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十章《冬》

「制約の言語回路」十章《冬》


 言語回路を利用した術式を「詩」と言ったのは北城市第二中学の先生だった。


 詩というものが今でもわからない。


 それは美しい言葉のことなのか、情感の伝播のことなのか、神との交歓なのか。


 多分そのどれでもない。それが緻里が文学を学んで感じたことだった。


 逆に「その全てである」と言う人もいるかもしれない。それはそれでわかる気がする。その全てがわからないから、暫定的に「そのどれでもない」と言う。


 単に人間であるということが、自然に文学を生み出す。だからこそ、文学はこの時代に術式となり、世界に働きかける。人間がこの数世紀科学技術で働きかけた世界に、大陸の「詩」は、改めて文字を刻み込む。


 能力者向けの軍事教練が始まった。


 緻里はほどほどに手を抜き、理維のお小言を聞き流しながら、言語回路で編んだ術式をこっそり展開していた。


 向き合った相手の足元を掬い転ばせるくらいのことは、誰にも気づかれずにできた。


 打撃の衝撃を軽減することも怠らない。


 それは空間に関する働きかけというよりは、呪力であり精神感応だった。


 人間の精神が完全に解明されているわけではないこの時代でも、向精神薬が作用機序がわからずに使われているこの時代だからこそ、言葉が人に作用するメカニズムも半分くらいの理論と半分くらいの経験で成立していた。


 理維は相変わらず自分の全能感に酔いながら、重力で人を圧していた。


 石を浮かせることも、砂塵を巻き起こすこともできる理維に対抗することができる学生は今のところ一人もいなかった。


 重力への働きかけは、大陸由来の術式ではなく、理維の固有の能力だった。だから解析ができなかった。


 砂塵が鬱陶しい。この軍事教練は誰が得するのだろう。嫌気がさして空を見た。日が薄く照っている。


「はぁ」


 緻里は見えないようにため息をついた。


 空気中に塵が満ちている。吹き上げる風でみな目を覆う。理維への苛立ちが蔓延する。


 緻里が湿度の高い上空の空気に接続すると、凝結核を求める空気が雨に変わる。


 薄い白い雲が太陽を覗かせながら、ポツポツと雨を降らした。


 小さな雨粒は地面に染みを作り、天には太陽がまだ燦々と輝く。


 高気圧が優勢な海都の今日の天気では、狐の嫁入りがいいところだ。緻里は結果に無関心に心中毒を吐く。


 理維は掌で雨を受ける。砂嵐は沈静した。


 カフェオレのように濁った雨粒が、頬に当たり下へと伝う。みんなホッとしていた。


 高校生の頃だったら、嫌なやつの上からバケツをひっくり返すみたいな雨を降らせることだってできた。緻里は過去を思い返して今の自分への不満が尽きない。


「どうでもいいことなのにな」


 つい独り言を漏らす。


 ポンポンと花火が鳴るような音がする。緻里の警戒範囲内でいきなり小さな爆発があった。


 視認できる限界ギリギリで、煙が立っていた。でもそれは火薬の煙なんかではなかった。


「何かが『爆縮』している」


 明らかに空間の密度が濃くなっている場所がある。そこが周囲から空気を引っ張っている。小さな爆縮が連続する。ブドウのように濃密な空間が房になって、湿度を凝縮し、雨粒の直径をミリ単位で大きくした。霧雨から雨は本降りになり、晴れ間を遮るように雲がわたを作った。


 爆縮は、その「指紋」がうまく解析ができないから、これも大陸由来の術式ではない。


 軍事教練に参加する学生が能力を使う気配は感じなかった。


 謎に心を奪われながら軍事教練は終わり、各々シャワーを浴びに寮へと帰った。


 午後の遅い時間に、緻里は藤墨先生の研究室に顔を出した。


 ずいぶん冷えるなと思い、暖房をつけた。


 誰もいない研究室で、空調は音もなく稼働している。


 大陸語の書物を図書館で借りてきて、それを小さな声で音読する。


 温かいコーヒーを淹れ、つらつらと読み進める。辞書を引くこともある。コーヒーに口をつける。


 外はすっかり雨模様で、遠くまで雲が立ち込めていた。


 海は鈍色、鉄のようで、秋から冬へと季節が移ろうのを目の当たりにする。


 海鳥が雲と海に白い斑を落とす。


「今日は雨が降った。明日も同じように空は鈍く低く、海は波を立たせる。僕たちは眠りながら揺られるに違いない」


 研究室でうとうととしていると、ノックの音がして、言雅が入ってきた。挨拶をするのが面倒で、緻里は寝たふりをした。


「寝ているのか」


 カーテンを下ろし、電気の光量を高め、ポットの水を換え、言雅は緻里の斜め前の席に座り読書を始めた。


 さらさらとノートに簡単なメモを取る。言雅は鉛筆を使っていた。時たまに鉛筆削りでガリガリと芯を新しく尖らせる。


 緻里は久しぶりの感覚に驚いていた。気温が下がり、外では雪が降っていた。雪の軌跡を追いかける。暗闇の中をどこまでもどこまでも。白い現象の真奥を訪ねるように、雪の林の間を抜けて、心ばかり旅をする。そこに紙の擦れる音と、鉛筆の走る音、女性の息づかいがシンフォニックに重なる。何も見なくてもその指が細いことがわかる。


 静寂と静謐も、動きがないことを必ずしも意味しない。


 ページをめくる音がしなくなってしばらくした後、緻里はゆっくり体を起こした。


 言雅は本を下敷きにして眠っていた。緻里はその寝息から、言雅が深い眠りについていることを知覚した。


 深い色が逆に透き通っているとすら思わせる、言雅の黒髪は、キューティクルが研究室の明かりを映し取っていた。


 外の自転車のブレーキがかかる音も、雪に吸収されてまどかになる。


 もう暗くて見えていない海面から、湯気が立ち上るのがわかる。冬が訪れたことがわかる。


 根雪になる。雪が積もる。緻里は言雅が起きるのを待った。その間に暖房の設定温度を一度上げた。


 ウールのコートが言雅の椅子の背にかかっていた。ブランド物ではないが、高級な物だとわかる。きっと起きていたら言うだろう。


「高校生の時から使っているよ」


 その時の言雅のしたり顔を想像して、緻里はくすっと笑った。


「ちょっとだけ向こうを向いていてくれないかな」


 緻里はビクッと反射した。


「ひどい顔していると思うし、髪も乱れているから、しばらく向こうを向いていてくれ」


「え、えっと」


「よだれを拭うところを見たいか?」


 緻里は席を立つと、目を泳がせて、本を取ると小さな声で音読した。


 その間に言雅は髪をすき、口元を拭い、メガネをかけた。そういう音情報が静寂の中では逆に際立って女らしかった。


 口紅のキャップを開ける音がして、「あれ? 口紅なんてしてたっけ」と思ったが、想像力を働かせ過ぎるのも良くないことだと、緻里は自分を律した。


「ああ、もういいよ」


 言雅は髪を耳にかける。広い口が三日月状に弧を描いていた。


 外は暗闇で満たされる。わずかな光が今締め出され、海都は宇宙に浮かぶ船のように、街灯の一団を点灯させる。今にも離陸するとばかりに微かにまたたいた。


 緻里は言雅と連れ立って、雪の降る中心のキャンパスを、ゆっくりと話しながら歩いた。


 砂州公園へ行こうと言雅は言った。


 緻里はうなずいた。そこがどんな場所なのか知らなかったが、言雅が「二人の時間」を提示したことは明らかだった。


 緻里は何も考えないわけではなかった。


 類比するように思純のことを思い出したし、嬢憂が今どうしているかなんてことを想起せざるを得なかった。


 雪が降っていた。雲間から覗く満月がまだ低空を昇る最中で、一際大きく見えた。雪は後ろから月光を、前からノスタルジックなオレンジの光を受け、ひらひらと踊っていた。


 橋がかけられた砂州公園からは、大学中心のキャンパスがきらめき、海都を含む半島をなぞる国道が長く遠くまで続いているのが見えた。国道の光は消失点へと入り込んでいき、粉雪はどこまでもそれを追いかけようとしていた。


「なあ、今何を考えている?」


「何も」


「君は、そうやって、誰かが君に声をかけてくるのを待つだけなのか?」


「それは」


「誰かが君のために孤独を癒してくれたことを、後生大事に抱え持って、それが君のアイデンティティで、揺らがなくて、温かくて、優しいから、それでいいって言う。本当にそれでいいのか?」


「僕はそんなこと」


「自覚していないなら敢えて踏み込もう。その指輪は一体なんだ?」


 こぶしが握り潰されるかと紛うくらい、指輪を嵌めた手に力が加わった。


「誰かに親切を請願できるのは、君が優しいからだと思っているのか? 君が一体何者なのか、わからないから親切なだけだ。君と話していると悲しくなる。当たり障りのないやりとりに辟易するよ。たかだか雨を降らせられるくらい、その程度のギフトで満足するなら、君はもうこの世界の愛を勝ち取る競争から脱落している。私たちは本気なんだ。君とは違うんだよ」


「なんでそんなことを言ってくれるんですか?」


 言雅のコートの裾から出る指先が寒さに震えていた。


 空気が境界を持って歪んだ。圧縮されると粉雪が吸い込まれていった。中心でパスッと音がする。


「別に。途端にどうでもよくなっただけさ」

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