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十一章《空虚》

「制約の言語回路」十一章《空虚》


 それは西都発の術式だった。言語を媒介する点では大陸の術式と変わらない。


 緻里が大陸の術式を使う時は、大陸語で「詩吟」する。


 西都の術式は島国の言葉で「書かれ」、それは空間に働きかける。空間の密度を操作する。


 術式の痕跡から、緻里はそれを解析する。複雑な言語プログラム。この国にもそれがあったのかと驚嘆し、恨みを相半ばする。


 雪はしんしんと海に吸い込まれていく。


 これくらいの冷気があれば、かつての緻里は人を凍らせることができた。やってみたことはないが、それは包丁を持っても人を殺さないのと同じことで、権能として緻里に付与されていた。


 爆縮する空気の塊は、緻里の能力で容易に座標を特定できた。殺す勢いで爆縮する空気塊はどんどん接近して肉薄する。空気塊を同時に爆縮させるのは、せいぜい数個にとどまっていて、爆縮の空気圧と陰圧をまともに喰らわないようにするのは、それほど難しくなかった。


 空気塊はどんどん大きくなり、衝撃や音は凄まじいものになっていた。


 言雅は徐々にボルテージを上げるのが好きらしい。


「僕の体は?」


「いい質問だね」


「ぐにゃりと曲げてみてはいいじゃないですか」


「君、気づいていないの?」


「へ?」


「君の体は大陸の文字で埋め尽くされている。君には見えないのかな。単純な祝福でも単純な呪いでもない。君のこと、君の自由意志、君の未来、君の心は、すでにもうこの国のこの場所には存在していないんだよ。魂を奪われているんだよ。だから、その呪力を上書きできない。私の言葉では」


「それが、なんだっていうんですか?」


「コスモポリタニズムを標榜することが都会人の特権であることを私は知っている。『魂』を奪われた君のために、私の同胞が損を被るのを私は看過できない。大陸語を話せるのは、君だけなんだよ。そしてその指輪が象徴していることに、一切が封じ込められ、敵と味方の区別は曖昧になり、君は過去の夢を見続ける。それでいいならいいんだ。それでいいならいいんだよ。言っておくがこの戦いの主人公は君じゃない。売国奴をここで仕留めるのが、私の役目だと国中から声援が結集している。何度も言うが、君に何か理があるとすれば、コスモポリタンであるということのみに尽きる。この国にコスモポリタンは君くらいしかいないがな」


 一際大きな爆縮に、緻里は体をよろめかせた。西都の術式は展開が早い。それだけ板についた術式であり、緻里が扱う大陸の術式の計算速度、展開の付置はゼロコンマ以下の微差ではあるが、絶対的に遅れをとっていた。


 耳の近くで起こった密度の大きい爆縮は、緻里の三半規管に影響を及ぼした。


「宗旨替えをするなら、今だと……、ふぅ、君の顔を見るといつも戸惑うよ。どこからくるのかわからない自信に満ちていて、誰の言うことも聞かない頑固者。君の幸せが、ここかしこに転がっている。なのにそれが見えないみたいだね」


 風が渦を巻き始めた。失われた平衡感覚を、理性で補って、こらえて周囲に風を吹かせる。いつもは従順な島国の風も、手負いの乗り手には暴れ馬で、「風の軸」を掴むことすら容易には許さない。ふらふらになりながら雪の演舞に指揮棒を振るう。


 息が白くなったと気づく頃にはもう、上空の冷気は地表近くまで降りてきていた。言雅の息の運ぶ水蒸気は、水滴になるとすぐにきれいな氷の結晶になる。


 のたうち回り、頭を抱える緻里は、言雅を冷気に包む。荒い呼吸は、緻里の高まる興奮のバロメーターだった。


「不可解な文字ばかりが君を縛る。君の鎖を解き放ってあげたかったよ」


 体の芯まで冷え切った言雅は、体温のこもる涙をこぼした。宝石のように薄く青く結晶化する。


「寒さで関節が動かない……それは君も一緒か」


 緻里の目は焦点を結ばず、脚は八の字型に屈曲して体を支えていた。


「なあ、そんなに意固地になることないじゃないか。私の体には心臓というものがあって、血液が流れているからいつでも、いつでも温かい。ここまで破滅的だからこそ、誘えるものも……なんだ、聴こえていないのか」


 雪が止んだ。


「済まない。私はもうこれで身を引こうと思う。怪異を見ているようだったよ。怪異を好きになってはいけないのだな。バケモノをバケモノと軽蔑することも、心身の安寧のために時には必要だと。でも、簡単に得難いからこそ、君が尊いのも事実なんだろう。返事してくれよ」


 弁慶のように立ち往生している。緻里の肩には雪が重なっていた。ザクッと靴が雪を掴む。礼拝するように掌を天に向ける。


 身構えた言雅の頬を水滴が伝った。ポツポツと、気がついた時にはすでに暖かい雨が、粒を膨らませてこぼれ落ちてきた。


「海が近いから」


 そう言った緻里の能力は、枷を振り払って現在の限界を乗り越えていた。


***


 言雅を見ることはもうなかった。博士課程を修了して学位を得、海都から姿を消した。


 緻里に言雅が残したものは、「福田恆存」の研究発表資料だけだった。


「オーセンティックともコンサバティブとも言えない」


 言雅が向こう側から強く語りかけてきたことは、単なるナショナリズムではなくて、確かな「日本文学」だったんだろう。島国が「日本」だった時に、国というものを深く考えた人がいて、その文学的脈絡を言雅は受け継いでいた。


 それは、ナショナリズムかもしれない。言葉と習俗を共にし、交感し、同じ「時」を共有する。そういうのは擬制で幻想だと思うなら、向こうもまた緻里のコスモポリタニズムを幻想だと主張するだろう。


 どこにいるのかが重要なのだと、現象学者は言う。何者であるかなど、その者が空間に占める位置で自ずと明らかになる。


 世界市民主義を掲げ、そこを根拠として立つのに、容易に賛意を得られると思うのは、ナイーブで、純朴すぎる。


 言語回路を大陸語で埋め尽くしている緻里の本源が問われる。


 緻里は言雅の言語回路が島国の言葉で構成されていたことに端を発して、自分の言語回路の組み立てを試行錯誤した。大陸語で組み上げられた言語回路、術式は、しかしながら強固に緻里と結びつき、換骨奪胎は容易ではなかった。


 言うなれば話し言葉は島国由来だが、書き言葉は大陸のものということになる。


 言語を学ぶことは単なる学習ではなく、価値観の転換であり、文化の受容であり、思想の相対化の一丁目一番地に身を置くことだと言える。


 今、思純はどうしているだろう。朧げになっていく記憶の中の思純は、徐々に観念に成長して名前だけになっていく。抽象化し切らないのは指輪の感触のためであり、そこに刻まれた誓いを、概念として身につけているから。人は成長するごとに「愛」の意味を変容させる。


 また、しばしば訪れる砂州公園から海を眺めると、この国のどこかに言雅がいることを思い出さずにはいられなかった。

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