これからもずっとよろしくね。
"この学校の美術室には幽霊が出る。それは酷いいじめを苦に首を吊って自殺した女子生徒の霊で、見た者は首を締められて殺される"ーーなんて、どこの高校にもひとつはありそうなくだらない怪談だけど、その美術室というのが、私が毎日放課後に部活動を行っている場所なのでちょっと気味が悪いとは思っていた。
私がこの怪談を聞いたのは同じクラスの友だちからで、その子もまた友だちから聞いたらしい。これも怪談にはよくあるパターンで、結局、最初は誰かの嘘っぱちから始まっているのだ。
だからこの世に幽霊なんてバカげたものは存在せず、仮にそれらしきものの目撃者がいたとしても、風にゆれるカーテンや石膏像の頭を見間違えたか、その程度の話に違いないのだ…………私はそう自分に言い聞かせながら、目の前のカンバスから顔をそむけて、誰もいない美術室を見回した。
教室の窓からはオレンジ色の夕陽が射しこみ、電灯のついてない部屋をつよいコントラストで照らしている。光と闇が最もつよく二分する時間だ。
美術室に残っているのは自分ひとりだけだった。もともとそんなに人数の多い部活ではないし、学校が活動に熱心なのは運動部ばかりだ。来月に開催される、夏の絵画コンクールに作品を出す予定なのも自分だけで、それだって顧問の年配の男性教師に伝えたら面倒くさそうにしぶしぶ了承されたくらいだ。
……ときどき、自分がまちがっているのかと感じることがある。でも絵を描くことが好きなのはまちがいないし、その気持ちに嘘をつきたくない。だからスマホゲームや動画投稿ばかりやって作品をひとつも作らない部員たちにからかわれても、少なくとも在学中は、私は絵を描き続けてやると決めたのだ……。
私は絵筆をおいた。
(キリのいいところまで描き終えたし、今日はもう帰ろう)
ふと時計を見ると、時刻は18時をまわっている。席をたって後片付けにかかった。教室内の水道のシンクにパレットと絵筆を持っていく。シンクは窓に面していて、顔をあげる学校のまわりの街並みが見える。なんのへんてつもない夕方の寂れた田舎町の風景……時代に取り残されたような印象に、教室にひとり残って寂しく作業をしている自分自身の姿を見た気がして、私は自嘲した。
違和感があった。
目の前の窓ガラスにはかなり薄く自分の姿が反射しているのだが、その像が二重になっているように見える。最初は窓ガラスが二枚重なっているせいかと思ったが、教室の窓はすべて閉まっている。重なるわけがないのだ。
ーーーーつまり、自分の後ろに誰かが立っている。
ゾッとして、ふりかえった。
ふりかえった先には、描きかけのカンバスと、誰もいない美術室の光景がある。迫る夕闇に影はますます濃くなっていて、まるでオレンジと黒以外の色が失われてしまったかのようだ。不気味な非日常感に動悸がわずかにはやくなる……。
私はふぅと息をついた。もともと小さいころから怖い話は好きではないが、今日にかぎってなぜか思い出してしまったせいで、悪い見まちがいをしてしまったのだろう。目の疲れもあるかもしれない。
(……はやく帰ろう)
そう思って、再びシンクと窓の方を向いた。
目があった。
"それ"ははっきりと窓ガラスに写っていた。
「ひっ!?」私は小さな悲鳴をあげたが、視線をそらすことはしなかった。目を反らしたら何かまずいことになるーーそう直観していたのだ。
"それ"はガラス面に反射する私の像の背後に、しかし私の像よりもくっきりと姿を現していた。大まかな見た目はこの学校の女子生徒に見えるが、肌は血管が浮き出るほどに充血して真っ赤で、長い黒髪は光を反射せず、限界まで見開いた両目は血走ってまっすぐにこちらを見ていた。そして何よりも不気味だったのは、"それ"の首は異常に長かった。普通の人間の倍くらいの長さがあって、まるで上に引っぱられて今にも千切れそうなゴム人形のそれのように見えた。
私はすぐに連想したーー「く、首を吊った女の子…………?」
"彼女"がニタリと笑ったのがわかった。
まちがいない。怪談の噂は本当だったのだ。"彼女"こそがこの美術室で首を吊って死んだ女生徒の幽霊に違いなかった。
私は全身が震えて指の一本も動かせなかった。カチカチと奥歯を鳴らしながら、"彼女"の目を見ることしかできなかった。
"彼女"はだらりと下げていた両腕をもちあげて前方に伸ばした。割れたり剥がれたりした爪をもつ細く長い指たちが組み合わさって、両手で何かを持つようなしぐさをする。私は"彼女"が何をしているのか最初はわからなかったが、自分の呼吸が苦しくなってきたのに気がついて、理解した。
(首を締められているーー!!?)
しかし気づいたところで私の体はぴくりとも動かない。まるで首から下が自分のものではなくなってしまったかのようだ。私は窓に写る"彼女"と見つめ合ったまま、自分の首すじにかかる圧迫感が徐々につよくなっていくのを感じていた。
なぜ私がこんな目に遭わなくてはならないのだろう。
なぜ"彼女"はこんなことをするのだろう。
"彼女"は何を訴えたいのだろう。
わからない。
わからないまま私は殺される。
彼女と同じに首を締められて、真っ赤に顔と目が充血した首の長い死体になるに違いない。
いやだ。
死にたくない。
殺されないためにはなんだってする。
"彼女"のためになることならなんだってするーーーーそのとき、ひらめいた。
これしかない。
"彼女"が何を怒っているのかわからないけどこれしかない。
そしてきっとこれが"彼女"の望みに違いない。
"彼女"に伝えなければーーーー!!
私は大きく口をあけ、もうほとんど空気の通らない喉から、ありったけの声を出して叫んだ。
「ちゃんと弔うからッ!」ーーほんの少し、喉が楽になった気がした。
「ちゃんと弔う! この部屋に社を作るから! 飾るから! だから成仏してよーーーー!!」直後、一気に喉に空気が流れこみ、私は激しくむせながら床に崩れた。
呼吸が少し落ち着いて、両目の涙を拭ってからようやく周囲を見渡すことができた。しかし美術室にはやはり他に誰もいない。"彼女"の影もかたちもない。
どきどきする胸を片手でおさえながらもう片方の手をシンクのふちにかけ、私はおそるおそる立ち上がろうとする。恐怖をこらえて窓ガラスを見ても、そこに"彼女"の姿はどこにもなかった。
ふらふらと立ち上がった。
まだ体は震えているが、もう安全だという感覚がうれしかった。
私はシンクの中身をほったらかして、カンバス脇に置いていた自分の鞄を掴んだ。
こんな部屋にはもう1秒だって居たくなかった。
私は震える足を引きずるように美術室のドアに向かい、手をかけるーーーー「約束だよ」ーーーー"彼女"が、耳に囁いたのがわかった。
私はドアを開け、全速力で廊下を走って逃げ出した。
数日後、私は小さな社を両手に抱えて学校の廊下を歩いていた。
あれから仮病を使って学校を休み、そのあいだ"彼女"との約束を果たすために弔いに必要な仏具や神具を調べたが、とてもじゃないが自分の小遣いでは手が届かなかったので、ホームセンターで材料を買ってきて見様見真似で作ってみたのがこの社だった。正直、見た目は簡素な家の模型ていどの出来だが、これが精いっぱいだった。
(きっと気持ちのほうが大事だよね……)そう自分に言い聞かせつつ、とうとう美術室の前までやってきた。
時刻は遅く、ほかの部員たちはもう帰ってしまっているだろう時間だった。数日前に絵を描く道具やカンバスを放置して逃げ出したことが後ろめたくて、ほかの部員や顧問と顔をあわせないようにこの時間にしたのだった。
私は美術室に入った。案の定、誰もいない。
足早に教室の後ろの大きな棚に近寄った。いったん床に社を置き、それから適当な椅子を引っ張ってくる。また社を持ち上げて、椅子を踏み台にして社を棚の上に置いた。ここならば目立たないから、事情を知らない教師とかに片付けられる可能性も低いだろう。
私は椅子を下りると、社に向かって手を合わせた。
(……名前もわからないけど、きっととても苦しんだんだと思う……どうか安らかに、成仏してください…………)真剣に、心から真剣にそう願った。
ガラリッ!!
いきなり教室のドアが開いて、私は驚いてとび上がった。見ると、美術部顧問の年配の男性教師がびっくりした顔をして立っている。
「……何してるんだ?」彼は私を見て言った。
「あ、いえ、なんでもありません……」私はつとめてなんでもないふうをよそおう。
「そうか? しばらく休んでたみたいだけど、大丈夫なのか? コンクールには間に合いそうか?」彼は心配そうに言った。
「あ、はい……えと、がんばります……」
「ならいいが……絵の方は美術準備室のほうに片付けてあるからな。でも今日はもう遅いから帰れよ」言いながら彼は教室内に入って教壇のほうに向かい、なにやらノートに書きつけはじめた。
「はい……」そのとき、ふと思った。この先生なら"彼女"のことを知っているかもしれない。
「あの、先生……先生って、この学校長いんですか?」
「ん? ああ、もう20年になるかなあ……」
「じゃあご存知ですか? この美術室で自殺した女子生徒のこと……」
すると彼は手をとめ、訝しげにこちらを見た。
「自殺した女子生徒?」
「はい、この美術室でいじめを苦に首を吊った女子生徒が昔居たって……」
「なんだそりゃ」彼は笑った。
「……え?」
「なにかの怪談か? 残念なことに、この学校では創立以来、そんな物騒な事件は起こったことないよ。がっかりだよな」彼は肩をすくめる。
私は困惑した。
「え? え? でもだって、そんな……?」
「だいたいどこの学校にもその手の怪談はあるけどな、そもそも自殺するなら学校でやるわけないだろって感じだよな。登校して授業うける元気はあるのに、自殺するほどうつ状態なんて、冷静に考えりゃ矛盾してるだろ」彼はそうしてノートをしまい、私にむけて手をひらひらとさせる。
「ほら、出てった出てった。カギかけなきゃいけないんだから」
私は廊下に出て、カギをかけて立ち去る顧問の背中を眺めながら、彼の言葉を何度も頭のなかで反芻していた。
(この学校で自殺した生徒はひとりもいない…………?)
「じゃあ……"彼女"はいったいなに…………?」廊下の真ん中でそうつぶやいたら、急に美術室に残してきてしまった社が恐ろしく感じてきた。何かとんでもないことをしてしまったという直観が全身にはしっていた。
こみ上げてきた吐き気に片手で口を塞ぎながら、ふらふらと隣の美術準備室のドアに近づく。ドアの小窓から中に視線をやると、廊下の光が部屋に射し込んでいて、薄闇のなかに、立てかけられて置いてある一枚のカンバスが見えた。
ああ、あれは私の絵だ。コンクールに向けて描いてる途中の絵…………。
絵の題材は、近所の神社だった。
神社の、祭りの絵……ご神体に感謝し、これからもずっとその加護をいただくための儀式の絵……大きな社と、それに向けて手を合わせる人びと……。
「ありがとう」
どこからか、そんな囁きが聞こえた気がした。
おわり