百九章《レストラン》
「制約の言語回路」百九章
軒先で夕立が過ぎるのを待った。
琉璃は可愛い手差しのひさしを作って、顔に水滴がかかるのを防ぐ。
海城市は雨が多い。温暖で湿潤で、水分で顔が膨れてしまうかと思うくらい、しっとりとしていた。
ルームメイトの「お嬢様」は眠っていたから、朝ごはんでも買ってきてやろうと思った。食堂で雨情高校の同期と会った。同期は男を連れていて、結構似合いの感じだった。
「早速? 大学に入って自由になったからって」
「琉璃も最近ルームメイトと付き合ってるんでしょ?」
「お嬢様のこと?」
「お嬢様。変わんないね、琉璃は。昔から人間関係がおかしい」
「正常の基準がよくわからん」
「可愛いんだから、彼氏作ったらいいのに」
琉璃は曖昧な表情を浮かべ、紙袋に包まれた肉まんを一つ頬張りながら、寮へと帰った。
***
琉璃の、勉強する姿は極上だと、綺麗は言った。
「極上? どうして?」
「南国の女の子って感じ。可愛い」
「海城は南国ってほどじゃない」
「でも、私からすれば南方だわ」
「極上と南国が関係あるの?」
さあ、なんとなく。綺麗は笑った。
スクーターで街を駆け、部屋や図書館では沈静に耽る。いろんなところがこぢんまりとしている。本は買わない。教科書も図書館から借りる。物は持たない。服は、何着かのTシャツと短パン。でもサンダルを見ると、かなり高いブランドの物ということがわかる。履き潰しても履き潰れない、丈夫なものを買っている。洗濯は好きらしく、よく乾燥機の前で借りた本を読んでいる。
物が多い綺麗が、机に本を積んでいると、共同で使う本棚に仕舞ってくれる。服もアイロンをかけて畳んでくれる。
琉璃が綺麗を本当にお嬢様と思っているのかはわからない。単に仲がいいだけでは、うまく説明できないこともあるが、説明する必要があると、琉璃は感じていなかった。
琉璃の朝は早く、日が昇る前の仄かな明かりで目を覚ます。
ゆっくりとシャワーを浴び、洗濯をし、朝ごはんを買ってもぐもぐと食べながら勉強する。
「琉璃、おはよー」
「お嬢様、ドーナツあるから食べて」
「ありがとうー」
気取らずに、でもさらさらとペンを走らせる琉璃の姿に、綺麗は極上を感じる。
授業が始まると、琉璃は今時パソコンも持たず、ペンとノートとレジュメだけトートバッグに入れて、教室に向かう。
琉璃の字は悪筆というわけではないが、省略が多く、まるでひらがなのように見える。通常のメモは誰も読めない字で書かれているが、テストの時には驚くほど整った字で解答を書く。
メモを写し取ったノートは、さながらべヒストゥーン碑文のようで、異色の情緒が漂う、独特の暗号だった。
その字は、琉璃が小学生の頃から今に至るまで開発し続けた速記の方法で、複数の漢字を一つのブロックで表現したり、頻繁に使う表現は、アラビア数字の組み合わせに置き換えたりしていた。
筆記には鉛筆を使うのがこだわりで、ボールペンは行政文書にしか用いない。ただそのボールペンも、父親から譲り受けた高価なものだった。
レポートは、大学の図書館のメディアセンターのパソコンで書いていたら、綺麗が一台お下がりをくれたので、それを使って書いている。しかし当然ながら、打鍵は速い。
何十年も前の、オーセンティックな大学生のようで、それが綺麗には極上だった。
***
琉璃は一軒、海城料理のレストランを知っていて、テストが終わった日に、二人で出かけた。
琉璃はその日整った服を着ていた。持っていたのかとびっくりした革靴を履いて、綺麗にもおめかしをするようにと言った。
お嬢様、といつも呼ぶのとは反対に、琉璃はフェミニンな服装で、綺麗はクールな装いだった。
タクシーを使って老舗のホテルにつける。
予約していたことを告げると、席に通された。
海城市の夜景が一望できる席。
「こういうレストランはたまにしか来ない」
「でもお嬢様は、地元の少し凝ったレストランにはよく行くでしょ?」
「そりゃあね。ホテルも、親についていく子供としてはよく行ってたけど」
「それにしては気取らない」
「ううん。気取るも何も、琉璃がリードしてくれているから」
温められたカップにお茶が注がれた。
「こちらのお茶は、西湖龍井茶です」
ウェイターが言った。
「西湖龍井。北城市で買うととても高いの」
「海城市でも変わらないよ、お嬢様。飲み物は?」
「梅ジュース、ソーダ割り」
「あの独特の風味、好きなの?」
「好物。琉璃は?」
「私はスイカジュースにする」
ウェイターはうなずいて卓を離れた。
海城料理は、北城市の食事よりずっと甘く、味が濃厚だった。
海鮮を食べることがほとんどない綺麗にとって、火は通っているとはいえ、蟹や川魚を食べるのは、抵抗感があった。
「おいしいよ」
琉璃は目の前で食べて安全を告げる。
箸で少量をつまみ、口元にふるふると持っていく。嚥下した頃には病みつきになっていた。
「おいしい。おいしいよ!」
「島国に行くことができたら、刺身を食べてみたいんだ」
琉璃は言った。
「島国の魚は美味いっていうよね、刺身なんて今、大陸の人誰も食べたことないんじゃない?」
「ファンタジーに近い」
「蓋し尤も」
「お嬢様、島国のこと、詳しいんじゃないの?」
「お父さんとお母さんはね。私は島国の言葉だけ。あとアニメと漫画とラノベ。でも、島国のエリートオタクには敵わないんだろうなぁって、しみじみ思うよ」
「実はそんなことなくて、お嬢様のオタクレベルは、頂点じゃなくとも上位にはあるんじゃない? 島国の言語で読んでいるその熱意は、島国の人にはないだろうし」
「島国にもきっと、大陸のポップスを好きで好きでたまらない人とか、古楽通が何人かいるんだろうな」
料理は陸続と机に並び、綺麗も琉璃も、手早くそれを味わっていた。
「おいしい。琉璃、ありがとう」
「お嬢様が喜んでくれているのは、嬉しい」
「せっかくならドレスとか着てくればよかった」
「旗袍-qi pao-持ってるの?」
旗袍とはチャイナドレスのこと。
「まあね。一応。北城市は割と北方だから」
「背ぇ高いし、似合いそう」
「体が大きいから、迫力はあるかもだけど、可愛いのは断然琉璃の方」
「いやいや。お子様の体だから」
「この辺りに、あつらえてくれる店はあるの?」
「布市場があるけど。でも、そんなところ、行く機会がないから、相場も何も全然知らない」
「今度、連れてって。一着プレゼントするわ」
「へえ、それは嬉しいな。お嬢様が買ってくれるのか」
目線を保ったまま、琉璃はお茶を一口飲む。お茶の飲み方は大陸でも人によって異なる。琉璃は液面を見ないのだ。
レストランでの食事を終えて、お会計をした。
「割り勘にする?」
「いいよ、お嬢様。私が楽しみたかっただけだから」
「じゃあ適当に送金する」
「気を遣って多めにくれると、それはすなわち気を遣ってないということだよ」
「はいはい、わかってるよ。琉璃、ありがとう」
***
昼は人で溢れるこの街も、ホテルへ帰ってくる旅人を除けば、用事なく閑散としている。タバコを吸いながら、まだ二十歳にも届かない二人は、堂に入った歩調で歩いていた。
二本吸ったところで地下鉄の駅に着いた。
「なんとなく、私はタクシーの方がいい気がする」
むーっと、琉璃は考え込んでいた。
「どうして?」
「時間の流れとか、気分の波とか、そういうものを総合的に勘案して」
「まあ、それでもいいよ」
「ありがとう、お嬢様」
琉璃は背伸びして綺麗の頬にキスをした。
琉璃はもと来た道を戻り、ホテルでタクシーを捕まえようと思った。反対車線を走ってくるタクシーが空車だったので、綺麗はそれに手を振って合図した。
車が停まると、二人は手を繋いで走った。車道を横断してタクシーに乗り込む。
「交大南門-jiao da nan men-」
「はいよ。交大の学生さん?」
タクシーの運転手は荒々しく車を発進した。
「ええ」
「高校は天空四強?」
「私は雨情。お嬢様は北城市から」
「第四か第二?」
「よくご存知で。お嬢様は第二」
「……参ったな。最高のタッグじゃないか。お嬢様、海城市はどうだい?」
「最高。琉璃、ありがとう」