百十二章《ゆず雲》
「制約の言語回路」百十二章《ゆず雲》
龍井府のエージェントに問い合わせた。
島国の新作ノベルゲームは入荷しているかと。
綺麗は、島国の実況動画を観ていて、どうしてもそのゲームが欲しくなった。
龍井府のエージェントの答えは「ノー」だった。どうやったらそのゲームを手に入れられるだろう?
ゲームの名前は「ゆずりの雲空」。「ゆず雲」の愛称で島国のオタクから大絶賛されている、現在入手困難な18禁ノベルゲームだった。
「龍井府でも手に入れられない……これは、島国に行く必要があるかも」
現在戦争中の敵国に、どうやって行くというのだろう? でも、綺麗は本気だった。
「最近、いろいろ活動しているみたいね」
琉璃が外出する直前の綺麗を捕まえて言った。
「ちょっと野暮用でね」
「手伝える?」
「大したことじゃないから」
「それでも」
「島国に行きたいの」
琉璃は目を見開いて、かなり驚いたみたいだった。それでもしばらく考える仕草で、口を閉じた後、一言。
「私も行っていい?」
「へ?」
「お嬢様と旅行してみたい」
「もちろん!」
二人は故南のパスポートを偽造することから始めた。
それは、龍井府のエージェントに依頼して、二人分で二十万元くらいしたけれど、手に入れることができた。綺麗は潤沢な貯金からそれを支払った。琉璃にそんな破格の資金はなかったから、出世払いということになった。
「お嬢様、ごめん」
「全然。島国のガイドブック取り寄せたから、一緒に見よ?」
大学の冬休みを狙って、まずは故南へと向かい、故南から出ている八ツ島行きのフェリーに乗る。それから電車に乗って、ゆるゆると第一都市へと向かうルート。
冬休みには全線共通フリーパスが四万円くらいで売っていることを知った。
「お嬢様、島国に行くのは初めて?」
「もちろんよ」
「島国の言葉は話せるんだよね?」
「ほどほどには。ネイティブ並みとは言わないけど」
「英語は通じるの?」
「第一都市とか西都なら、多分大丈夫。琉璃、不安?」
「まさか。聞いただけだよ。安心してる、お嬢様と一緒なんだもん」
「琉璃は、そのまま島国の女の子の名前になりそう」
「綺麗はありえないんじゃない? 形容詞でしょ」
「正確には形容動詞」
「知らんけど」
「あだ名でも作る?」
「お嬢様は、綺子」
「安直じゃない?」
「私は、とりあえず《子》をつければ、島国の女の子の名前になることしか知らない」
「琉璃は雨猫」
「雨情出身だから? 猫はどこから?」
「琉璃って猫っぽい」
「踊ってみた動画撮ってそう」
「たしかにぃ」
***
トランクを持っていける旅ではないから、大きなリュックサックに詰めるだけ詰めた。
龍井府のエージェントに、島国でも使える端末を二つ用意してもらう。
電子決済アプリを搭載していて、その残高にチャージした。
「雨猫、行こうか」
「綺子嬢、行きます!」
飛行機で故南の新南空港に降りる。陽京で宿を取り、二泊する。
故南に降りるのも初めての二人は、とりあえず大陸語が通じる空間で、いつもとは違う食事をした。
島国の資本が潤沢に投下された日系のホテルには、多くの島国の人が泊まっていた。
かなり速い島国の言葉、教科書とは違うイントネーションに、綺子は少し緊張していた。聞こえないことはないが、聞き落とす音がある。
故南に旅行する島国の大学生を見ると、大陸の大学生とは全然違う感じがする。
ホテルのロビーの高い天井も、日系だと雰囲気が異なる。
随所におもてなしの気持ちが漂っていて、機能性も高く、かなりリラックスできる。
綺子が浴室で湯に浸かっている間、雨猫はシャワー室で汗を落とす。
綺子が鼻歌を歌う。ゆず雲のオープニングソングだった。
綺子ご機嫌だなと、雨猫は思う。
雨猫はホテルの喫煙室でタバコを吸う。
何人かの島国の若者が、喫煙室にいた。
会釈する仕草が、なんとも島国らしい。
彼ら彼女らの話す島国の言葉は、当然ながら雨猫にはわからない。
「っと、火が切れたな」
カチカチと雨猫はライターを鳴らす。隣からシュボッと火をくれる人がいた。
「あ、アリガトウ」
「いえいえ。故南の人?」
そう聞かれたら、頷くことにしていた。
「島国の言葉がわかるの?」
「スコシだけ」
(なあ、この子めっちゃ可愛くない?)
(大学生だよね?)
(君たちはいつもそれだな)
男の子が湧き立つと、女の子がそれを嗜めた。
「みなさん、島国からリョコウですカ?」
「ええ」
「お姉さんは、大学生?」
「是。我是大学生」
「我也是大学生」
「スゴイ、きれいな故南語ですネ」
「一人ですか?」
「ひとり、ヒトリ……。いえ、和朋友」
「友達と?」
「はい」
「もしよかったら、飲みませんか? お友達も一緒に」
「喝酒?」
「そう。お酒」
グラスをあおる仕草をする。
女の子がくすくすと笑った。無垢なフリをして、たどたどしい島国の言葉で話す雨猫。無垢なフリを、というか、無垢そのものだった。
「こらこらナンパしないの、悪い男の子たちなんだから」
「あめねこー?」
「綺子、ごめん。遅くなった」
喫煙室まで顔を覗かせた綺子に、返事する。
「火、アリガトウ。不好意思、我不喝酒」
タバコを灰受けに入れると、雨猫は喫煙室を出た。
「せっかくシャワー浴びたのに」
「全然気にしてなかった。臭うかな?」
「なんか、話してなかった?」
「ナンパだって」
「私の雨猫を。にゃまいきな」
「なんとなく、女の子が、素敵な感じだったけど」
「雨猫さん」
後ろからその女の子が声をかけてきた。故南語で話しかけられたから、雨猫も綺子も、大陸語の頭で振り返った。
「私は、島国棚坂の湖図。島国に来る時は連絡して」
「湖図さん。わざわざありがとう」
端末を取り出してメッセージアプリを起動する。
「さっきは男の子たちがうるさくてごめんね」
「あなたがボスなの?」
綺子が島国の言葉で聞いた。
「そういう関係ではないかな。大学のサークルの友達だよ、背の高いお姉さん」
「私は綺子」
「島国の人? やけに流暢な島国の言葉だね」
「日系だよ。よろしく湖図さん」
「ご想像の通り、私たちは結構ただれているから、男の子たちと仲良くなるのは、やめた方がいいよ」
「ご丁寧にありがとう。棚坂に行くことがあれば、あなたを訪ねるわ」
「ぜひ。それじゃ。綺子さんを見て、男の子たちはびっくりしていた。故南美人とはこのことね」
「雨猫の方が可愛いよ」
「甲乙つけ難い。おやすみ」
***
二日目の朝に、ホテルをチェックアウトする時、たまたま湖図の仲間たちと一緒になった。
男男女の三人組。みんなタバコを吸うらしい。
服についたタバコと酒の混じり合った芳香に、綺子は顔をしかめた。
(背え、たっか)
(雨猫ちゃんも可愛いけど、このお姉さんもヤバいな)
雨猫は何も気にしないようで、ガムを噛んでいた。
「大学は? 師範大?」
湖図に聞かれた。
「大した大学じゃないから言わない」
綺子のそっけないセリフは、もちろん用意されたもの。
「また故南来たら、今度は相手してよね」
湖図は綺子に笑いかけた。
「俺たちもよろしく」
「よろしくな雨猫さん」
えっと、ぉ、と、雨猫は目を泳がせた。
「それにしても綺子さん、綺麗な故南語ね。まるで大陸の北城方言を聞いているみたい」
湖図はさりげなく質問した。
「北城方言、映画か何かで聞いたの?」
「故南語ではないと、思ったんだけど。北城方言は、適当」
「まあ、その勘は間違ってないと思うけど?」
早口でぼそっと呟いた。
綺子と雨猫はリュックサックを担ぐと、バスで港まで向かった。