百章《箱庭》
「制約の言語回路」百章《箱庭》
肺の傷も癒えた頃、緻里は大陸軍所有の収容所に身を置くことになった。
緻里の階級に相応しい整った環境で、少なくない島国の捕虜とともに、しばらく過ごした。
そこは一つの大きなビルで、ホテルやオフィスとも違っていた。ビルの十階には箱庭があり、そこで外の空気を吸うことができた。
基本的に外に出るためには、監視(付き添い)が必要で、緻里は逆に大陸人が付き添いたがる、人気者だった。
緻里はそこで、ほとんど自由に大陸の文献や音楽を嗜んだ。
少佐がそんなものだから、下士官たちも徐々に大陸語を学ぶようになった。
緻里を見舞う大陸人は後を絶たなかった。そこでスラスラと大陸語で会話するものだから、島国の下士官たちは、緻里をスパイかと思いすらした。
紹興酒や青島ビールが食卓に並び、食事も立派なものだった。
緻里が来るまで、冷遇されていた捕虜たちは、緻里によって待遇が改善されたことを、ありがたく思わないわけにはいかなかった。
彼らは死を意識した者たちでもある。
神経がたかぶっていたり、衰弱していたりするから、別の文化圏の応接に、恐怖を覚えたり曲解したりする。
大陸は、島国の人間にしてみれば、どこか野蛮で、非人間的なところがあるように感じられる。
それが戦争のテンプレートなのは、彼らの理性でも理解はできる。大陸の人間だって、同じように家族を作り、社会を形成している。冷酷で冷徹だと言われても、そんなはずないことくらい類推はできる。でも。
でも戦争には敵がいて、敵を殺すのに良心が邪魔をするのでは困ってしまう。
撃ち落とされたということは、その良心を、敵に期待できないということでもある。
その敵と、緻里は、にこやかに話す。ふつふつと湧いてくるのは、緻里が敵ではないかという疑念。
想桜は、緻里のことが最初から嫌いだった。
***
テレビをつけても大陸語が聞き取れないから、フラストレーションは溜まるばかり。
音楽的で美しいとされる大陸標準語も、島国の人間の耳には声が大きくてうるさい言語に聞こえる。
「緻里さんの大陸語は、やはり島国的ですね」
箱庭の管理人、唐会がふらりと寄って言った。
「訛ってる?」
「いえ、そういうことではなくて、物腰柔らかですねという意味です。私もこの仕事をしていて、島国の言葉を勉強しましたが、今でも詰まる音とか、tとdは区別するのが難しい。語気が、まるで敬語を使っているように聞こえるんです」
緻里は恥ずかしそうに笑った。
「話すことは少なかったから、あの《喧嘩腰》を忘れてしまったのかな?」
「そういう意味では思純さんの大陸語も、和やかですね」
「彼女と交流があるの?」
「思純さんは島国のことを常に気にされていました。たぶんあなたに会いたかったんですよ」
「……、そっか」
「どこか、行きたいところはありますか?」
「そんなに特別扱いしてくれなくても大丈夫だよ。僕は、北城市にいるというだけで、この空気を吸えているというだけで、この上なく嬉しいんだ。でも、第二が、焼けなくてよかった。あそこには思い出が詰まっているから」
「もし、体調が戻ったらでいいのですが、一度大学の講座に出席していただけませんか? 城市大で、島国の言葉を話す言語将校を育成しています」
「もし、僕で差し支えないのなら、構わない。ところで、お願いがあるのだけれど」
「どうぞ」
「島国の情報にアクセスできるようにしてほしい」
「情報障壁の緩和についてですか……、なるほど。新聞くらいでしたら、いくつか専用のタブレットを用意します」
「ありがとう。箱庭の面々は、心細いだろうから」
***
城市大には湖があり、スーパーが入っている。コンビニがあり、いくつもの食堂がある。
学生は基本的に寮住まいで、大学は一つの大きなゲーティッド・コミュニティだった。
外交省主催のこのセミナーは、陽成が事務担当者として企画した。
「陽成くん、君の島国の言葉の専門知識は、なんなら僕の一般的な語彙より、教えるのに適しているのでは?」
「俺は、たまに講座を持ちますよ」
陽成とは島国の言葉でやりとりする。「でも、この前外大でいらっしゃった時、その日本語が、極上の標準語だと仰っていたじゃないですか」
「そんな自意識に塗れたことを口走ったのか」
「府月の出身というのは、大陸ではナンバースクールに相当するのだと言うと、外大の子たちは悔しそうな顔をしていました。俺もね。でも、今回は城市大です。多くはナンバースクールから来ています。緻里先生の頭脳にも、太刀打ち可能かと」
「何を教えればいい?」
「口語です」
「それはどうして?」
「読むことに関して、彼らの語彙は充分すぎるほどです。むしろ島国の兵士や外交官と、にこやかに話したい」
「陽成くんのように」
「西田幾多郎のテキストは、面白かったですけど、流石にあんなふうに話す人はいないですから」
「あれはやりすぎだった」
陽成はけたけたと笑った。
***
城市大まで行く道には、監視がついていた。
「ごめんよ、緻里少佐」
そんなに強い感じはしなかったが、そこに配置されるということは、なんらかの特殊能力(=異能)を持ち合わせているに違いなかった。緻里の異能は完全に大陸側に知られている。そこであてがわれた要員。
公安の人間であることが、なんとなく感じでわかった。軍や省庁に勤めている人間とは少し違う。荒っぽい感じが、大陸風で、緻里的には好ましかった。
「景義です、緻里少佐。よろしく頼むよ」
「こちらこそ」
欧州車に乗って、助手席に陽成、後部座席に緻里と景義が座った。
「疑ってるわけじゃないが、陽成はどちらかというとそちら側の人間だ。俺は、それを監視する役目を負っている」
「当然の布石というわけだね?」
「あんた、話せるな」
景義はタバコを取り出して火をつけた。
「景義さん、タバコは臭いがつく」
陽成が文句を言った。
「いいじゃないか、上級官僚。そんな杓子定規にならなくても」
景義は黄ばんだ歯を見せて笑った。
大学の門での警備をパスし、緻里たちは車を降りて研究室に向かった。
緻里を招聘したのは詩惟という女性の教授だった。
「こんにちは、緻里さん」
城市大の「日本文学研究室」は、一つの小さな図書室だった。
古典芸能の研究が盛んで、欧米の研究者を呼んでいるみたいで、若い西洋の研究者が何人かいた。准教授はフランス人だった。
緻里が拙いフランス語で自己紹介する。フランス語は言情研にいた時に戯れに勉強していたものだった。
「島国の言葉で大丈夫です」
「遠慮されてしまった」
カミュと呼ばれた准教授はにっこり笑うと握手を求めた。緻里は手を出して応じた。
島国との戦争で必要になった言語将校の教育を請け負うことになった「日文研」だったが、口語に関して得意な教員は少なかった。
カミュは学生の頃島国に留学していたらしく、懐かしい若者言葉を知っていた。
詩惟も、ずいぶん昔に島国に留学し、戦争が始まる前には、何度も島国に足を運んだ。
初級から上級までカバーしなくてはならない日文研は、常に人材不足に悩んでいた。
詩惟はいそいそと緻里の非常勤講師認定を急ぎ、いくつもの講座を緻里にふっかけた。
大陸語を解する島国の人間は、本当に珍しい人材なのだ。
それは緻里にしてみればとても嬉しいことだった。
大陸一の頭脳集団と会話できる。それはこの上ない行幸だったから。