百十五章《縁林》
「制約の言語回路」百十五章《縁林》
西都の冬は雪が降ると本当に冷える。
島国での雪は、今日が初めてだった。
制服の上にダウンジャケットを着て、縁林は綺子を散歩に誘った。
雨猫は大陸語が話せる御子とおしゃべりを続けた。縁林の邪魔をしたくなかったのかもしれない。英語が使える言雅とも、楽しくコミュニケーションを取っている。
傘を持っていなかった綺子に、縁林は折り畳み傘を貸した。自分はジャケットのフードをかぶって間に合わせる。
「象限橋。鹿川に架かっていて、僕はここが好きです。北の山並みが綺麗に見えて」
山は雪化粧を施されていた。奥に深緑ののぞく山々は、兎の毛のようにふんわりと雪をまとっていた。
「縁林の、島国の高校生活は、どんな感じなの?」
「どんな感じ?」
「どんな授業が好き? あるいは気になる女の子はいる?」
「僕は、国語が好きです。気になる女の子……、そういう人はたくさんいます。みんな魅力的ですから」
「好きな作家は?」
「ヘルマン・ヘッセ」
「知らない。作家なんて気にしたことないから」
じゃあなんで聞いた、と言う代わりに、縁林は実に愉快だと笑みを浮かべた。綺子が質問するターン。
「女の子は、可愛い、綺麗、ミステリアス、賢い、どれがいいとかある?」
「可愛い子が嫌いな男は、いないですよ」
「私は?」
「綺麗」
綺子はにこりと笑った。
「西都大が近いの?」
「行きますか?」
「もしよければ。受かるといいね」
雪は地面につくとすぐに溶けた。積もるまでには至らない。粒の大きな雪。
***
西都大学は、島国で序列二位の国立大学。
古都である西都に広いキャンパスを構え、高い研究力が自慢だった。
学生の気質は至ってアカデミックで、対話の声が途切れることはない。
雪に降られたキャンパスは、とても静かで美しかった。
綺子は正門の写真を撮った。
島国の学生にとって西都大学は特別なのだと、縁林は言った。
「それはどうして?」
「異界のような場所ですから」
「縁林もそう思うの?」
「さあ、行ったことがないので。でもそういうイメージはあります」
「普通の大学って感じがする」
大陸の大学と比べると、風光明媚な感じはしない。
「海城交通大学は、自然豊かですか?」
「川が流れている。湖もある」
「それはすごい」
「ねえ、大学に行きたいと思う?」
「?」
「大学に行きたくないと思ったことはない?」
「どうしてですか?」
「いや、なんでもない」
縁林はしばらく綺子の言葉の意味を考えた。
「そう思ったことが、あったんですか?」
「まあね。今でも、想像する。大学に行っていなかったら」
「でも、それは面白いですね。島国の大学進学率は、大陸のそれとほとんど変わらない。大学に進学することをカジュアルに考えるのは、普通のことなのかもしれないですし、それほど深刻にならないから、逆に大学に行かないことが大きな選択になる。どの大学に行くかは、島国の学生はみんな、真剣に考慮していますけど」
「大学に入って何をやりたいとか、考えたことなかったから、縁林はどうなのかなって」
西都大学交差点にある和菓子屋で、和菓子を買って鹿川を歩きながら食べた。
「でも、綺子さんは、勉強するの好きですよね?」
「だからこそ、単位とか気にせず一人でやりたい」
「それって作業じゃないですか。誰かから教えてもらったら、自分の知らないところに行ける」
「図書館があれば事足りる。研究がしたいわけじゃない。何か成果を出したいわけじゃない。でも、縁林の言うとおり、大学は楽しいよ。景色は綺麗だし、人は好い。悪い場所じゃない、全然。城市大に行った同級生に会わなくていいしね」
縁林は、綺子の言うことの7%もわかっていなかった。景色を見る目の高さが違っていた。バックグラウンドも異なっている。そうするとだんだん嫌になっていく。
縁林の自意識は、綺子の正確な立脚点を見損なっていた。綺子自身もそんなに言及していなかったから伝わっていないのは当然だが、綺子は大陸の選りすぐられたエリートなのだ。
綺子のさりげない言葉遣いがそれを巧妙にカモフラージュしていた。島国の人間が大陸を見る時の典型的なバイアスに、縁林は煙幕を張られていた。島国の人間が、頭がいいから第一学府や西都大学に行くのとは、少し違う。
大陸の人間と島国の言葉で会話していることに、縁林は違和感を覚えるべきだった。
もちろん、違和感はあったのだ。少し発音やイントネーションが違うところとか、固有名詞に疑問符が付されたりとか。でも、縁林が話すことのほぼ全ての単語が、綺子の脳内で処理され、即座に返事が返ってくることを、驚くべきだったのだ。畏怖するべきだったのだ。
値踏みをする資格があったのかと、後で反省することになる。
綺子は何にも気にしない。ニコニコしているだけ。年下の男の子が頑張るのを見るのは、大好物だから。
***
「おかえりー」
もう夜になっていた。
玄関で肩についた雪を払う。御子に、鍋が煮えていると、夕飯に呼ばれた。
「綺子、どこに行ってきたの?」
雨猫が聞いた。
「西都大」
「どうだった?」
「なんか普通。そんなに大したことなさそう」
御子はその大陸語の悪口を聞いてくすくすと笑った。
「縁林くんは?」
「ここまで送ってくれた。もう家路についてると思う。言雅さんは?」
「帰った。御子さんの教え子さんたちも、今は図書室で勉強してる」
「そっか」
綺子は手を洗って食卓についた。
「縁林はどう?」
御子が綺子に聞いた。
「伸びそう」
「私もそう思うわ」
孫と祖母は二人してニヤリとした。
「自意識に釣り合うまで頑張ってくれそう」
「あら、同感ね。男の子っていうのは、いつもそれだけど」
「いつのまにか背が高くなって、実力もついて、抜かされちゃうんだなぁ」
「綺子、楽しそうね」
雨猫はもぐもぐしながら、綺子に言った。
「まあね。島国の男の子は、あんまり泣かなそうだけど」
「泣く?」
「海城市の子は泣かないの?」
「泣かないよ。北城市の子は泣いたりするの?」
「女の子が完膚なきまでに叩きのめすから」
「へえ、綺子はよく泣かせてた?」
「だから、私のことを好きな男の子は多い」
「感情移入しちゃうんだ。でも、綺子を、男に渡すのは惜しいなあ。縁林くんには優しかったのに」
「彼の十年後、楽しみだなぁ、十年後は流石に戦争終わってるよね、おばあちゃん」
「何にもない戦争だからね、何かあったから終わるってもんでも、ないのかもしれないね」
「また会いたいな」
雪は積もり始めたみたいだった。
食事を終えると、綺子は雨猫と一緒に御子にいとまを告げた。
折り畳み傘を借りたままになっていることに気づいた。
雨猫も綺子も苦い顔をした。
「もらっちゃったら? もうきっと会わないし、いい思い出じゃない?」
雨猫が言った。
綺子はふーっと息を吐くと、哈哈と笑った。
「おばあちゃん、縁林にこの傘返してあげてほしい」
「もちろん。私の傘持ってく?」
「タクシー使うからいい」
「贅沢な子ね。いいわ、もちろんよ」
「また会いたいな」
タクシーの中から見る夜の住宅街は、静かで、何もないように見えた。歩く人も車もまばらで、でも街には人の息遣いや鼓動が感じられた。
二階の窓から漏れる灯りに、その人家の住人でもないのに安堵した。
駅に着くと、雪は雨になっていた。棚坂までの電車で綺子は少し眠り、雨猫に起こされて電車を降りた。
棚坂のホテルまでまたタクシーを使った。ホテルの、あの明るくて安心する温かい空気に寒さで強張った体はじんわりと解きほぐれた。
自動販売機でココアを二缶買って、二人で飲んだ。