百四章《眠り》
「制約の言語回路」百四章《眠り》
大学って行く必要あるのかな。
そんな問いをまさか教師に言うわけにはいかなかった。
綺麗は暦了と塾帰りに話した。
「さあ、でも、綺麗が行かなかったら誰が行く資格があるのって感じがする」
「学力的に?」
「そうだよ。第二でも二十番にはつけている。城市大だって行けると思うけど」
「そんなことで大学の四年間をつまらない授業を聞くのに費やすのは、あんまり得策じゃない気がするのよね」
「家族には言った?」
「まさか! 卒倒するわ」
「島国の小説を読み過ぎたんじゃないかな?」
「それはそうかも。自由って、種々の期待とか、制約によって支えられてるのね。全てをひっくり返してみたい」
暦了はしばらく考えた。
「それならやっぱり大学に行くべきだよ。大幅に取られた勉強の時間が対照的に自由の価値を上げる。今だってそうじゃない? ずっと楽しいことだけやって生きていくのは、ある意味苦痛だと思うよ」
「ふんふん。暦了に話してよかった」
「綺麗小姐は、頭が良すぎる」
「そんなことない」
「緻里先生に聞いてみたら? いくらでも相談に乗ってくれそうじゃないか」
「思純先生だと、怒られちゃうかな」
「きっとびっくりすると思うよ。あの人は本当のエリートだから」
***
紫松公園の夜のダンス集団は、音楽に合わせて踊っていた。先生の動きに合わせて踊る。太極拳は朝、ダンスは夜だった。
驚くほどの熱量で、集団はかなり自律的に動いている。重低音が響き、音が体を叩く。
暦了は先生の隣で踊っていた。彼は集団の中でもとりわけ有名で、文武両道の秀才だった。
北城市の気候は乾燥低温。でもおびただしいほどの汗をかく。
暦了はいつも島国のアニソンに合わせて動画を撮っているが、この集団では、それとは関係ない、大陸のダンスミュージックが材料だった。古楽なんかではない重厚な音源。
三十人四十人で踊る。そばを通った人が見よう見まねで参加することもある。おしゃべりが挟まれるなんてことは全くない。そもそもサブカルではない。
全員の運動が一体となる感覚。誰もがトランス状態だった。
公園すぐそこの家で、汗を流して、暦了は勉強する。
ダンスで鍛えた頑強な体は、深夜三時まで勉強しても、一向にこたえることがなかった。
朝は、劉先生が早起きしてやっている太極拳の集団に混ざり、心身を整える。
朝は風が冷たい。空はどんよりと曇っていた。
家族の分の朝ごはんを買う。ツイストドーナツや肉まん、スイカなんかを袋に入れてもらって、家に帰る。
両親と話す。第二に入ったことでかなり期待されている。ダンスにうつつを抜かしていると思われたくないが、それは半ば事実だった。ただ、父親はかなり穏健な人で、母親は教育ママだったけれど、理解がないわけではなかった。
そもそも母親は北城市のナンバースクール出身だったし、父親も地方の一流中高から城市大に入った秀才だった。
彼らの脳裏には暦了の現在が自分たちの過去のように映り、期待に拍車をかけていた。
第二の面々、綺麗や燦を呼んで、家で宴会を催すこともあった。
綺麗や燦は、とても美しく、暦了の両親は彼らを連れて北京ダックを食べに行ったりする。綺麗は島国の女の子のように、小顔で肌がもちもちしていて、髪の手入れが行き届いている。燦が短髪で、天真爛漫な感じがするのと対照的に、哲学的で言語に卓越していた。
なんとなく綺麗と付き合うんじゃないかって、暦了の両親は期待して、気前よく振る舞った。
燦は綺麗と暦了の妹のようで、いつもニコニコして可愛かった。
島国の文化(部活とか)を知っているが故に、彼女らは勉強一辺倒には、決して陥らない。
ただ、中高で恋愛をするのは、なんとなく違う気がして、その感情エネルギーを完全に趣味に極振りしている。
間違ってはならないのは、彼らは島国レベルの天才なんか程遠いくらい優秀な、人口圧の高い大陸の上級高中生であること。
ゆくゆくは、大陸の政治機構の中枢にパイプを持つような、優れた人材になるはずの、ウルトラエリートだった。
***
燦は、書画に造詣のある祖父の家を訪ねることが多かった。隔週で祖父の書道教室に通う日々が続いた。
日本の拓本を何冊も何冊も持っていて、燦はそれで島国のことを知った。
くびれる日本の書画は、広がる大陸の書画と比べて、より美的に見えた。
字の迫力だったら大陸の書画の方が上をいくだろう。日本の書画はこぢんまりとしている。でも、小さな宇宙だった。
それに、ひらがなは可愛い。
そんなことを言うと、祖父から怒られるが、日本の書画を参考にして、燦は独特の書体を弱冠十代で構築した。
完全に自分の書いている書を、コントロールしているわけではなかった。ちょっと先の未来に託すように、筆を下ろすと、墨が伸びていくから楽しいのだ。
きっと大人になった時にこの字を書くことはできないだろうなと、燦の祖父はその字を見て思った。才能が弾けた、エネルギーの勢いがまぶしい。
いくつかは自分のために残しておくようにと、祖父から言われ、姉貴分である綺麗に、よく書けたものは贈っていた。(それが五十年後恐ろしく価値のあるものになるとは誰も予想しなかった)
燦の年月はこれから歴史のように評価されていく。島国の影響と大陸の伝統が見事に結実した、少年期の作品は、好事家垂涎の代物だった。
燦の作品を世に知らしめたのは、一人のバイヤーだった。臨連という名の、三十代の男性で、少年宮を訪れた際に、燦の作品を見て、燦にアプローチした。
彼の経営する画廊で、大々的に広告を打って、個展をした。
臨連の経営する画廊は、売るタイプの画廊だった。
お小遣いには破格の値段だが、臨連が燦の書画につけた値段はそれに数倍するものだった。でも、それでも愛好家からすれば、ベテランが書いたものや古物としてしか流通しないものと比べると、破格の安さだった。そして誰もが、燦の才能を認め、青田買いを始めたのだ。
細密な筆遣いと、繊細な筆致で、火種を作り、それは徐々に燃え広がっていった。
燦をプロデュースするのはここでも綺麗で、うるさいほどの煽り文句と、絶妙なレイアウトの写真で、好事家の層を広げた。
特に、若い、書画に偏見のないフレッシュな層が、SNSに反応した。
覆面で活動している歌手のように、見てみたいと素顔は隠して、もちろん第二に在学していることも明かさなかった。
燦という名前が、そもそも筆名のようで、細かいその揮毫が、何よりもまず美しかった。本名とは誰も思わない。
ただ燦自身は、書画はあくまで教養だと、少し大人っぽく考えていた。
***
三人の学びたい欲求は、年長者ほど強かった。
大学に行かない選択を考えている綺麗が、その実、勉強に最もストイックで、貪欲だった。
綺麗は、効率なんか気にしない。効率を気にしないがゆえに、最も効率的な勉強をしていた。手当たり次第に吸収する。手を止めることがない。この方法が効率的なのか考えている間にインプットは終わっている。
何色のペンが記憶に効果があるかとか、書くのは効率が悪いかとか、そんなこと彼女は気にしない。鯨のように飲み、そのわずかな部分を養分とするだけで、第二で相当な地位を確立するのに不自由しなかった。
島国的な顔立ちなのに、大陸の王道をいうような北城方言といい、気の強いところといい、昔でいう北京っ子みたいな、特別なオーラがあった。
誰も口喧嘩では敵わない。実績もそうだし、誰よりも努力していると誰もが認めているからでもあった。
男の子を発奮させるのは大の得意で、ブチギレさせて、努力に追い込む。北城市の男の子は、よく泣くと、笑いながら暦了に話して、暦了を苦笑いさせていた。
「悪魔みたいな女だな」
「逆では? 天使でしょ」
暦了はいつも苦笑い。
「大学に行かない、なるほど」
緻里はしばらく考えた。
「大学は、保険みたいなものだよ。守ってくれるから、掛金を払うに値するかって? 当然値する」
「保険ですか?」
「人生を守ってくれる、鎧みたいなもの」
「鎧?」
「人は外見で第一印象を決める。学歴はその、第一印象のようなものだから」
「でも、私が何をするかとは何の関係もない」
「まさしく、その通り。でも外と内は、厳密な意味では連関している」
「具体的には?」
「それは、たぶん僕が言っても意味がない。選択した後に結果がわかる。観測は行動の後からしか効果を生まない。連関しているとわかるのは、綺麗さんだけだから。僕は、この歳になってそう思う。それに、今でも僕は、島国の第一学府に入れなかったことを悔やむよね。後悔している。でもそれは、今だから後悔するのであって、あの時、後悔することになるとは全く思っていなかった。同級生にはなじられたよ」
「何でなじられたんですか?」
「僕が島国で一番だったんじゃないのって。そんなことないのにね」
「恋人に?」
「厳密にはそうではない」
「わかりました」
綺麗は、深々と礼をした。行き届いたしつけが端々に窺える。
珍しく北城市に雨が降っていた。夜の雨。塾帰りの父親の車の中で、あくびをしながら明日のことを考えていた。
不意に意識が薄らいで、眠るのかなと思った。穏やかな眠りだったが、いつ家に着くのか、それから一向にわからなかった。