久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った
「明日、婚約破棄するから」
突然、目の前でお茶を飲みながらなんて事ない様にマリス王子様は私に告げた。
「それは……」
言葉に詰まる私を、チラリと見ると彼は静かにカップをソーサーに戻す。
「わかりました、今まで……ありがとうございました」
そう言うと、席を立ち彼にお辞儀をした。
今までの八年もの思い出が、一気に私の中を駆け巡り、寒気にも似た感覚が襲ってくる
まだだ……。
まだ、泣いてはいけない……。
ぐっと奥歯を噛み締めて泣きそうになるのを堪える。
「明日だ、今じゃない」
何故か焦る様にマリス王子様が私に言った。
明日だろうと同じことだ。
婚約破棄は成されるのだろう……。
私は彼の顔を見ることなく、その場を後にした。
◇◇◇
マリス王子様はこの国の第二王子、彼が十歳になる祝いの席で私達は出会った。
たくさんの令息、令嬢が集まる中、人見知りの性格だった私は会場の隅に両親と立っていた。
マリス王子様は王妃様と共に一人一人に挨拶をされる。
ちょうど私の所に来られた時だ、王子様方の背後から何やら様子のおかしな男が手に黒い塊を持って近づいてくるのが見えた。
王妃様と両親は話をしていて気付いていない、マリス王子様は私の方を向いていた。
その男が黒い塊をマリス王子様へと投げつけようとするのを見た私は、咄嗟に彼を庇ってそれを受けた。
「きゃあっ!」
ドンッと左肩にいままで知らなかった痛みが走る。
「あーあ、ひとつしか無かったのに……それは呪いだ」
黒い塊を投げた男が言ったその言葉に、周りはざわめき立った。
私が知るのはそこまでだ。
痛みに気を失った私の目が覚めたのは次の日だった。
「大丈夫かい?……リゾレット……痛みはないかい?」
お父様が痛々しい顔をして私の右手を握る。
その横でお母様が顔を覆って泣いていた。
私はどうかしたのかな?
あれれ? 左肩がすごく熱い。
ズキン、ズキンとそこに心臓があるみたい。
「痛いよ、肩が痛いの、お父様」
お父様は私の手を強く握り目を伏せた。
「リゾレット……お前は呪われてしまった。けれど立派だったよ、マリス王子様を守ったのだから」
ああ……そうだった……。
よかった、マリス王子様は無事だったんだ……。
そう思うと痛みを忘れて自然と笑みがこぼれた。
「どうして笑えるんだ……君は……女の子なのにっ」
そこには私を見ながら涙をこぼす、マリス王子が立っていた。
「責任を取らせて欲しい」
その言葉をもって、マリス王子様と私、リゾレット・ダラス伯爵令嬢との婚約となった。
マリス様は毎日見舞いに来てくれた。
肩の痛みは一週間ほど続いた。痛みが無くなるとそこの皮膚は黒く変色してしまった。
私は肌の色が白い方で余計に呪いのシミが目立ってしまっていた。私と両親は、この体では王子には相応しくない、やはり婚約は無かったことにしましょう、とマリス様に伝えたが彼は首を縦には振らなかった。
「僕はリゾレットを好きになってしまったんだ、それに呪いは必ず解くから信じて待っていて」
マリス様は私に優しい笑顔を見せた。
マリス様は婚約が決まってから、よく我が家へも来てくださった。
あまりお喋りではない私に、たくさん話しかけてくれる、優しい方だ。
「リゾレットの好きな色は?」
「私は緑色が好きです」
「えっ、女の子は赤とかピンクが好きなんじゃないの?」
「赤やピンクも好きですが、やっぱり一番は緑色です」
そう答えるとマリス様はニッコリと微笑んだ。
「へぇ、僕は紫かな」
「紫……ですか?」……男の子が紫って珍しい……。
「うん、リズの瞳の色だから」
私のことを愛称で呼び、私の瞳の色を好きだと言ってくれるマリス様。
私も、マリス様の瞳の色と同じだから緑色が好きだと言えばよかった……。
私は会えば会うほどマリス様を好きになっていった。
二人で庭を歩いたり、お互いの好きな本の話をしたり、お茶を飲んだり、互いに贈り物をしたり……。
私が十歳の頃、マリス様から美しい髪飾りを贈って貰った。
さっそく彼に会う時に着けていった。
「着けてくれたんだね、嬉しいよ」
彼は私の髪飾りの揺れる細工がしてあるそれを、チョンと触りふふっと笑った。
「この蝶が揺れるところが気に入ったんだ」
「マリス様が選んでくださったのですか?」
「もちろんだよ、リズに似合うと思ってね、今度ドレスを贈りたいと思っているけど……どうかな?」
「……ドレス……ですか」
呪いを受けてから二年が経っていた。
あのシミは少しずつ広がっていて、いま私の腕の半分までが黒くなっている。
半袖のドレスでは見えてしまうから、最近はいつも長袖の物を着ていた。
「わ、私は寒がりなので、出来たら袖の長い物だとうれしいのですが……」
私がそう答えると、マリス様は少し驚いたような顔をした。
「あ、ああ、そうだったんだね。この頃ずっと長袖の服を着ていたから……うん、ぜひ君の好みのドレスを贈らせて欲しい」
「うれしい、ありがとうございます」
私が着ているものは、十歳の少女が着るには地味な色味のシンプルなドレスばかりだった。
マリス様はそれも気になっていたのだろう……。
彼から贈られてきたものは明るい色の長袖の可愛らしいドレスだった。
「……どうしても透けてしまいますね」
侍女が悲しそうな顔で言う。
明るい紫色の上質なドレスの袖は、生地が薄く柔らかで私の黒い肌が透けて見えてしまった。
「腕に布を巻いて着たらどうかしら」
「そうですね、そういたしましょう」
マリス様が来られた時にそのドレスを着ると、彼はすごく喜んでくれた。
「似合うよ」と言って貰えたことが嬉しくて、マリス様が時折、左腕を見て目を伏せていた事に私は気が付きもしなかった。
呪いのシミは痛みこそ無かったが、日に日に皮膚を黒く変えていった。
広がっていくそれを見るたびに、私の心は塞いでいく。私はまだ十代の女の子だ、おしゃれにも興味があった。本当はもっと明るい色のドレスを着て外にも出て行きたい。
けれど、呪いを受けてからは我が家の使用人ですら私に近づく事を恐れるようになっていてとても外出など出来そうもなかった。
それでもマリス様とお会いする際は、今までと変わらず呪いの事など気にしてないというように振る舞っていた。
「今日は……手袋をしているんだね」
年を追うごとにマリス様は公務が増え、私達が会う機会もだんだんと間隔が開くようになっていた。私が王宮に呼ばれることも随分と少なくなった。
久しぶりに我が家を訪ねたマリス様は、私の手袋が気になったのだろう。
それも白い手袋ではない、濃い青の手袋をしていたから。
「……少し、手が荒れてしまって、お見せするのが恥ずかしかったのです」
ぎこちない笑顔を見せてしまったが彼は「そう……」とあまり気にしてはいないように見えた。
呪いが指先にまで届いて、もう人前に出せるようなものでは無くなった。私は常に手袋を着けていた。
それに、十五歳になった私には、呪いを盾にマリス王子様の婚約者の座に就いた、婚約しなければ呪うと脅したなどというウワサが立つようになった。
七年も経つと彼を庇い呪いを受けた事など皆忘れてしまったのだ。
「気にする事は無い、リゾレットはマリス王子様を守ったのだから」
そう両親は言ってくれるが、きっと二人も呪われた私のせいで外では辛い思いをしているに違いなかった。
その頃からマリス様とお会いする事も、ほとんどなくなっていた。
そして久々にお会いした今日、彼は私に告げたのだ。
お茶を飲みながら、それは当たり前のことの様に。
「明日、婚約破棄するから」
「それは……」
やはり……と思った。
侍女から聞いた噂では、マリス様は近頃ある御令嬢と常に一緒にいらっしゃると。
レブラント伯爵家の御令嬢、クレア様。
白金の髪に青い瞳の麗しいお方だと聞いている。
美しい二人が並んで歩く姿はとても絵になるのだと……。
マリス様がクレア様の元へと足繁く通われている、私がいなければ直ぐにも婚姻を結ばれるだろう……そんな話が流れていると聞いていた。
彼はチラリと私を見るとカップをソーサーに戻した。
もう、話すことは無いのだ、と言われているようだ。
「わかりました、今まで……ありがとうございました」
これだけ言うのが私の精一杯だった。
泣きそうになるのを堪えてお辞儀をする。
「明日だ、今じゃない」
マリス様の何故か焦るような声が聞こえた。
◇◇◇
私は一人、帰りの馬車に乗る。
堪えていた涙が溢れ出て手袋を濡らしていく。
「……マリス様」
王宮からの帰り道……八年間、何度も通った道。
カタカタと揺れる馬車の中から流れていく景色を見ながら、もうこの道を来ることは無いのだと思うと切なくなった。
明日はマリス王子の兄である、アーサー王太子様の二十歳を祝うパーティーに呼ばれている。
その場で婚約破棄をするというのだろうか。
何も大勢の前でしなくても……そんなに私を嫌いだったの?
……違う、嫌われてしまったのよ……。
今や私の左腕はすべて真っ黒になっていて、今度は肩から首の方へとひろがりはじめていた。
首元まで隠れるドレスを着るしか無い、この姿では社交界などはとても出ることが出来ない、と今まですべて断っていた。
……呪いのシミのことは言わずに……。
私はマリス様に知られたく無かった。
こんなになってしまった腕を見られてしまったら、きっと彼に拒絶される……そう思うと怖くてずっと隠していた。
体調を理由にして断りを入れるその度に、マリス様は悲しそうな顔をされていた。婚約者がいるのに一人で出なければならなかったのだ。
…… 申し訳ない事をしてしまった。
しかし、アーサー王太子様の祝いの席だけは断る訳にはいかないと強く言われた。
急ぎ用意したドレスは、少しでもシミが見えないように濃紺地に金の装飾というかなり大人びた色合いのものになった。
「婚約破棄の場にはきっと相応しいわね」
私の呟きに、侍女は涙を流した。
「お嬢様は何も悪くありません、なのに……」
子供の頃から仕えてくれている侍女のナタリーは、私の着替えを手伝ってくれる。使用人の中で、彼女だけは私に触れる事を恐れなかった。
そういえばマリス様も、もう何年も私に触れる事はなくなっていた。
……昔は会うと手をとり、指先に口付けてくれたけれど……。
「こんな私ではね……誰だって嫌いになるわ」
外にもほとんど出ることはなく、いつも暗い服を着ている私では、マリス様に相応しくないのは分かっている。
きっと、呪いのせいだけではないだろう。
最初の頃こそ王家は躍起になって呪いを解く方法を探してくれていた。私に呪いをぶつけた者は自害してしまい、呪いの種類も入手方法もわからない、その上どんな解除方法も効果が出ず、だんだんと諦めてしまわれたようだった。
このまま、時が過ぎていけば私の体は全身が黒くなってしまうのだろうか……。
そうなればいつまでもここに住む訳にはいかない。両親にこれ以上迷惑をかけたくない。
今でさえ迷惑になっているのに、婚約破棄までされてしまえば……。
「お父様、お母様、私の願いを聞いて頂けますか?」
明日、婚約破棄が成されたらその足で王都を離れ郊外にある祖父が残した別荘に住まわせてもらおうと思い、そう話すと二人は涙ながらに了承してくれた。
◇◇◇
まるで夜の女王の様なドレスを身にまとい、鏡を見てため息をつく。
まったく私に似合っていない……。
せめて最後に会う時くらいキレイな私になりたかった。
茶色の髪に紫の瞳の幼い顔立ちの私には、ドレスだけが大人びて浮いて見えた。
けれど、黒いシミはきれいに隠すことが出来ている。
首元をきっちりと覆い、手にはドレスと同じ紺の手袋を着ける。
マリス様に子供の頃に貰った髪飾りを、ナタリーに着けてもらった。
白銀の花の細工に金色の蝶が揺れている、彼が私の為に選んで贈ってくれた物。
「お嬢様、お綺麗ですよ」
鏡を見て表情を無くしていた私に侍女はそう言ってくれた。
「ありがとう、ナタリーに綺麗と言って貰えただけで充分よ」
「では、行って参ります」
「やはり、私たちも一緒に…」
「いえ、見苦しい所をお見せしたくないのです」
一緒に行くという両親に、一人で行かせて欲しいと頼んで私は馬車へ乗る。婚約破棄されるところなど見せたくないし、見られたくなかった。
◇◇◇
パーティー会場に着き、馬車の扉が開くと騒ついていた会場が一瞬静まり返った。
「珍しい、呪われたあの方がいらっしゃったわ」
「触ると感染るそうよ」
「近づくだけでも感染るのではなかった?」
「ほら、誰も手を差し伸べてあげないから降りて来られないのではなくて?」
「マリス王子様はどうなさったの?」
「それが先程クレア令嬢と……」
ヒソヒソと囁かれる私への誹謗中傷の声。
……降りたくない。
……このまま此処から帰ってしまいたい。
……けれど、行かなければ。
……マリス様との最後の約束を果たさなければ。
意を決して一人で降りようとしたその時、目の前にスッと手が差し伸べられた。
「待っていたよ、リゾレット」
マリス様が優しく微笑み、私に手を差し伸べている。
私は右手を出そうとしたが躊躇ってしまった。するとその手を彼は取って私を馬車から降ろすと腕に乗せた。
「あの……マリス様……これは」
「リゾレットはまだ私の婚約者だからね」
「まだ」そうだ、一瞬その事を忘れてしまっていた。
……バカな私。
婚約破棄をする為に私は必要だから、こうして迎えに来てくれたのだ。
マリス様と共に会場に入った。
皆が私達を見ていた。マリス王子様に会釈をし、私からは距離を取るように離れていく。
会場に集まる令嬢方は、今流行りの肩を出した明るい色のドレスを着ていた。
祝いの席を彩る華やかな令嬢達。
暗く首まで詰まったドレスなど、着ているのは私一人だ。
横に立つマリス様は青に金の装飾が付いた正装姿だった。
彼の金の髪と端正な顔立ちによく似合っている。
……素敵になられた……私にはもったいない。
アーサー王太子様が来場されると祝辞があり、音楽が流れた。ダンスが始まるとマリス様は「少し待っていて」と言い、何処かへ行ってしまった。
いつ、私は婚約破棄を告げられるのだろう……。
一人残された私の周りは誰も寄り付かない。
呪いが感染ると思われているのだ、当然だろう……。
少しの間、その場で待っていたがマリス様は戻る事がなかった。
私は誰にも気づかれぬ様にこの場を離れ、テラスへと向うことにした。ただそこに私がいるだけで、皆が恐れるような顔をしていたからだ。
テラスには誰も居なかった、此処なら迷惑にはならないだろうと思いながら、そこから見える庭を眺めた。
美しく手入れをされた庭の花々が、ランプの揺れる灯に照らされている。
「きれい……」
黒いシミなどない花々が羨ましく思えた。
私も明るい色のドレスを、今流行りの肩を出すドレスを着ることができたなら、一度くらいはキレイだと言って貰えただろうか……。
いや、それは贅沢だわ……。
今日、嫌な顔をせず手を差し伸べて貰えただけでも、私には充分よ……。
ふと、会場内が騒がしくなった。
振り返り見てみると、アーサー王太子様と婚約者のカミラ公爵令嬢が踊っているのが見えた。美しい二人が踊る姿を皆見ていたのだ。
そして、マリス様とクレア令嬢も見つめ合い楽しそうに踊っている姿もそこにあった。
彼女が着ていたドレスはマリス様と対なす様な美しい青色だった。
私を置いて彼女の元へ行かれていたのね……。
ダンスを踊る二人は誰が見てもお似合いだと思う。
回るたびにフワリと揺れるドレスもキレイだ
私は婚約者でありながら、彼とまだ一度も踊った事がなかった。
社交界を避けて出ていないのだから当たり前だ……。
それに私は、あんなに上手く踊れない……。
ダンスの練習も父親としかした事がない……。
ああ、私は彼女を羨ましく思っているのね。
呪いは体だけでなく心も黒くしてしまったようだ。
自分の醜い気持ちに気が付き、二人を見ているとクレア令嬢が私を見て口角を上げた。
美しく勝ち誇った笑みが、私の心に突き刺さるようだった。
……婚約破棄をするのなら早くして欲しい……。
そうしたら此処から帰れるのに……。
「あら、こんな所に呪われた方がいらっしゃるわ」
二人が踊る姿を見ていると、アイリス侯爵令嬢とその取巻きの方々が、少し離れた場所から声を掛けてきた。
「ふん、呪われている方は挨拶も出来ないのねぇ、声が出ないのかしら?」
クスクスと笑いながら、その目は鋭く私を見ている。
私はその場で頭を下げた。
「申し訳ございません、私は…」
そこまで言うと、パシャッと赤い飲み物をかけられた。お酒のようだ、アルコールの匂いがする。
……どうしよう……。
私が顔を上げると、飲み物をかける為側に寄っていた令嬢が「きゃあ、感染ってしまうわ」と言って慌ててアイリス令嬢の後ろに隠れた。
「あの、私の呪いは感染ることはありません……」
そう伝えても聞いてもらえず、きゃあきゃあと騒いでいる。
……困ったわ……まだ婚約破棄を告げられていないのに……。
紺色のドレスのお陰で飲み物の染みはそう目立つものではない様だが、やはり濡れたドレスは冷たかった。
「あなたの様な方はマリス王子様に相応しくないわ!」
「さっさと帰っておしまいなさい!」
「いっそ、呪いで死んでしまえば良いのにねぇ」
「そうよ、そうしたらクレア様とマリス様はやっと思いを遂げられるわ」
「お二人の方がお似合いですものねぇ」
少し離れた場所から、私を罵り楽しそうに笑う令嬢達。周りの者達も誰一人止めることはしない。
騒ぎに気づいたアーサー王太子様とカミラ令嬢が私達の元へ来られた。
「何を騒いでいる」
王太子様は騒ぎの中で立ちすくむ私を見て、ハッと驚いた顔をした。
「君は……リゾレット嬢か……マリスは、ああ」
何やら申し訳なさそうな顔で私を見ている。
今日、婚約破棄が行われる事を知っているようだ。
「このままでは体が冷えてしまうわ、早くしないと……」
カミラ令嬢が濡れたドレスを着ている私を見て、心配そうに言ってくれた。
それでも、誰一人私に近づく者はいない。拭くものも、羽織る物もない。時間が過ぎると、どんどんドレスの染みも広がっていく。
……染みだらけだわ……私……。
ここまで来るともう、泣くことを通り越してしまった。
早く婚約破棄してもらって帰ろう。
そう思った時、ようやくマリス様がクレア令嬢と共に現れた。クレア嬢は私の姿を見てなぜか満足そうに微笑んでいた。
「リゾレット……その格好は……」
マリス様は私に手を差し出そうとしたようだったが、アーサー王太子様がそれを制止した。
「ちゃんとしないと」
ボソリとマリスに告げる。
「ああ……そうだった」
マリス様はなぜだか悔しそうな顔をしていたが一度グッと目を閉じ、開くと鋭い眼差しで私を見つめた。
「リゾレット・ダラス伯爵令嬢、私は君との婚約破棄を望む」
「……はい、お受けいたします」
私に婚約破棄を告げた彼の緑色の目は、なんだか悲しそうに見えた。
優しい方だ、きっと今まで仕方なく婚約を継続されていたのだろう……。
私は深くお辞儀をすると、その場から立ち去った。
昨日もあんなに泣いたのに、目には涙が浮かび、溢れそうになる。ここでは泣いてはいけないと足早に会場を出た。
「リズ」
後方から、私を呼ぶマリス様の声がしたような気がしたが、聞こえてきたのはアーサー王太子様の
「ここに、マリス王子とクレア令嬢の婚約を認める」と言う声だった。
馬車に乗った私はそのまま王都を後にした。
流れる涙と共にマリス様を想う気持ちもなくなればいいのに、と思いながら……。
◇◇◇
郊外にある祖父が残した別荘は、近くに湖もある自然が豊かな静かな場所だった。
婚約する前に二度程来たことがあったらしいが私は余り覚えていなかった。
周りには小鳥や小動物もいて、屋敷では犬も飼われていた。
「うふふ、くすぐったいわ」
動物は私を怖がることなく近寄ってくれる。ここでは外に出る時も手袋はいらない。
一緒に住んでいるのは、私について来てくれた侍女のナタリーとこの屋敷の管理を任されている老夫婦、コックが一人だけだった。彼等は私の呪いを怖がらず接してくれた。
此処に来て三ヶ月が過ぎた。
パーティー会場からそのまま此処へ来た私は、当初塞ぎ込んでいたものの、周りが優しく接してくれたおかげで随分と明るくなった。
この頃はずいぶんと日差しが暖かくなってきた、広い庭に小さな白い花が絨毯の様に咲いていて、とってもキレイだ。
その花の周りを黄色や白の蝶々が飛んでいて、それを老夫婦の飼い犬のジョアンが追いかけて遊んでいた。
「ジョアン、おいでーっ」
私が呼ぶと尻尾をパタパタと振って走ってくる。
呪いの事を気にせずに暮らし、こうしてジョアンと外に出て過ごすことも増えていた。
ジョアンは私に駆け寄ると、頭をスリスリと手に寄せてくる。
かわいい……少し硬めの毛を撫でているとジョアンがピクンと耳を動かし、私の右の方に鼻を向けた。
「ん? どうしたの?」
ジョアンの見ている方を向くと、少し先の方から誰かが此方に来ているのが見える。
近づいて来たその人は、マリス様だった。
マリス様⁈ なぜ? どうして此処に?
……はっ、手袋! どうしよう……。
私は半袖の服を着ていて、今は手袋も持っていない。
黒い腕を隠す物は何も無かった。
こんな手を見せられない、見せたくない
私は、マリス様から遠ざかる様に後ずさった。
「リゾレット! 待って!」
マリス様の声がしたが、私は腕を見られたくなくて逃げるようにその場を離れた。
どうして来たの? なぜ?
もう、婚約者でもないのに……。
小さな花を踏み散らしてマリス様から遠ざかる私に、ジョアンは楽しそうについて来る。
「待って、リゾレット」
私が急いだ所でなんて事はなくマリス様に追いつかれてしまった。右腕を掴まれて思わず振り向いた。
マリス様は私の左腕を見て目を見開いている。
見られたく無かった……こんな私を……。
「はなして! いや、見ないで!」
「いやだ!」
どうして……と、彼を見るとマリスの目には涙が浮かんでいた。
「やっと終わったんだ……待たせて済まなかった」
「何をおっしゃっているのか……」
「必ず呪いを解くと約束しただろう?」
「呪いを……?」
マリスが大きく頷くと彼の頬に涙がこぼれた。
「まず、コレを飲んで、呪いを解く薬だよ」
彼は掴んでいた腕を離し、胸ポケットから小さな瓶を取り出すと私に渡した。
「さあ、飲んで!」
見るからにおかしな色のトロリとした液体を彼は飲めという……。
「大丈夫、信じて」
その真剣な目を見て、私はもうどうなってもいい、そう思いクィッと飲んだ。
「うっ……」
苦味の強いトロリとした液体がゆっくりと喉を通っていく。
すぐに左腕が熱をもった様に熱くなった。
「はぁっ……あつ……」
腕の熱と共に、頭もクラクラしてくる。
立っていられないほどに視界が回る……。
「えっ、リズ、リズ!」
慌てた様にマリス様が私の名前を呼んでいる。
……夢かな……マリス様が私を抱き抱えてくれている……。
目の前が真っ暗になり私は気を失った。
◇◇◇
優しい手に頬を撫でられている。
こんな風に誰かに触って貰えるのはいつぶりだろう……。
「……リズ」
マリス様の声がする……私の好きな人の声。
「……リズ」
……大好きなマリス様の声……。
「……マリス……ま」
目を開けた其処にきれいな緑色の瞳が見えた。
「ああ! リズ、良かった!」
彼は両手で私の左手を握っている。
「私の……手?」
あの呪いで黒くなっていた左腕は右腕と同じように元の白い肌になっている。
マリス様は私に優しく微笑んだ。
「呪いは解けたんだ」
「……本当に?」
信じられず尋ねる私に、彼は頷くと左手の指先にキスをした。
あの液体を飲んで気を失った私をマリス様は屋敷まで運んでくれた。
半日程気を失っていたらしく、周りには心配そうに見つめるナタリーと老夫婦の姿もあった。
「よかった、お嬢様……本当に……」
ナタリーはそう言って私の無事を確認すると、老夫婦と共に部屋を出た。
マリス様が、私に話すことがあるから二人にして欲しいと頼まれたのだ。
私が上半身を起こそうと体を動かすと、マリス様が支えてくれた。
「辛くない?」
「はい」
マリス様は顔にかかった私の髪を梳くように撫でる。
こんな風にしてもらうのは初めてだわ……。
彼は私を愛おしそうに見ていた。こんな顔も初めて見る……。
「八年前、呪いをかけたのはレブラント伯爵家の者だった。私に呪いをかけ、それを解くことで娘であるクレア嬢との婚約に持っていこうとしたが失敗した」
「私が……受けてしまったから……」
「そう、そこまでのことを、やっと一年前に突き止める事が出来た。アレはレブラント家に代々伝えられていた呪いでね、解くにはあの家にしかない薬が必要だった。それを渡して欲しければ君との婚約を破棄して、クレア嬢と婚約しろと言ってきた……だから婚約破棄などと……」
ごめん、とマリスは頭を下げた。
「いいのです……すべては私の為だったのですね」
嫌われていた訳では無かったのだと私は嬉しくて、自然と笑みが溢れた。
「また君はそうやって笑う……」
マリス様は私の頬をそっと撫でた。
「リズは今でも僕の婚約者なんだよ」
彼の言葉に驚いて目を見開いてしまった。
「……でも、婚約破棄を私は受けて……マリス様はクレア様と婚約を成さったでしょう?」
私の言葉にマリス様は首を横に振る。
「あれは正式ではないから、それに婚約だって兄上にそんな決定権はないんだ。それを知らない奴らを騙す為、あの日に行うことにした。レブラント伯爵に呪いを解く薬を貰うためにね。君にまで秘密にしていたのは、レブラントを完全に騙す為だった」
マリス様は私の手を握って話を続けた。
「私に、王家に呪いを掛けようとしたレブラント伯爵家は取り潰したよ。父親は処刑して、クレア嬢と母親は国外に追放した」
彼はそう言ってまた私の左手にキスをした。
「僕は、呪いを解くまで君に必要以上は触れないと誓いを立てていた、でもその事で君を傷つけていたと知って……本当にごめん」
「……マリス様」
「あの日、兄の祝いのパーティーの夜、君を貶める様な事を言った者達も全て罰を与えた。ワインを掛けたあの女とアイリス嬢は修道院へ送って家は降格させた。それでも気が済まないけど」
「……えっ」
「それぐらい当然だ、僕の大切な人を傷つけたんだから」
マリス様は憂いを秘めた瞳で私を見つめる。
「僕もリズから罰を受けないといけない」
「罰……?」
「君の苦しみをもっと側で分かち合うべきだったのに、それをしなかった……八年も」
「そんな」
「お願いだ、そうしてくれないと僕は自分を許せない」
マリス様は真剣な目を向けている。罰なんて、彼が悪いわけじゃない。すべては呪いのせいなのに……。
「……では……私を抱きしめて貰えますか?」
「えっ……⁈ 」
「私、ずっと誰からも抱きしめて貰えなかったんです。だから……嫌でなければ」
呪われていた私は憧れていた、愛する人に抱きしめられたらどんなに幸せだろう
こんな私でもいつか……と思っていた。
「それは罰ではなく御褒美だよ……リズ」
そう言うと、マリスは大切なものに触れる様に優しくリゾレットを腕の中に包み込む。
「嬉しい……マリス様」
リゾレットが言うとマリスの抱きしめる腕に力が入った。
「リズ」
すぐ近くで彼が私の名を甘く囁く……。
リゾレットはマリスの背中に腕を回した。
初めて知った彼の背中は広くて逞しかった。
「僕と結婚してほしい」
呪いを解くまでは伝えてはならないと、胸に秘めていた言葉をマリスは告げる。
「私でいいのですか?」
「君がいいんだ、こんな僕でよければ、一緒になって欲しい」
「……はい」
「ありがとう」
必ず幸せにするから、とマリスはリゾレットに誓った。
◇◇◇
結婚式で、リゾレットは純白のドレスを身に纏った。それは彼女がずっと着てみたいと願っていた肩を出したデザインの物だった。
ドレスを着たリゾレットを見て、マリスは少し困った顔をしていた。
「……似合いませんか?」
不安になったリゾレットが聞く。
「違うよ、君を誰にも見せたくないと思っただけだ……とても綺麗だよ、僕のリズ」
マリスは甘く優しい声でそう言うと、愛するリゾレットを抱きしめた。