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法律事務所でのバイトはあの後すぐに始まった。
最初は物の置いてある場所やコピー機の使い方などを説明され、早速コピーを大量に命じられた。
まだ利き手が時折痛むので無理の無い範囲でと言われたが、そんなことしていたら何も出来なくなってしまうので多少の無理は仕方ない。
まだ入ったばかりなので本当に簡単な事務仕事からだが、一之森先生が何かの締め切りみたいなものが近づいていたり、電話相手が最悪の場合は喧嘩したりして苛立ってくるとその不機嫌オーラが事務所一杯に広がり恐ろしいので近づかないようにしている。
別に八つ当たりされるわけではないのだが、ここには冷徹魔王がいる、そんな威圧感を感じてしまう。
だけど一緒に仕事をするようになり多くの依頼者が心から先生を信頼しているのを知って、学校で見るような冷徹な人じゃ無いのかもしれないと思い始めていた。
「あぁ、君が新しい子かな?」
それは二週間くらい経った金曜日のこと。
70歳くらいでスーツ姿で恰幅の良い笑顔の優しい男性が、お昼くらいに事務所に行くと奥の大きな席に座っていた。
事務所に入ってきて驚いている私に、一之森先生が私を手招きして奥の席に呼ぶ。
「こちらが近藤先生。ここのボス弁だ。
彼女がお話しした出雲小夜子さん。私が教えてる大学の法学部生です」
「出雲小夜子です、よろしくお願い致します」
近藤先生の机の前で深々と頭を下げれば、優しい顔でうんうんと近藤先生が私を見る。
「僕はほとんどこの事務所には来てなくてね。
自宅で仕事しているか顧問先を回っていることが多くて不在がちだけど、彼に任せておけば大丈夫だから」
にこにこと言われ、私も何だかほわっと癒やされてくる。
仏だ。
後光が差すかのような穏やかな人だ。
それに比べ、こちらの俺様魔王ときたら。
「この後はどうされるのですか?」
「ちょっと新人さんの顔を見ておきたくて寄っただけだよ。
この後は顧問先をいくつか回って夜は飲み会だろうねぇ。
どうだい?さすがに今夜の飲み会は来ないかい?」
一之森先生の質問に、近藤先生が聞いてくる。
「そうしたいのですが今夜までに仕上げる物がありまして」
「そうか。
でもまだまだ君は顧問先と信頼関係が築けていないからね、無駄に思えるかもしれないが出来るだけそういう時間も大切だよ?」
「わかりました。次回はお供させて頂きます」
素直に魔王が仏様に従っている。
私はそのやりとりを見て、一之森先生は近藤先生を慕っている、尊敬しているのは理解できたし、近藤先生もとても一之森先生を信頼しているのが伝わってきた。
近藤先生は私に顔を向け、目を細めてると、
「一之森君が選んだ子なら安心だ。
出雲さん、彼のことは任せたよ」
何故私が先生のことを任せられるのだろう。逆では無いだろうか。
つい困惑したような表情を出してしまったが、近藤先生はそれをみても笑顔だ。
「おっと、もう行かなければ。また時間見てくるよ」
「お願いします、溜まっている書類もありますので」
「あぁそう?全部捨てておいてよ」
「早いうちに先生自ら処理を是非」
近藤先生に一之森先生は苦笑いしながら返していて、やりとりと見ていると本当に仲が良さそうだ。
笑顔の近藤先生を送り出し、ドアを閉めた。
「優しそうな先生ですね」
背の高い一之森先生は私を見下ろし、く、と笑う。
「今は、な。
あの人は元裁判官で、かなり厳しい判決を出すことから『閻魔の近藤』という通り名があるほど怖い人だったんだよ。
今はそんな面影なんて見えないように思えるが、あのお歳で頭が切れるしこの京都で顔も広く、多くの人から信頼されている人だ」
「凄い先生なんですね」
「あぁ」
あの仏様のような人が閻魔なんて呼ばれ方をしていたとはとても思えない。
ん?そう言えば、閻魔ちゃんが昔『閻魔大王は仏でもある』とか何とか言っていたような。
「あー甘い物、食いたい」
先生の言葉で現実に引き戻される。
あぁ、始まったか。
「さっきお昼食べたじゃ無いですか」
ぼけ気味のおじいちゃんに語りかけるように言うが、相手は何も気にしていない。
「おやつが欲しい。そうだな、美味いチョコが良い」
この魔王、実は顔に似合わず大の甘党で、始終何か甘い物を食べている。
学校では冷たそうな顔をしているのに、ここでは子供のように甘い物が食べたいと突然言い出すのだ。
「チョコならお菓子コーナーにありますよ」
「いや、今は生チョコとかトリュフチョコレートの気分」
この事務所は奥に小さなキッチンと、先生が昼寝に使うベッド代わりのソファーがある。
キッチンにはもらい物のお菓子や先生が買ってきたお菓子が引き出しに一杯あるのに、よりによってそこには無い生チョコか。
もう私に買い出しに行けと今回も言われているのがわかるのでため息をつきつつ、
「で?どこのが欲しいんですか?」
と聞くと、
「出雲はどこのがいいんだ?」
「ここから近いとこが良いです」
コンビニで買ってこいと言うのでは無いのはわかるし、どっちにしろ何かお店がぱっと思いつくほど私はそういう情報に明るくない。
それなら出来るだけ労力は減らしたい。
「んじゃ任せた」
先生は財布から五千円札を出して私の手に置いた。
早く買ってこい、そう顔に書いてある。
くそ、顔だけ無駄に良いな。それは仕方が無い、認めてやろう。
「行ってきます」
私は財布にお金を入れて鞄を持つと、こちらも見ずに仕事を始めた先生を視線の端に見て事務所を出た。
「さて、ここからだとどこにあるんだろう」
まだこの界隈を私はよく知らない。というかまだまだ京都をよく知らない。
住んでみるとなかなか出歩かないもので、美味しいお店とやらもまだほとんど入ったことは無い。
一番はお金の問題もあるのだけれど。
京都は知らなかったのだがチョコレート激戦区らしく、京都だけ、なんてお店が沢山ある。
どれも高級な感じがするが、いつかはひとつづず行ってみたいものだ。
まずはビルの一階ロビーでスマホを出すと生チョコで検索しこんな市役所と御所の間のビル街になんて何も無いかと思えば、まさに!というお店がヒットして私はわくわくとその店へ向かった。