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イブ・サンローランの19番

作者: まちか

ざくざくとアコースティックギターをかき鳴らす音。

ハスキーな声のシンガー・ソングライターが語る別れの歌。

ゆるい潮風が首元を撫でる。


夜明け前の波打ち際で、私は一人水平線を見ていた。


「駄目だよ、こんな所で」


世紀の大失恋を捨てにやってきた私の手を、誰かが引いた。

振り向くと、小柄で華奢な体躯の人が立っていた。

不思議な雰囲気の人だ。

長いまつ毛とゆるく巻いた髪、あるかないかの微笑。

薄暗い闇のなか、それは魔性のようだと思った。


「誰?」

「そこのカフェで店員してるんだ。よかったら話を聞くよ」

「ああ、それで」


先程から流れる音楽は、浜辺にぽつんと佇む小さなカフェから流れてきていた。



カロン、とドアベルの音が鳴り響く。

店員さんに促されて入ったのは、どこか懐かしい造りの店だ。

私はカウンター席を陣取ることに決めた。


「レモンスカッシュあるけど、飲む?」

「ええ、大好き────不思議、以前来た喫茶店に雰囲気が似てる。レモンスカッシュを出してくれるところも」

「そんな喫茶店は山ほどあるよ、さぁどうぞ」

「⋯⋯美味しい。ハチミツ入れてるのね」

「ばれた?まあそんなに隠すほどの隠し味じゃないしね。でもびっくりした。身投げするのかと思ったよ」

「そんな馬鹿なこと。失恋の思い出を捨てに来たの」


私は気安く話しかけてくる店員に、私の生涯一の恋の話をしようと思った。



彼と私は幼馴染だった。

一つ下の彼は内気だけれど優しく、心の綺麗な人だった。

一方の私は勝ち気で男勝り。同級生にからかわれたりいじめられていた彼を幾度となく守り、戦った。


「ねえ、私の髪の毛短いでしょ」

「⋯⋯うん」

「でも、彼とお付き合いしてた頃は長く伸ばして巻いてたのよ。彼、小柄で可愛い子がタイプだったから。────あ、そうね。あなたみたいな子がドンピシャ」


店員さんは照れたような困ったような顔をした。


「彼のタイプになろうって、髪の巻き方も化粧の仕方も、洋服の着こなしだって勉強したわ。あの人とはいい関係だったと思うの。自惚れじゃなくね。友達にも親にもお似合いだって言われてたから」


でも、ふとした拍子から私の恋は崩れた。

きっかけは、彼の背広から出てきたイブ・サンローランの19番だった。


「青みがかったピンクの可愛い口紅よ。私も試してみたんだけど、どうしても似合わなくって。あの人の背広から出てきて問い詰めたら、「君にあげようと思った」だって。苦しい言い訳。その後すぐに彼の浮気に気付いたわ」


私はため息をついてレモンスカッシュを口に含んだ。

いくらかの逡巡のあと、私は口を開いた。


「────彼、男とキスしてた」


店員さんは眉を上げ、自分のグラスに注いだ炭酸水をあおる。

口の端から溢れた水滴が、喉の突起の部分に止まった。



青みがかったピンクの口で、男の口に唇を押し付けて。

茶色い巻き髪のウイッグに、流行りの白いワンピースをまとった彼。

私が恋したあの人は、心が女性だった。


小柄で可愛い子というのは、あの人がそうなりたいという願望が込められた女性像だ。


「彼がそうだと私が気付いたことに、彼は気付いていなかったわ。そして私も幼稚だったから、このまま黙っていれば付き合いを続けられるんじゃって思ったの」

「⋯⋯でも、そうはいかなかった?」


私は首を横に振った。


「ぎくしゃくしたまま、だましだましやってきてたんだけど」


カフェには私の他、客はいない。

夜明け前の時間、波の音とアコースティックギターだけが店の中に響いている。


「そんな歪な関係、駄目だったわ。ついに彼、半年前に男と出ていった。────何もかも捨てて」


私は寂しく笑った。空虚な心に波の音がやけに染み入る。


「⋯⋯そう」


「うふふ、聞いてくれてありがとうね。退屈だったでしょう、こんなおばあちゃんの失恋話」





私は店員さんに微笑んだ。

店員さんは、静かに頭を振る。


「気にしないで。このカウンター席は、お客さんの話を聞くためにあるんだから」

「あら嬉しい。じゃあこの失恋話の先まで話しちゃっていいかしら」

「うん、聞かせて」


下の子が大学を卒業したタイミングで、あの人────夫は消えた。

身辺整理を整え、当面の生活費だけを口座から下ろして日曜の夜に家を出ていったのだ。


「ごめんね、って一言。書き置きがあったの」


それきり一切の連絡を取れず、どこぞの男と蓄電したものと思っていた矢先のこと。


「間男から連絡があったわ。⋯⋯いいえ、本命はきっとあっちだったわね」


夫と再開したのは総合病院だった。

蝋のような顔色で、沢山の管に繋がれていた。


「末期癌ですって。一年前から隠してた、って。笑っちゃうわ。気が付かないものなのね」


夫は意識を朦朧とさせ、私が訪ねたときには日に五分も目を開けない状態だったらしい。

それなのに、私が病室に入った途端に目を開けた。

驚いた顔をして、夫は私を凝視したのだ。


「彼のお相手、町村さんといったかしら。町村さんが独断で連絡したみたい」


掠れて痰がからんだ声で夫は何かを言おうとした。

私は、彼が置いていったイブ・サンローランの19番をポケットから取り出し、彼の前に持っていった。


「⋯⋯知ってたわ」


知っていたのだ。

彼の恋は、最初から私になどなかったのは。

私がつぶやくと、夫は全てを悟った顔をして目を閉じた。


「⋯⋯ごめん」


それきり、彼の目が開くことはなかった。




「ごめんって、謝られたのよ。私に対して申し訳なかった、ってあの人はいったの。それが最後の言葉よ。私の今まではなんだったのかしら。違うの、そんな言葉を聞きたくて彼と添い遂げたんじゃなかったのに。────上手く言えないけど、私、夫にずっと恋してた。一人でずっと恋をしてたのよ」

「⋯⋯それは、寂しかったね」

「ええ⋯⋯そうね。それに気付いた途端に寂しくなった。でもね、ごめんって言葉を聞いて、私、ようやく失恋したの」


私はグラスに口をつけてレモンスカッシュを一気に飲み干した。

グラスには口紅の跡がついた。


「あらやだ。若い頃ならよくやったけど、今だと少し恥ずかしいわね」


ハンカチでグラスのピンク色を拭うと、店員さんは私の手元をじっと見つめながらおどけたように言った。


「それ、イブ・サンローランの19番?」

「いいえ。私のは、ち・ふ・れ」

「じゃあ19番は」


私は笑いながら言った。


「夫の死に化粧に使っちゃったわ」




ドアベルを鳴らして私は店を出た。

店員さんは見送りに、入り口のデッキまで出てきてくれた。


「聞いてくれてありがとう、すっきりしたわ。レモンスカッシュも美味しかったし」

「僕も話を聞けてよかったよ。⋯⋯ねえ、あなたの夫はきっと、あなたを好きだったと思う」

「まさか」

「手をつないで散歩して、おしゃべりして、馬鹿みたいに笑って、子どもまで生んでくれて、悪戦苦闘しながら一緒に育児をして、時々旅行して、楽しいことを見つけて⋯⋯あなたに感謝していたし、あなたを大切に思っていた。確かにそこには、愛があったよ」


店員さんは私の右手を取った。


「ごめん、最後まで言えないままで。そして、君に恋をあげられなくて。恋以外の愛なら全部渡せたんだけど」

「⋯⋯店員さん?」

「ありがとう、今日は会えて嬉しかったよ。本当に君を愛していたんだ────律子」


店員さんは泣きそうな顔で笑い、私の手の甲に口をつけた。








次に目を開けた時、そこはまっさらな白い天井だった。

身体を起こそうとするも、何故だが動かない。

身じろぎしようとすると、横から娘の悲鳴が聞こえた。


「お母さん⁉ 起きたわ、看護師さん呼ばなきゃ‼」


娘は慌ただしく病室を出ていった。

ナースコールがあるのを忘れているのだろうか。

唯一動く右の手をゆっくり持ち上げ、手の甲を見る。

しわがれたそこには、青みがかったピンク色のキスマークがあった。

私は呆れて独りごちた。


「死んだ後ぐらい、きちんと女になりゃ良かったのに」










桜がほろほろと散る季節。

私は家の縁側で一人ぼうっとしていた。

肩に温かいものがかかったと思ったら、それは娘がかけてくれた肩掛けだった。


「全く、あのまま死んじゃうかと思ったよ」

「馬鹿言わないで、お父さんの後を追ったみたいでしゃくに触るわ」

「四十九日が終わってすぐ倒れたからねえ。でももうお医者さんも太鼓判押したし、しばらく健康でしょ」

「そうよ、私もっと元気になるわよ。お父さんの遺産も保険金も、たっぷり入ってきたんだからね」

「現金だこと。まあ好きに使うといいよ」

「新しく趣味でも始めようかねえ。良い人と出会いがあるといいんだけど」

「何言ってんのよ、還暦過ぎて」

「失恋にゃ新しい恋って、昔から相場が決まってるのよ」


私は笑いながら娘の肩を叩いた。


「恋以外にも、色々あるんじゃないの?」

「生憎、それ以外はみんな貰っちゃったからねえ」


私はお茶を一口啜った。

鼻の奥に、ツンと酸っぱいレモンの香りを思い出しながら。

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