百八章《宝条塔》
「制約の言語回路」百八章《宝条塔》
南は柔らかい。和やかだ。
旧英租界だった過去を持つこの海城市は、大河が街を二つに分けている。文教地区と経済地区。文教地区には大学が並び、公園やカフェや本屋、レストランなどが比較的低層の建物で軒を連ねている。
学生は寮に住む者と下宿する者で分かれる。親戚付き合いの多い大陸だから、知り合いのうちに転がり込むなんてことも、そう難しいことではない。
綺麗は寮に住んだ。
同じ部屋にもう一人女の子がいて、名前を琉璃と言った。
雨情高校の出身で、と控えめに言ったが、その凄さを俄かには理解できないのが申し訳なかった。
「琉璃も北城市のナンバースクールは知らないでしょ?」
「知らないな。大陸は広い。首都を意識したことなんて、人生で一度もない」
「これだけ豊かなら、ね」
「宝条塔に登ったことある?」
「つい先日、来たばかりだし」
「観光とかは?」
「海城市に来たのも、つい先日が初めて」
「城市大目指してたの? あるいは清紅大?」
「大学なんて、行く気なかった」
「お嬢様。人生の極上の楽しみを不意にしかけたのね」
「そうみたい。交大は悪くない」
「お嬢様、私、どうしても宝条塔には登って欲しい」
「いいけど、遠いの?」
「スクーター。後ろに乗って」
ヘルメットの予備を渡された。
背はそんなに高くない。琉璃は髪を明るいブラウンに染めて長くしていた。たおやかという言葉がよく似合う。お尻が小さく、胸元の膨らみも限定的。Tシャツに短パン。端末一個持ってどこへでも行く感じだ。
サンダルを引っ掛けて外へ出た。
スクーターの後ろに綺麗を乗せる。
「ヘルメットかぶった?」
「もちろん」
銀河を走ってるのかと思った。
大きな橋をたくさんのスクーターが走る。どこかへ向かおうとしている。経済地区に入ると、瀟洒な租界時代の建物が、軒並みライトアップされている。
スクーター、持っていると便利だ。
「地元なの?」
「まあね」
適当な路上にスクーターを停め、鍵をかける。ポケットからタバコとライターを取り出すと一本つけた。
箱を向けるから綺麗は、口で一本引き抜いた。
「お嬢様、特別だからな」
火までつけてもらう。「吸ったことある?」
「数えるほど」
「そっちの方がよっぽどだ」
嫌味でも言われるかと思っていた琉璃は、口を滑らせた。「お嬢様、背が高いな」と、手で測る。
「お嬢様はやめてよ」
「まさか綺麗ちゃんとは言えないから」
「漂亮(美しい)ちゃんとは言えない?」
「私の拙い島国の言葉の知識ではね。お嬢様」
観光客がホテルへと歩いている。経済地区の見ものはこれ。琉璃は言う。「やつらキョドキョドしてるでしょ?」
綺麗がくつくつと笑う。
「お嬢様は、やっぱり大陸人ね。ほら、あなたが笑うからびっくりしてるわ」
「私も同じ穴のムジナ。びっくりしてる」
宝条塔は高く高くそびえたっていた。
「おすすめは、2階の本屋。ホント何でもある。晩御飯はここで食べると馬鹿らしいくらい高いから、帰って食堂で食べましょう」
「まるで雨情高校の生徒は、交大0年生って感じなのね」
「お嬢様みたいな人がいるから、大学生活はやめられない」
「同じ感想。彼氏いるの?」
「伝説上の生き物。私に関しては見たことも聞いたこともない」
「可愛いのに」
「化粧っけがないからかな。サンダル引っ掛けてスクーター乗ってたら、誰も話しかけてくれないよ。お嬢様は?」
「いないね。幻のポケモンがモンスターボールで一回で捕まる確率より低い」
「美人なのに」
「背が高いから、男が二の足を踏む」
「でも、この通り、女にはモテる」
タバコを口から離すと、煙を孕んだ息を交換する。どこかで口笛を吹く音がした。
宝条塔350メートルの展望台までのチケットを買う。かなり高い。
「観光客価格ってやつ」
「私は、観光客みたいなものよ」
「大丈夫だよ、お嬢様。あなたはもう、立派に交大生なんだから」
***
「そこがフォーラムをやる公会堂大議場。河を隔てて向こう、あそこが大学。大学なんて小さなものね。あの高い建物は英資本のホテル。海城市はイギリス資本が強い。もちろん、島国の財閥が撤退した後のことだけど」
闊達な海城方言に、周りの人も惹きつけられる。交大生とあえて誇らなくてもそれとわかる。
「オフィスはこちら側にあって、あちら側がまあそうね、居住エリア。文教地区とかいう区分けはまあ、言い方かな」
雨情高校は? と綺麗は聞いた。
「ううー、こっち!」
円形の展望台で角度を変えて見てみる。
「バスに乗って登校する」
「遅刻とかしてなかった?」
「お嬢様さすがね。私のことよくわかってる」
「北城市と違って、ホントに綺麗な街。美しい。この柔らかい色合いの照明が、蛍みたいに河から浮かび上がってくる」
「海城市の地位は、首都よりも高い。というのは誇張だと思う?」
「誇張でなく大陸一、天上にいるかのよう。惚れ惚れする」
「お嬢様、天上は言い過ぎ」
「ホントだよぉ、っと、これ」
「? 水?」
「朝買って飲まずにいた水。カバンに入ってた」
ふうん、と受け取って、琉璃は飲んだ。喉乾いてるんじゃない? と聞くと、綺麗も口をつけた。
男子大学生二人組がが指を指して遠巻きに見ていた。声かけるかどうか、悩んでいるみたいだった。
海城市の紹介に忙しい琉璃は気づかなかったが、綺麗は耳をピクリと動かして、反応した。懐かしい北城方言だったから。
やがて、男子大学生の組のところへ、琉璃はゆっくり周回してくる。
「で、そこはー」
と、外ばかり見ている琉璃は気づかない。
「こんにちは。いい夜ですね」
少し丁寧めに、気取った感じも出してみた。綺麗は男子大学生に手を振った。
「こんにひは、ほんとふに、いい夜です」
「噛みすぎだ、バカ」
漫才のようにツッコミが入る。
「北城市から?」
しっとりしたお姉さんの声を出す。北城方言は抑えめで、どちらかというと東北の標準語といった趣の声を出す。
「そうです。大学二年生で」
「私はまだ一年生。つい先日一年生になったの。北城市の出身で、でも、ここの大学に」
「年下!? 大人っぽくて、ビビるなぁ」
「彼女はここの出身」
「お嬢様、まだまだ覚えてもらわなくてはならない場所が」
「ごめんごめん。琉璃。それじゃあ、北城市の先輩方、ご旅行楽しんで」
手を振ると、ちょっとしょんぼりした大学二年生の顔。
「高校は? もしかして近くだったりする?」
ぱあぁと明るくなる二人。ナンバースクールではなかった。
「お姉さんは?」
「どこだと思います?」
「第四とか?」
「まさかね。海城市には来ないよ。降り立たない」
大学生二人は自己完結していた。
「第四だったら結構近いんだけどなぁ、地図上ではね」
「第四? 第二でしょ?」
琉璃が言った。「さっき言ってたじゃない」
男子大学生の間に沈黙が訪れた。
「第二ですか……、あの大学は……?」
「もちろん海城交通大。それ以外に海城市の大学なんて、ある?」
答えたのは琉璃。胸を張っていた。
「やべえやつらだ」
「逃げろ!」
男子大学生は嬉々として逃走した。
スクーターの後ろで琉璃の腰を抱いていた。細くてか弱そうな線の琉璃は、高い体温を持っているみたいで、温かい。
北城市より5℃は高い空気は、綺麗の肌にはまだわずかにしか染み通っていかなかった。
夜の空に浮かぶ雲は、「外灘」の煌々と照るあかりを反射して、ゆっくり気ままに動いていた。まるで昼下がりの青空の下の雲のように、のんきで、牧歌的な景色に見えた。
橋を越えると、文教地区はとても静かで、スクーターは静かに琉璃と綺麗を寮へと運んでくれた。