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百一章《城市大》

「制約の言語回路」百一章《城市大》


 北城市の空はいつものように薄く曇っていた。景義の送り迎えで、島国の言葉を教える講座を週に八コマこなした。


 現在島国で読まれている本や、緻里の好みもあって、初級ではライトノベルなんかも扱われた。


 魯迅を日本に紹介した竹内好の翻訳は、中国語の原典にすぐにアクセスできるから、中級で用いた。


 上級では綿密な議論と、精密な語彙が必要だと思ったから、日本の哲学者を何人か素材にした。西田幾多郎ら京都学派は、研究対象としても垂涎の代物であり、城市大の図書館に眠っていたテキストたちは、たちまち息を吹き返した。


 上級の講座に参加していた学生は三人だった。


 女性二人と男性一人。


 女子二人はとても仲がよく、活発に発言した。自信があるらしく、彼女らの一部のイントネーションに緻里は不満があったが、意欲に押されていた。


 男子の方は大学院生で、とてもよく勉強していて、予習も綿密な、典型的城市大生だった。


 彼は、積戯せきぎといい、よく原典を音読している姿をキャンパスで見かけた。音読する学生は多い。


 女子の片方は省明しょうめい、もう片方は黒玉こくぎょくという名前だった。


 黒玉は特別美人で、哲学科の才媛であり、うねらせた黒髪がいろっぽく、黒い服を着ていることが多かった。省明とはよく腕を組んで歩いている。


 黒玉は学部生とは思えないほど博学で、緻里も瞬時には変換できない、昔の哲学者の名前を挙げて、引用した。


 省明は言明しなかったが、父親が島国と関係があるらしかった。文語の使い方を見ると、父親から鍛えられたことが窺える。


 ふとしたことで、黒玉と省明が、第二出身であることを知った。


 思純から術式を教わったことがあるらしい。


「思純先生は、どんなふうに術式を教えるの?」


「すっごいきびしぃんですよー」


 省明は言った。


「ほんとにそうです。計算は緻密だし、脚韻は絶対外さない。嘘みたいですよ」


 黒玉も同意する。


「緻里先生も第二にいたんですってね」


 省明が高い声で言った。


「同学ですね」


 緻里はにこりと笑った。「積戯くんは? 第四だったりするの?」


「ええ、実は北城市第四中高なんです」


 ゼミ終わりの十分くらいに、お茶を淹れて団欒する。


 難しいテキストを使った後の、ストレッチのようなクールダウン。


「僕は、陽成先生から、緻里先生のことを聞かされていました。島国の秀才について、面白い話をたくさん話してくれて。地頭についておしゃべりされる時は、自己弁護のように聞こえなくもなかったんですが」


「地頭ね。僕はよく、地頭がいいと言われていた。あんまりわからないんだけど、それはどうやら教育資本によるものが大きいとか」


「ソフト面での優秀さですよね。詰め込みとは違う、教養のような」


「大陸ではどうなの?」


「戦争に勝つということが目的です。それに教養が必要だと、誰が思うでしょう」


 積戯は置かれた菓子をカリッとかじる。


「人の思考の柔軟性は、その人の生存可能性を高めると思わない?」


「まさか。詰め込んだ知識ごと、墓場まで持っていく。全てが無駄です」


「そうかもね。でもたぶん、積戯くんが大学で学んだ島国のことと言葉は、戦場でかなり生きると思うよ」


「自由で楽しむということですよね?」


 黒玉は言った。緻里はそれに笑顔を返した。「自由は、哲学的思考の中では最も重要です。認識が歪めば、結果は崩れます。自由は全ての基礎です」


「僕は、制約もまた、自由の基礎だと思うけど」


 東洋的ですね、と省明は言った。まさか、島国的とは言わなかったけれど。


***


 時間がゆっくり流れていた。もう生まれてから六十年くらい経つような気がしているのに、まだ不惑も迎えていなかった。


 大学受験で大学中心に入ってから、一度も本気を出していないような気がする。


 抑制された感情と、噛み合わない身体感覚は、緻里をずっと沈黙させていた。


 本当の自分でありたいとは思う。ずっとそう思い続けていた。その像は遥か昔、高校生の時、思純と飛んだ北城市の空に置き去りにされていた。


 飛びたいな。緻里は若い時に嬢憂とよく空を飛んだことを思い出した。


 孤独だとは思わなかった。いつも隣に仲間がいた。でも、隣の人は本物だったとしても、自分が偽物だったら意味がない。


 高校生の時は冷徹だった気がする。人のことは気にならなかった。今でもそうなのだろうか。多くの人の助けを借りてここにいるのだから、きっとそれは違うのだろう。でも本当は、冷徹でありたいのだ。たとえ残虐さは希釈されて無害だとしても、激情を抑制する必要が一体どこにある?


 死ぬまでにはまだ時間がある。


***


「緻里さんは何のために戦争に奉じているんですか?」


 唐会の簡単な世間話。


「さあ、特に理由はないよ」


「理由がないんですか?」


「できることだからね。殺すことも守ることも愛することも、できない人っているでしょ?」


「ご自身が何か特別な存在という意味ですか?」


「そりゃそうだよ。自分で言うのもなんだけど、愛してなきゃ大陸語なんかやんないよ」


「緻里さんには、理由がないんじゃありませんね。理由が常に背景にあって、強くあなたを支えている。当たり前なんですよね」


「そんなにかっこよくないよ」


「大陸は、島国に勝てるでしょうか?」


 緻里はその質問にしばらく考えた。


「隣の国だからね。勝ったり負けたりさ」


「どうやったら島国を倒せるでしょう?」


「殲滅するほかない。世界から島国の人間を消せば、島国を倒すことになる。逆もそうだ。大陸人を殺し尽くせば、あるいは戦争に勝てるかもしれない。でもそんなことはあり得ないと、昔、胡適が言っていたよ」


「胡適、久しぶりに聞きました。島国の人からその名前を聞くとは思わなかったですけど」


「でも、憎いよね。強い怒りを覚えるよ」


「何にです?」


「僕は、こんな柔らかい人生を歩むつもりじゃなかったんだ。もっと尖って、もっと人を軽蔑して、生きていくつもりだった。落ちこぼれて、回り道して得たことは、本当にたくさんある。でも、もっと人を軽蔑したかった。ひんやりとした感覚を持ち続けていたかったと、最近思うよ。何やってんだよ緻里って、感じ。憤りしかないね」


「嫌い嫌い嫌い嫌いキライ、ってやつですか?」


「唐会さんは、島国の文化に造詣が深いねぇ。知ってる? 孤独って、すっごく楽しいんだよ」


***


「緻里、時間があるなら、第二にも顔を出したら?」


 研究室を訪れて、思純は緻里を誘った。


 監視に言伝すると、思純は運転してきた車に緻里を乗せた。


 欧州車。ぶつかっても誰にも負けない頑丈さを備えている。


 北城市の車道からの景色はいいものだった。ビルを眺めるにはうってつけの立体交差。空はくすんでいる。


「ご飯は食べた?」


「いいや。まだだよ、食堂で食べようと思っていたんだ」


「それなら、どこかホテルにつけて、レストランでも行きましょうか」


「今度、島国に来たら、いいレストランでお返しするよ」


「楽しみにしている」


 思純は音楽をつけた。島国の歌声だった。


「思純は自由だね」


「いつもビクビクしているわ。あなたが死ぬんじゃないかって」


「僕を殺せるのは、君だけだと思うけど」


「自由なんて、制約がなくては際立たない。ただの怠惰よ」


「同感だ」

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