百十三章《綺子と雨猫》
「制約の言語回路」百十三章《綺子と雨猫》
島国の南西の大きな島、八ツ島。
***
大陸と島国の間の海を睨む、軍事上の重要拠点であり、火山とその噴出物でできた地層が濾過した水が、生活から工業までを支える、豊かな自然の大地が広がっている。
天候は晴れが多く、粉塵が少なく澄み渡った空気が、電子部品の製作に適している。
多くの飛行場があり、飛行機の数は大きいものから小さいものまで合わせると、車の数より多いのではないかと言われるほど。そんなことはないが、物流を支える運搬力のほとんどを、八ツ島は飛行機に頼ることにしたのだ。
八ツ島の賀岸という中心地に宿を取った雨猫と綺子は、野球観戦をした。
野球というと、島国のメジャーなスポーツであり、ルールを特に知っているわけではないが、なんとなく通りかかった球場の雰囲気に圧倒され、当日券を買ってナイター試合に乗り込んだ。
チアリーダーが応援歌に乗って踊り、ヒットが出れば歓声が沸く。
試合は一進一退の絶妙なバランスで進行する。
球場の提供するホットドッグで小腹を満たす。
帰る頃には、充実感でいっぱいだった。
ファミリーレストランでちょっと豪華な夕食を食べ、ホテルに戻った。
「チアリーダーになってみたいかも」
「雨猫似合いそー」
「ありがとう」
端末を充電しながら、碁盤を開いて、二人で十三路盤をやる。勝ったのは綺子だったが、雨猫も善戦した。
「雨猫、コンビニでも行く?」
綺子が聞いた。
「ええ。綺子はなにかご用事?」
「ココアが飲みたいなって」
「行きましょう」
薄手のジャケットを羽織り、まだ寒さがマシな賀岸の夜に繰り出した。
と言っても近くのコンビニに行くだけだが、雨猫は少し緊張しているみたいだった。
コンビニで、タバコを買おうとして、二十歳を過ぎているか聞かれた。
「もちろんですよ」
隣の綺子が笑って言った。
一応身分証を、と言われて、雨猫があたふたしていると「持ち歩いていないんです」と、綺子が答えた。
「海外の方?」
後ろから声がした。
「俺それ買いますよ」
身分証を出して、一人の男性が割り込んだ。
「何箱ですか?」
コンビニの店員は聞いた。
「とりあえず二箱」
颯爽と現れて、雨猫が外に出ると「ほい」と箱が投げられた。
「ありがとう」
「いえいえ。背の高いお姉さんの方は、島国の言葉がわかるのかな?」
「ええ」
「故南から来たの?」
「そうよ」
「背の小さいお姉さんも?」
雨猫はうなずいた。
「旅行?」
「そうね」
「気をつけてな」
ぱらぱらと手を振ると、男は闇の中に消えていった。
***
朝、綺子と雨猫は純喫茶でモーニングを食べた。賀岸の駅から、全線共通フリーパスが利用できる鈍行に乗って、参樹という街を目指した。
海岸沿いを走る列車は、ゆっくりゆっくり東へと進んでいった。
「綺麗な田舎ね」
雨猫は言った。
サボり気味の学生が制服姿で乗って、電車で何駅も離れた学校へ通っている。
雨猫は、電車の様子をメモ帳に描きつけて、簡単なイラストを添えた。
島国の高校生の制服が可愛いと、大陸語で綺子に言った。
二人組の女の子がこちらを見て笑った。こそこそと言い合ってる。
(お人形さんみたい)
綺子は良い耳で聞き取った。
ちょこんと座っている雨猫のことを言っているらしい。
「雨猫、可愛いって」
雨猫は顔を上げると、二人組の女の子を見て、にこりと笑った。
(かわいいー)
(やばいやばい。一目惚れかも)
「彼女らはなんて言ってるの?」
「お持ち帰りしたいって」
(背の高いお姉さんも、めちゃきれい)
(あのコンビやばいな。話しかけてみる? 外人さんだよね。英語通じるかな)
「ああ、もう。駅に着いちゃうよ!」
「タイムアップだね。どうしよう。……你叫什么名字?」
「ありがとう、私は綺子。この子は雨猫」
「島国の言葉だ。なんだよー」
「綺麗な故南語ね」
「お姉さんたち、私たち次の駅で降ります!」
「よき学校生活を」
「かっこいい」
わちゃわちゃした空気は車内に広がり、綺子と雨猫は視線の的になった。
雨猫は降りた女子高生の似顔絵をメモに描いた。
昼前に参樹に着くと、季節ものの牡蠣を堪能した。
「生で、牡蠣を食べる……?」
雨猫は生食にかなり抵抗があるみたいだった。
「イヤ?」
「そんなことしたことない。お腹壊さない?」
「たぶん大丈夫。お父さんが言ってた。真の勇者は牡蠣を恐れない」
「私、勇者じゃなくていいかも」
「そんなこと言わずに、ちゅるりと」
「う、うん。綺子は生牡蠣食べたことあるの?」
「いんや、初めてだけど」
「……」
ゴクリと唾を呑み、覚悟を決めて牡蠣を口に滑らせる。雨猫の小さな口には、全ては入り切らなかった。
「海の味がする」
「牡蠣フライも食べよう」
「火が通ってるの?」
「うん」
「先それにしてよ」
「生牡蠣、おいしくなかった?」
「怖いが先に立つ」
「ごめんごめん」
***
綺子は艦艇がつける港の写真を撮る。大陸と違い公安は目を光らせていない。同じように艦艇の写真を撮る人がいた。
とても立派な艦艇だった。でもそんなに新しくない。手入れされて長く使われているものだ。ほのか、という名前らしい。
港の風景を写生しているおじいさんがいた。
旅館に泊まった。
雨猫は和室というものがそもそも初めてだった。
食事付きで、刺身をたらふく食べた。雨猫は、刺身も抵抗があったみたいだが、醤油をつけて食べると、その味に感動した。
「わさび、少し醤油に溶かすといいよ」
「わさびね」
「溶かしすぎると鼻がツンとするよ。気をつけて」
「すごい美味しい」
温泉に浸かり、浴衣を着て、卓球場に来た。
正直な話、卓球というゲームは、大陸のお家芸のようなものだ。反射神経とテクニック、さらに集中力を研ぎ澄まして、試合に臨む。
二つの台があり、二つとも同じグループによって使用されていた。
二十代後半の若い四人組のグループだった。
ひと試合終わると、片方のチームが台を一つ空けてくれた。
「すみません」
綺子と雨猫はお辞儀をして試合を始めた。
三試合くらいしたところで、ひと息つこうと飲み物に手をかけた。
「もしよかったら、どう?」
若いグループの一人が綺子と雨猫に缶ビールを向けた。
くれたのは女性だった。
四人組は、男三人、女一人のグループで小さな会社の同僚という感じだった。
雨猫はプルタブを開けるのに手間取って、周りをほんわかさせた。綺子が開ける。
「大学生さん?」
「はい」
「旅行?」
「そんな感じです」
「言葉には不自由しないんだ」
「日系なので」
「へえ。茶髪の子は、島国の言葉はわからないの?」
「勉強中です」
雨猫は胸を張って言った。
「皆さんは?」
「うちら? イラストレーター集団。絵を描くの」
「集団ってことは、プロジェクトチームなんですか?」
「うん。ノベルゲームとかを作っている」
「まさか、ゆず雲?」
「……詳しいね」
「え、?」
「推しのキャラはいる?」
「動画で見た感じだと、詩伊那が好きです。すみません、故南では、買い求められなくて」
「第一都市だったら売ってるかもね。凍永くん、詩伊那描いてあげてよ」
旅館に置いてあった色紙に、凍永はマジックを使って詩伊那を描いていく。
綺子は感情が追いついていかなかった。