百三章《紫松公園》
「制約の言語回路」百三章《紫松公園》
燦はゲームが好きだった。
死ぬほどの量の宿題を片付けて、さあそろそろ寝るぞ、というタイミングでいつも、パソコンの電源をつけてしまう。そして潜ると、大抵綺麗がいる。
彼女たちは時間がかけられない分、課金して追いかける。
課金の資源は、綺麗の場合、漫画コミュニティの月額料金であり、燦は書画の売却益だった。
かなり無邪気に大量課金しているものだから、ゲームではトップとは言わないまでも、かなり高位に位置している。「課金は呼吸」が合言葉。
二人ともよく家族に怒られている。勉強、芸能に手を抜いてないだけ、両親は手を焼いている。
燦は、まだ十五歳で、精神年齢は十歳くらいの無邪気さなので、普通の家庭だから、両親もどうすればいいのかわからない。ただ第二に入れることで、綺麗や暦了という友達を得て、楽しく毎日を過ごしているらしいのが、安心材料だった。
綺麗も、両親からすると何しているのかわからない。なにやらお金を稼いでいるらしい。かしゃかしゃとキーボードで文字を爆速入力し、その音は夜中止むことがない。
暦了は踊りの練習をしている。
誰も眠らない。
***
思純は第二で島国の言葉の授業を持っている。
島国の言葉は、島国で大陸語を教えていた時に学んだ、一つの技術だった。
言語分野での際立った才能を生かして、惜しむことなく第二の生徒に言語能力を伝授する。
厳しい指導で有名で、術式から日常言語まで、細かく指導する。大雑把な知識を非常に嫌い、細部を厳密に詰める。
生徒たちがいつも感嘆するのは、国語の授業だった。
文学の解説は詳細を極め、文章の面白さを最大限に引き出す。社会の仕組みや人間の心情の機微を、深く正確に理解していなければできない芸当だった。
文学の授業では、特に板書も取らず、生徒を当てて感慨を述べさせる。
その時、文学に興味がない生徒も、どうしてつまらないかを聞くと、すらすらとその感慨を述べるから、それすら評価する思純の文学の授業は、人気だった。
詩文となるとうるさい思純も、小説には浸りたいらしい。
思純が詩文に厳しいのは、一つにはそれが生徒たちの思考の枠組みを拡張すると信じているからだった。そもそも文学や詩文に興味がない生徒はいる。でも、恐ろしいほどの量、詩文を暗記させられて、後で感謝することになるのは生徒たちだった。
詩文は教養として、彼らの人生を支える。言葉が彼らを助けるのだ。
島国の言葉を教えている高校は、第二をおいて他にはなかった。
緻里が来てから、その授業はとても立体的になった。
思純は、ほとんど挫折知らずで、落ちこぼれをケアする心理的余裕がなかった。
緻里は補講を行い、成績下位層の底上げを図った。
思純にかかっていた負荷はそのほとんどが解消され、思純の強迫的な厳しさは、少しずつ緩和されていった。
笑顔を見せることも多くなった。
生徒たちは、それが、緻里が来たことによるものだと理解していたが、それがどんな質感を持つものなのか、恋愛をしない彼らには、あまりよくわからなかった。
緻里は昔の同期と再会することも多くあった。思純から連絡すると、夜の第二で同窓会が開かれた。
懐かしい先生も呼んだ。緻里のことは、誰もがよく覚えていた。
***
休日の朝の紫松公園でヴァイオリンの音が響いた。練習しているのは陽成だった。月書がそばで聴いている。
通りがかりの人も、聴き入って、だんだんオーディエンスが増えていく。
島国のゲームミュージックだったり、アニメのサウンドだったり、キャッチーでなおかつ知られていない曲を弾くと、拍手と称賛が贈られる。
「その曲知ってます。合わせて踊っても、いいですか?」
居合わせたのは暦了だった。マスクをしている。
「もちろん!」
陽成がヴァイオリンを構える。「この曲知ってるの?」
暦了はニコリと笑った。マスク越しでもそれがわかる。
「ならいいんだ。楽しんでいこう!」
***
「へえ、第二なんだ」
陽成は言った。
オーディエンスが散った後、陽成はヴァイオリンを仕舞い、何の気なしに暦了に高校を聞いた。
「じゃあ、島国の言葉も知ってる感じ?」
「この前、新しい先生が」
「緻里先生」
「そうです、なんで知ってるんですか? 友達ですか?」
「畏れ多い。僕は緻里先生から島国の言葉を教えてもらった」
「陽成さんも第二なんですか?」
「僕は第四。落ちこぼれだけどね」
「連絡先もらってもいいですか?」
「いいよ。早く平和になるといいね。暦了くんね」
「本当です。よろしくお願いします、陽成さん」
***
「陽成、よかったわね」
「月書、少しは平和になるかな」
「公安には気をつけなさい、やつらは本当に頭が悪いから、あなた官僚だし、目の敵にされるわよ」
「確かに、それは怖いな」
月書の運転する車は、安全だった。ホテルのレストランで朝ごはんを食べるために、車に乗っていた。
第三環線は渋滞していた。
月書は渋滞に少し苛ついていた。
音楽は、優美な古楽調のもの。カーラジオから流れている。月書は空調の向きを五秒ごとに変え、音楽の音量を三回調節する。
ホテルの地下駐車場に車を停めると、苛立ちをこめて車の扉を閉めた。月書にしては珍しいことだった。
朝食を食べる頃には解消している焦燥感ではあったが、陽成は少し気になった。
「なんかあったの?」
「内地に赴任」
「それはお疲れ様」
「あなたも来る?」
「それさ、もうプロポーズじゃないか」
「怒らないで。でも冗談じゃないから。寂しいわけじゃないけど。…………孤独は私をつぶしたりしない。ただ、そこに存在するだけ」
「なんのこっちゃ」
月書は悲しそうに息を吐いた。
「あなたに、何を言っても無駄のようね」
「そいつぁ早計じゃないかな、月書さん」
「なあに?」
「タイミングよく渡したかったけど、俺はそういうのはわからない。指輪」
「へえ、やるじゃない」
「内地で何すんだ?」
「さあ、新兵訓練とかかしら」
「月書は教育係に向いてるよ」
陽成はしばらく考えた。「内地にも仕事あるかもな」
「例えば?」
「国境管理とか」
甘いお粥を飲んで、韮饅を頬張る。ホテルで食事をしたのは、ちょっとしたセキュリティ意識からだったが、デートの場所としても悪くはない。
「私の指の大きさなんか、いつ測ったの?」
「目測」
「嬉しいわ。私も、あなたのことが好きだから」
くすっと笑みを漏らして、指輪をはめた。「私からもすぐにお返しするわ」
車に乗るとまた渋滞する第三環線。でも、今度は、苛立つことはなかった。月書の細く長い指に指輪が光っていた。