百十章《無然市場》
「制約の言語回路」百十章《無然市場》
夏休み。琉璃はいつものように朝早く起き、座椅子に腰を下ろして本を読んでいた。
読んでいるのは、魯迅の弟、周作人の読書日記で、その中から面白そうな本をピックアップして、図書館で借りる。
「お嬢様、私ちょっと実家に帰るけど、……うち、来る?」
唐突に立って琉璃は言った。
「琉璃の家、この近くなんだっけ?」
「まあ近く。スクーターで少し行ったところ」
「じゃあお呼ばれして」
慣れた手つきでヘルメットをかぶり、手荷物は端末という軽装でスクーターに乗った。
綺麗の服装は琉璃に合わせた。と言っても琉璃ほどカジュアルではない。
電話して、家族に帰る旨を伝える琉璃の口調は、かしこまっているわけではないけれど、綺麗に接するより緊張の色を孕んでいた。
「お父さんは厳しい人なの?」
「海城市の行政府の事務課長。そんなにやりやすい人ではない」
「お母さんは?」
「模様替えが好きな人」
「模様替え?」
「なんでもない。まあ、母は気さくな人だよ」
下町の市場をスクーターで駆ける。
無然市場というらしい。
通り道なのかと思ったら、目的地だった。
本屋だった。それほど品数は多くない、それなのに気品を失わない、コンパクトかつ力強い店構え。
何人かの人が店の中にいて、学生からおじさんまで、客層はバラバラだった。
「琉璃さん、帰ってきたの?」
常連と思しき高校生の女の子が、可愛らしい声を上げた。
「やあやあ、星声。久しぶり」
「後ろの、すっごく綺麗なお姉さんは?」
「こんにちは。星声さん。私は、綺麗といいます。交……」
「っと、言い忘れていたね、お嬢様」
人差し指を立てて綺麗の唇に当て、琉璃は綺麗を制する。
「うちの界隈では、学歴トークは嫌われる。マウント取ってるみたいだろ?」
「お嬢様?」
「北城市から来たんだ。美しいだろ?」
「ええ、琉璃さんが、決まった人と仲良くするの、珍しくてびっくり」
「星声とはいつも話していたと思ったけど」
「偉大な先輩に話してもらえて、私は嬉しかった」
「お母さんいる?」
「今は事務室じゃないかな」
「ゆっくり、本探してください」
「お心遣い、痛み入ります」
星声の手を振る姿は可愛かった。
奥に広い本屋だ。
事務室の扉を遠慮なく開ける。
「おかえり」
琉璃の母親は、そっけなくつぶやいた。
「ただいま、お母さん」
「その子は?」
「大学寮のルームメイト」
「チャットでくれていた、綺麗さん?」
「初めまして。綺麗と申します」
「ようこそ。お茶でも淹れるわ。海城市の人?」
「私は、北城市から来ました」
「へえ、わざわざ北から。逆は多いけど。暑いんじゃない?」
「ええ、とても。でも雨は糸みたいで、美しいと思います」
「ああ、北城市ではあまり降らないのね」
事務室の奥は住居になっていた。
街路に面することのない、ちょっとした城郭。
中庭は花々の樹で生い茂り、日が差さないから、しっとりとしめり薄暗い。
「私の家は代々ここで本屋をやっているの。今は、本を読む人も少ないから、カツカツだけどね。生煎があるから、お茶にしましょう」
***
広い家の一部屋20平米が、琉璃の部屋だった。寝室は別にあるみたいで、大きなスクリーンとゲーム機、大きな机と碁盤が置かれ、イーゼルが立てかけられていた。
「本はないのね」
「本を買う習慣がないんだ」
「絵を描く?」
「慰みにね」
机の上には何通か手紙が散らばっていた。
試みに一通開けてみる。
美文を用いたラブレターだった。
差出人のところを見ると、どうも女の子らしい。琉璃は、結構罪な女だ。
「女の子から、可愛い文面ね」
「花や鳥、河や山やら、月に陽に。どの子も工夫を凝らして、胸が熱くなるわ」
気持ちを味わうように目をつむる。
「そんな冷淡な口調で言われても」
「本当だよ。冷淡なのは昔からだし、でも一応お返事は書いている」
ぼろぼろになった英語の辞典、高校時代の勉強の残滓であるプリントの類、よく削られた鉛筆。
山と積まれたノート。試しに一番上のノートを見てみる。
暗号で書かれた機密文書かと紛うくらい、びっしりと琉璃文字が記されていた。
「雨情の先生はいい人が多かった。ノートを取るので満足してしまったけど」
「ご謙遜」
「とんでもない」
「碁は打てる?」
「嗜み程度には」
「この碁盤、埃をかぶってかわいそうだから」
「綺麗な碁盤ね」
「父にもらったの。よく友達を呼んで打ってた」
「今日はやめておきましょう。私あまり強くないから」
綺麗は遠慮した。
オーディオセットがあり、昔のCDが数十枚棚に入っていた。
全てが置き去りにされて、琉璃の過去は遺跡のようだった。
***
街路に出て、歩くと、いろんな人が琉璃に声をかけた。
単調なマンションやビルが並ぶ北城市と違って、道は狭く、店は多く、建物の大きさは高くても三、四階。
綺麗がキョロキョロしていると、この前宝条塔でやってくれたみたいに、一つ一つ案内してくれた。
すぐ隣に大きな海城市の市街地が、世界でも有数の金融街として威容を誇っているのに、ここは人間が人の手でできる範囲のことで、構成されている気がした。
さだめし、琉璃はこの街に育てられた、生粋の海城っ子なのだろう。
「海城の子がみんな交大に行くわけじゃないから、私は遠慮することも多い。でもなぜかわからないけれど、私が雨情から交大に行ったことは、みんな知ってる」
「それはそうでしょう。人の口に戸は立てられないもの」
「綺麗は、そういうことないの?」
「ん? 全然。都会の一人っ子に地縁はないよ。適当に公園で太極拳するくらい。誰も何も知らない」
「でも、北城市にはまだ胡同があるんでしょ? 四合院造りの家とか」
「そんな世界は一握り。私は卒塔婆のようなマンションで、箱庭のような紫松公園を眺めて楽しんでいるだけ」
実際、綺麗と琉璃の生活は対照的だった。二軒隣の人のことは何にも知らない綺麗に対して、地元のネットワークに絡め取られている琉璃。どちらがいいとは簡単には申せない。
「なんか、家に用事があったの?」
「いや。用事というほどのものじゃないよ。単に、綺麗を案内したかっただけ」
綺麗は目をパチクリとさせた。
「琉璃姐さん、帰ってきたのかよ」
中学生くらいの男の子たちに、後ろから声をかけられる。
「英英、夏休み?」
「当たり前だろ? 夏なんだから。隣の……」
「こんにちは、英英くん。私は綺麗と言います」
「美人でしょ」
「う、まあまあ、かな?」
「羨ましいでしょ。こんな美人に姐さんは構ってもらえている」
なぜか琉璃はドヤ顔だった。
「綺麗さんは、きれーな大陸語喋るな」
「なにせ北城市の出身だからね」
なぜか琉璃が胸を張る。
「首都か。そりゃわざわざこんな南の田舎に、なんで?」
「特に理由はないわ。同級生の行く大学に行きたくなかっただけ」
「大学とか、大人は大変だよな」
「英英くんは、塾とか行ってないの?」
「そりゃ行ってるけどさ。大学とか行く気ないや。時間の無駄」
「素晴らしい。ぜひ初志貫徹してください」
琉璃も英英もびっくりした。そんなことを言う大陸人がいるのかと、目を大きく開いて綺麗を見つめた。
「冗談じゃないぜ?」
「大学なんか、無駄に行ったって何にもなんない」
「そうだよな。ありがとう綺麗さん」
「ちょっとまって英英。あなたは綺麗がどういう立ち位置からものを言っているか、確認する必要が……」
「じゃあな姐さんたち。俺は遊んで来るけど、うちに来てお茶でもするなら、一杯くらい奢ってやるぜ。母さんがな」
琉璃は呆気に取られていた。
「はあお嬢様、あなたほど頭が良ければ、大学に物足りなくなるのはわかるけど。幼気な中学生をたぶらかすのは、よくないよ」
「彼の家の喫茶店は?」
「顔出してみる?」
琉璃の家の本屋の斜め向かいに、喫茶店はあった。
星声が軒先のテーブルで脚を組んで読書をしていた。
向かいの本屋に負けず劣らずの蔵書が、壁一面の本棚に収められていて、中で勉強する高校生が数人くらいいた。
星声が会釈する。
「あら、いらっしゃい」
英英の母と見受けられる店員が、琉璃を手を振って迎えた。
「コーヒーでいいなら奢るわよ」
「ありがとうございます」
「大学はどう?」
「ほどほどに」
「そう。うちの息子、全然勉強しないのよ。なんか言ってあげて。私の言うことなんかぜんっぜん聞かないの」
目を細めて笑う。この母も、あんまり勉強に真剣というわけではないみたい。継ぐべきこの店があるからか。
「テーブルの象棋」
「ああ、どうぞ」
座って軒先でコーヒーを飲みながら象棋をやっていると、わらわらと人が集まってきた。
「このお嬢さん、うまいな」とか「琉璃、いかんぞ。負けるな」とか、おじさんたちの唸る声が聞こえる。「まさか、おれは琉璃にボコボコにされていたのに、このお嬢さん、琉璃をかなり引き離して」
「お嬢様、強い」
琉璃はホウと息を吐く。
「象棋は好きだから」
「負けました」
琉璃は頭を下げた。
「お嬢さん名前は?」
「綺麗」
「琉璃とは? 高校の同級生か?」
「大学寮のルームメイト」
「美人棋士だな」
やいのやいの野次馬が声を出す。
「俺もちょっと教えてもらってもいいか?」
「おやっさんじゃダメだろ、俺が行く」
「あんたでも無理だ、やはりここは俺が」
美人に教えてもらえるとあって、綺麗は人気だった。
喫茶店は大繁盛で、琉璃と綺麗はコーヒーのおかわりをサービスしてもらった。
琉璃がタバコを吸っていたら、琉璃の母親が、コツコツと向かいからやってきて、ゴツンと琉璃の頭にゲンコツをくれた。
母親が近づいてくる時の、琉璃の「ヤッベ」みたいな顔に、綺麗はケタケタ笑っていた。
夕焼けをバックに、また二人でスクーターに乗り、無然市場を後にした。
別れ際は十人くらいの見送りを受けて、琉璃はいつも通りの感じで手を振って。
そういうものが当たり前の世界に住んでいる。
「交大は一番近い大学だし、雨情も一番近い中高だけど、みんなそういうところには行けない。私は恵まれている」
「穏やかで高貴ね」
「粗野で雑なのよ。無然の子は、みんなそう」
「あの、星声って女の子は……」
「あの子は特別。雨情だし。きっと交大に来る」
「雰囲気あったもんね」