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「ここに小野篁がいる」
先生は奥の部屋に進み、とある大きな屏風に描かれた絵を指さした。そこには確かに平安貴族が着ている服の男性が笏を持ち立っている。
「こいつは何をしに地獄へ行ってたんだろうな」
その絵を向きながら言うだけで、先生のその横顔は格好いいはずなのに表情が冷たく見えた。
「小野篁と地獄には色々と言い伝えがある。
紫式部は源氏物語を書き、その内容は愛欲にまみれ世俗的。多くの人々の人心を惑わしたと地獄行きになった。
そこを助けたのが小野篁だと言われている。
面白いことに、紫式部の墓所に小野篁の墓もあるってのはわざとらしいけどな」
初めて聞いた話しに私は驚いていた。
確かに私にも好き勝手言って良いようなことを篁さんは言っていたけれど、そんなことがあったなんて。
今度会ったらこれは是非聞かないと。
「もしも小野篁本人に会えるのなら、聞いてみたいよな、その理由」
はっ、と顔を上げると、先生の目が鋭く私を見て思わず顔が強ばる。
整った顔にある鋭い瞳が、その場から動くことも許さないように私の目を刺すように見ていた。
「・・・・・・冥府通いの井戸があるそうだ。見るだろ?」
その目のまま、そう言われても私はごくり、とつばを飲み込むだけで頷くことも出来ない。
急に人の声が聞こえて、金縛りから解けたように身体が動いた。
「次が来る。いくぞ」
くるりと背を向け、外の庭に先生が向かう。
先生は、何か気づいているの?
そもそも最初の面接で、何かを隠しているか聞かれた。
法律事務所だから、何かよからぬことを裏でしていないのか鎌を掛けたのかと思っていたが、わざわざ私をここに連れてきた。
それがおかしいとは思っていても、私と閻魔庁とのことなんて普通結びつくはずが無い。
たまたま偶然が重なってるのだと言い聞かせ、お寺のスリッパを借りて既に縁側から庭に降りた先生の後を追った。
そんなに広くない庭園だが、大きな木に囲まれ周囲の建物があるのが気にならない。
白い砂利が敷き詰められ島のようにこんもりと緑の塊があり、降りた先に細い竹から水が下にある大きな石に静かに流れ、その上には『小野篁公 黄泉がえりの井水』という説明がある。
そして顔を左に向ければ小さな赤い鳥居が見え、その横には白い石で造られた正方形の井戸。
それを見て初めて引き寄せられるようにここに立った、修学旅行でのことが蘇る。
閻魔庁にバイトに行くのは深夜だ。
深夜0時きっかりにマンションのチャイムが鳴り、人の形をした鬼が迎えに来る。
マンションは見事六道珍皇寺に近い場所なのだが、実は家からこの井戸まで徒歩で行ったりはしない。
玄関のドアを開けると、閻魔庁の控え室のドアに繋がるのだ。
いわゆる猫型ロボットが出すヤツだ、と思ったけれど、あくまで地獄の一部分だけを繋げられるだけらしい。
井戸を通る方法もあるが、あのフリーフォールを毎回味わうのは嫌だと言ったところ、篁さんがこの方法を提案してくれた。
あくまで最初あの井戸を通り、資格を得て閻魔大王と縁を結ばないとこの方法は使えないそうだ。
篁さんの時にはこの方法は無く毎度井戸から入って井戸から出てくるのは大変だったと言っていたが、こういうのも時代で進歩するのかもしれない。
「出雲」
ぴん、とした声に横を向くと、先生が私を見下ろしている。
その瞳は間違いなく私の表情を観察していた。
「な、何ですか?」
動揺を見せないように声を出したはずが、最初に躓いて焦ってくるのを必死に押しとどめる。
先生はただ見下ろしているだけだと思うのに、なんでこの人は私をこんな鋭い視線で瞳を覗き込もうとするのか私にはわからなくて、それが怖い。
「向こうには『黄泉がえりの井戸』があるそうだ」
そういうと右奥を指さしたが何か奥に入る道があるだけで私は怪訝そうにする。
だけど先生は気にせず進みだし細い道を通ると行き止まりで、そこにはまた同じような井戸があった。
横にある看板に『黄泉がえりの井戸』と説明書きがあって、割と最近旧境内地だった隣接民有地から見つかった井戸なのだそうだ。
篁さんは昔ここから出てきていたんだろうか。
「そう言えばもう一つ、嵐山の奥の方にも黄泉がえりの井戸と言われているところがあったな」
「そうなんですか?!」
驚く私に、先生は表情も無く私をみて、何か罠にはまった気がしてしまった。
「興味があるのか?」
「えぇ、まぁ」
引きつった笑みで答えた私を先生は見下ろしていたが、急にふ、と口元を緩めた。
「随分と小野篁に興味があるようだ。
いや、地獄に、か?」
細まった目に、思わず膝ががくん、となりそうなほどに圧力を感じる。
魔王と呼ばれるのは態度だけじゃ無い、一之森先生から時折感じるこの異様な圧力というか存在感のようなものは一体なんなのか。
血の気が引きそうになっていると先生は人差し指を伸ばし、私のおでこを小突いた。
思わずよろめいた私の身体を先生が腰と背中に手を回し、先生に抱きしめられそうな近さになってただ呆然と見上げれば、先生は驚いたような顔をしてる。
「まさか本気で倒れそうになると思わなかった」
・・・・・・は?
この人は、倒れるかもしれないとわかっていて小突いたの?
そして本当に倒れかけた私に驚いた、そう言ってるの?!
混乱している私を先生は大きな手で私の身体を起こして立たせたけれど、左腕は大きな手で掴まれたまま。
確かに未だに足に力が入らない感じだから、支えて貰うのは助かりはするけれども。
「大丈夫か?」
黙っていると先生が唐突に顔を覗き込んできて、驚いてまた倒れるかと思ったけれど私の両腕をしっかりと先生が掴んだ。
「近くにカフェがあったな。そこに行くか」
先生は私の片腕を掴んだまま歩き出し、私は足がもつれそうになりながら振り返る。
そこには蓋の閉められた井戸がある。私の運命を変えた冥府への入り口が。
この場所に、この先生と来たことに何か意味があるのか、先生は一体私の何を試したいのかわからないまま六道珍皇寺を後にした。