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百五章《北京市》

「制約の言語回路」百五章《北京市》


 病院のベッドの上で、綺麗は目を覚ました。誰もいない部屋で、周囲はとても静かだった。


 点滴がつけられて、まさしく入院患者そのもの。


 しばらく天井を見上げていた。


 そばにあったナースコールを押す。


 ばたばたと看護師がやってきた。


 日付を聞く。記憶のある日から三日経っていた。


 医師の診察があり、家族に連絡がいく。


 6時くらいに、仕事を終えた父親が、暦了と燦を連れてやってきた。


 点滴を取り、食事をしている最中だった。


 各種検査結果を共有される。


「過労ですね」


「かろー??? なんじゃそりゃ?」


「ご家族が先に寝られるということで、詳しい睡眠時間は伺えませんでした。ちなみに一日でどれくらいお休みになられますか?」


「四時間。ほら島国のことわざでもいうじゃない、四当五落って」


「それは知りませんが、最近こういう救急搬送が増えていますから、よく食べてよく寝てください。睡眠不足はお肌の大敵ですよ」


 ふらふらになりながら、退院手続きをして家に帰る。綺麗は家族からとても怒られた。


 本当は北京ダックが食べたかった。そう言うと、「何バカなこと言ってるの、お粥よお粥」と返事があった。


「ふええー」と嘆くが確かに北京ダックはバカだ。


 部屋に戻って、パソコンをつけようとすると電源が入らない。まさか、パソコンまで過労で倒れたのかと思って、コンセントを見ると、パソコン禁止と書かれた張り紙が、コンセントを塞いでいた。


「絶望ぽよ」


 でも確かに、ゲームやら燦のプロデュースやらで時間を使っていたことは間違いない。もう中学生ではないのだから、駄々をこねるのもおかしいというもの。


「寝ろよ」


「はぁい」


 綺麗はしょんぼりしていた。


 しぶしぶ勉強に時間を費やし、ふてくされながら成績を上げた。


 ぶすくれ度合いは頂点を極め、誰も話しかけられない状態。


 暦了も燦も、遠巻きに見ていた。


 島国の言葉の科目が終わった後、緻里が綺麗を呼び止めた。


 うざったそうに目を逸らして、斜めに構えて耳を向ける。


「なんか書いてみる?」


「え?」


「島国の言葉で、何か表現してみる?」


「ど、どうしてですか?」


「文学の教師だったから、きっといいアドバイスができる。時間が余ってしょうがないんじゃない?」


「っ、はい」


「美しい筆致で、ノートに書いてごらん。物語や詩を書きつけて、一つの本にしてごらん。きっと楽しいだろうから。燦や暦了の裏方で終わる? そんな小粒じゃないんだから」


 緻里の目は本気だった。怒っているようにも見えた。その日から、綺麗は毎日二千字ノートに埋めてきた。


 そのノートを汚すことなく、緻里はノートの間にコメントシートを差し込んだ。質のいい紙で、それ自体がお手本のようでもあった。


 さながら文の相剋。日々の授業の難易度で、綺麗が満足していないのは間違いないことだった。


 文学たるものが生まれる瞬間に立ち会う。緻里はそんな気分だった。


***


 雷が鳴って、僕は龍になった。


 眼下に広がる北京の街が、もう僕を必要としていないことが、冷え冷えとした空で雲に包まれていると、観念として浮かび上がってくる。


 夜の闇が逆に北京市を明るくしていた。


 あの飾らない人柄で有名な北京人が、これだけ華やかな夜を生み出すのか。


 そう思うと笑えてくる。息を吐くと雨が降り、水煙のように夜雨が滴る。


 ああ、人であった時に、やり損ねたことがたくさんある。あの時はいつでもできると思っていて、僕は。


 何も伝えることができなかった。


 龍になれるんだからいいじゃないか、そんな声が聞こえてきそうだ。虎になったわけではないのだから。


 夜の光が、こんなに悲しいなんて知らなかった。地上にいた頃は、わずかでも寂しいなんて思わなかった。あの、追悼する北京市の光が、僕を天上へと連れていってくれる。


 そうか。僕は死んだのか。


 何もできず、若いまま、この世を去らなくてはいけなかったのか。


 日の光は生、夜闇の新月は死を意味する。夜に限定されるこの体が、死に、闇に釘付けにされなくてはいけない。なんて喜ばしいことかとすら思う。


 このまま遠くまで、ずっと遠くまで。


 生きているうちには叶わなかった、あなたのもとへ飛んでいきたい。


***


 コンビニでおにぎりを買って、歩きながら食べる。先生に見られたら注意されるだろうか。綺麗が、一人で、紫松公園を歩いている。人目を引く容貌ではあるが、人の目を引くのは、手元のおにぎり。一生懸命に食べているのに、一向になくなる気配がない。はぐはぐと、かぶりついてはいるのだが。


 ゴミ箱におにぎりの包装を捨てると、屋台で肉まんを買った。紫松公園を周回しながら昂った精神を冷ます。まるで蟲になったみたいだ。ため息をつく間も与えず、綺麗はひたすらに歩いた。


 空には月がかかっていた。満月にほど近い、親しみやすい色の月で、赤くもなく青くもなく黄色くもない、ほどよい白色だった。


 自分が行きたい場所が見当たらない。抽象的にも、具体的にも、心の中に答えはなかった。


「綺麗」


「ああ、暦了」


「散歩? にしてはいきりたってるね」


「そう見える?」


「でも、休めているでしょ?」


「休む?」


「うん、忙しそうだったから。スーパーチャージできてそう」


「よくわからない。なんか、むしゃくしゃするの」


「うち来る? 一緒に音ゲーでもやろうか?」


「心遣いありがとう。感謝するわ。だけど、そういう気分じゃないの」


「タピオカでも飲もう。喫茶店にでも入ろうか?」


「暦了は、ほんとにいい男ね」


「そりゃ、いい女の前ではね」


 一つの戦いであるのように、視線が交わり、また伏せられる。「無理しすぎだよ、姐さん」


 暦了の胸にグッと拳をつく。涙を溜めていた。


「みんなそうやって、私を労って、私何にもやってないのに」


「誰もそうは思っていないよ」


「何をやったっていうの?」


「僕の踊ってみたは、累計で3000万再生。姐さんが編集して、無頼な僕のチャンネルで3000万だよ? 燦だって感謝しているし、姐さんのアングラ漫画クラブだって」


「どれも、私の大切なものだった。私の人生だし、疲れて倒れたって、ずっとそれをやっていたいよ。私、何かした? 大したことなんか、何にもしてないよ」


「僕には、綺麗姐さんは、とても疲れているように見える」


「あんたも、私の敵ってことね?」


「敵でもいい。姐さん、無茶は……ッ」


 綺麗の後ろに龍が見えた。一瞬だったが間違いのないことで、暦了は前にも後ろにも引けなかった。


 紫松公園が地下から揺れていた。地震? 踊りや太極拳をやっている人も、音楽を奏でている人も、誰もが手や体を止めて、その揺れを感じていた。


 綺麗の髪が静電気で浮かされたのか、ふんわりと逆立つ。目が緑色に光っていた。


「姐さん」


 チリチリと電光が走り、火花が散る。


 天空で稲光が雲に亀裂を作った。


 暦了は今すぐにでも後ずさって、その場から離れたかった。でも、前に体を動かすのはもちろん、背を向けることさえ、怖くてできなかった。180はある男が、背は高いとはいえ頭ひとつ分は違うひとつ上の女の子に恐怖を感じるなんて、あってはならないと、必死に気持ちを奮い立たせる。足の裏に力を込めて、一歩ずつ。


 挑戦的な目をした綺麗の目の前に立つ。まるでラップバトルでもしているかのよう。言葉なんか出ないけれども。強く抱きしめる。


 綺麗の肩をギュッと抱きしめると、綺麗は言った。一言だけ「バカね」と。


 それから大泣きした。「どうして」と、ずっと口にして。


「姐さんは理由がわからないわけじゃない。ただ、自分を許せないだけだ。『どうして』? 理由なんかいくらでも転がっている。拾うのが億劫なだけで、地面を揺らさないでほしい。龍になったって、好きな人に逢えるわけじゃないんだから」

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