱渡されて、「四箱だよ。いくら?」と聞くと、「宿代に含まれている」という答えだった。
それからしばらく雨猫はタバコを楽しんだ。灰をスケッチブックの上に落として、鉛筆で伸ばしたりして悦に入る。
「確かに美味しいね。雨猫が気にいるのもわかる」
綺子も一本吸って言った。
料理はリビングで供された。パスタやピザ、丸鶏を揚げたもの、新鮮な野菜のサラダ。
リビングはよく見ると、壁にレコードやCDが飾られていたり、本が詰め込まれていたりした。
メニューを選ぶというのではなく、どれだけ管理人がサービスするかに重点が置かれていて、満足する以上に満足した。
管理人は、客に干渉しないし、客同士の交流をことさら推奨するわけでもない。値段以上の奉仕であることは間違いなく、どこか他のところから収入があるのだろう。そうでなければ大盤振る舞いすぎる。タバコは高いのだ。
リビングは居心地がいいから、綺子も雨猫もそこでくつろいだ。
リビングにあるいくつかのテーブルでは、パソコンを開いて仕事をする人がいる。
どの人もこれまでの町にはいなかったタイプの、少し忙しい人だ。
カウンターに声をかけて飲み物を作ってもらう。細かい注文もできるから、カフェインを避けたい人も、むしろ入れて欲しい人も、アルコールがいい人も、甘いジュースがいい人も、なんでも御座れだった。
加湿器が水蒸気を散らし、暖房は快適な温度に設定されていた。耳を澄ますと、遠くに、電車の音が聞こえる。
雨猫は楽しそうにタバコを吸い、飲み物を口につけた。
雨猫は葡萄ジュースを飲んだ。甘くて、濃厚な葡萄ジュースで、おつまみにチーズとオリーブの実が用意されていた。
「綺子、島国はいいところね」
「運がいいんじゃない?」
「商売人の娘として、参考にしたい」
「でも、雨猫は大陸の方が好きでしょ? 私もそうだけど」
「ご明察ね。好きとかそういうわけではないけど、少し複雑な論理の網の目が、島国を覆っているのがわかる。怖いとも思う。こういうところで暮らすって、どんな感じなんだろうって、想像すると、綱渡りをしているような気がしてくるのよね。私は、大陸の公園で座りながら緩慢な死を迎える方がいい。でも不思議よね」
「ん? 何が?」
「でも島国の人たちは、こういう複雑な島国の中心都市で生きていくことを選ぶ」
「その話は、また明日。本当の島国の中心部、第一都市で話しましょう」