24話 戦場の悪臭という事実
今日は基礎訓練のため、自警団の皆で黒須町の八斗浦地区に来ている。
除草剤が撒かれているため、広大な八斗浦地区は一面の荒野である。
悪質な業者による、ダイオキシンの不法投棄とも言う。
猛毒に汚染された死の荒野である。
ダイオキシン類は消化管、皮膚、肺より吸収されることが判明している。
ガスマスクや手袋など、暑苦しい対化学戦装備に身を包んでの訓練である。
訓練後は、汚染された泥土を入念に洗浄する必要がある。
近所の黒須教会から、暁美が見学に来ている。
物好きなことだ。
「く組の、みんなって戦士だとレベル15くらいかな!?」と暁美は言った。
夜刀浦自警団、通称『く組』である。
柄に、『く』の字が刻み込まれたシャベルを常備しているから、そう呼ばれる。
正確には、魔女サーシャの手で刻み込まれた kenazのルーン文字だ。
松明と頭を象徴し、行動・開始・意志・情熱を意味する希望のルーン。
黄色い顔料で象眼細工のように、なっている。
しかし、暁美は未だゲームと現実の区別が曖昧なようだが、教育が悪かった。
仕方が無いので、適当に決めるとしよう。
子供の身勝手を許すのも、大人の器量というものだろう。
用意していた車の荷物に握力計が在ったので、それを使うことにする。
測定範囲は100キロまで。
私が試したところ、測定限界の100キロに行った。
主観的に、私はゲームの戦士だとレベル10くらいだろうと思う。
握力10キロにつきレベル1である。
サーシャの指導により延々と Personal Trainingを繰り返す団員の何人かを呼ぶ。
他の人員はPT1セット35回として 腕立て伏せ 腹筋 スクワットを続行する。
握力70キロ程度が平均のようで、単純な筋力は意外と普通である。
ゲーム風に表現するなら戦士レベル7と言うところか。
魔術師としてのレベルを加算すると、計算が可笑しくなるので簡略化しているが。
サーシャも私と同じく握力100キロ以上だったので、事実上の計測不能である。
「あたしも試すぅ!」
暁美の細腕が鉄製の握力計を、グシャリと握り潰してしまった。
私は、この娘が玩具を壊すタイプの子供であると確信する。
「第一の質問ですが、なぜ貴女は手加減しなかったのですか?」
「ごめんなさいぃ……」
サーシャが徹底的に抑揚を排除した声で詰問し、暁美が縮こまる。
魔術師としてのレベルを加算したので、桁違いの膂力を発揮したのだ。
私も少し驚かすことにする。
車の荷物にベアリングが在ったので、10ミリの鋼球を持って来る。
それから、四拍呼吸を繰り返す。
1・2・3・4と吐く
1・2と止める
1・2・3・4と吸う
1・2と止める
霊気を指先から肘まで充填した。
鋼球を親指、人差し指、中指の3本ではさみ、ギューッと押さえつける。
これがプレス機にかけたように変形して潰れた。
東洋仙道における、武息からの硬気功と同じだ。
西洋魔道における Fourfold Breath、すなわち四拍呼吸でも同じことが可能だ。
人間の手は、管状指骨、関節、靭帯、血管、爪などにより構成されている。
これらは、極めて高い空洞構造効果を示す。
空洞の内部に霊気を充填することで、存在密度の次元を高くしているのだ。
スプーン曲げのような超能力ショーの手品も同じだ。
単なる高炭素鋼なら、スプーンだろうと10ミリの鋼球だろうと大差なし。
心を深く集中させ、霊気を操作するというコツは共通している。
「つねらないでぇ……」
「抓らないから、反省してくれ」
虚仮おどしで、少し驚かし過ぎたかも知れない。
この事例は、四拍呼吸による充分な霊気の錬成を前提とした特別なのだが。
やはり、自分は凡庸の凡俗の凡骨だ。
……。
3時間ものPTが終了し、対人訓練が始まる。
装備したシャベルの刃金から、30センチくらいの光刃が延長している。
『八寸の延金』という東洋仙道系の矛術である。
サーシャも、柄に呪紋を刻んだシャベルで魔導刃を構築する。
西洋魔道における、『オーラ伸縮』を強化したものだ。
東洋仙道における、『八寸の延金』と同じだ。
サーシャの四方を囲む団員も魔術師なので、魔導刃を構築している。
『く』の字型ルーンが刻み込まれたシャベルなので、条件は近い。
手加減しているサーシャの魔導刃が、やや強い程度だろうか。
前後左右の団員が間合いを詰め連携して斬撃を放つが、全段回避される。
正面、左右、上中下段の刃筋が通せない。
それも、四方からの同時攻撃であるが。
積み重ねた経験知が桁違いなのだ。
『矛術』の魔導刃も、命中しなければ普通の刃物と同じだ。
『八寸の延金』を編み出した小笠原玄信斎も、弟子の針ケ谷夕雲に破られた。
『斬りおぼえる』という言葉がある。
刀で敵を斬って憶える
日本における古い剣士の言葉である。
斬って斬りまくる。
つまり無数の実戦の中でしか、本当の戦い方は学べない。
生き残った者が学ぶ。
生き残りさえすれば学べる。
すなわち経験知の数値として、1という最初。
実戦における初陣を生き残る必要がある。
だが、最初の経験値として1を得るハードルが高い。
それこそが一般人に近い新兵と、古参兵の差である。
斬り殺した人間の数という、冷徹な数値。
実戦において、その経験値が0と1じゃ大違いなのである。
当然、実戦においては敵も自分と同じように生き残るつもりだ。
不意を突き、罠を張り、時に逃げもする。
勝てない敵と戦わないというのも選択肢の一つとして、知っておくべきだ。
これは刃筋というものが、人を斬らずには決して理解することが不可能であるからだ。
いかに竹刀や木刀で厳しい訓練をしようとも、刀が肉を斬り、骨を断つための刃筋だけは道場では学ぶことはできないのだ。
斬れば斬るほどに刃筋は極まる。
古参兵のサーシャが反撃を開始すると包囲網が、いとも容易く破られる。
だが、訓練で流す汗が多いほど、実戦で流す血は少なくなる。
たった1本の剣からでも学ぶべき事象は、多い。
初陣たる初戦において、味方の背中を撃たずに生きて帰れば充分である。
恐怖で糞尿を垂れ流そうと、生きて帰れば合格である。
夜刀浦防犯協力会の要請により、自警団は週に一度くらいの頻度で夜回りする。
そして、人外の魔物と遭遇することもある。
先日も、ショゴスと呼ばれる不定形の怪物に遭遇し、2人の団員が死んだ。
それが初戦となった新兵でしかない団員は、恥と屈辱に塗れた。
新兵は戦場において、小児以下の存在だ。
自分の排泄物も管理できない
異形の、強大な戦闘能力を前にした恐怖のあまり、糞尿を垂れ流した。
戦場で鼻にするのは、大量の腐敗臭と汚物の悪臭である。
出撃前には、体の余計なものは須らく出しておくべきなのだ。
実戦で新兵は、失禁ないし大失禁に至るものだ。
全員に近い、多数の新兵が漏らしている
当然ながら古今東西の戦場において、珍しい話でもない実戦の常識である。
兵士は、戦闘中に尿失禁の経験があるものだ。
戦地では語られないタブーの一つにすぎない。
兵士たちが誰も語りたがらない、戦場の悪臭という事実である。
馬上で大失禁したという人物が、天下国家を取ったこともあるくらいだ。
徳川家康が合戦において大小便を失禁したことは有名だが、兵も同じだ。
兵も人間であり、激戦に際してチビるのは当然の話である。
言い換えれば、当たり前に近い人体の機能だ。
そう簡単に排泄物を耐えられない兵士というのは珍しくもない存在だ。
人間の体に備わった機能である以上、どうしようもない事実だろう。
人間に限らず、動物は獲物を狩る戦闘においてエネルギー消費は最低限だ。
飢餓に追い立てられ、生死に関わる窮地に在るからだ。
虎や熊が飢えて、鹿や牛などの獲物を狩る、弱肉強食が世界の真理である。
消化器官など内臓機能が自動的に低下し、熱量を温存する。
狩りという戦闘が終了し、返り討ちの危険が無くなると、内臓機能が戻る。
狩り、喰らい、休む。
それが順番というものだ。
喰われる側の草食動物も大差ない。
逃げ、食らい、休む。
人間の肉体も、他の動物と同じような摂理で機能しているということだ。
働き、食らい、休む。
自警団の団員には、市の補助金から少しばかり給料が出ている。
小遣い稼ぎ程度だが、セミプロの兵士としてアルバイトの学生も多い。
2メートルもの魔導刃を形成して跳躍した団員は、佐藤か?
正面上段からの斬撃を、当然のようにサーシャが避ける。
その足下を狙って、本命の鈴木が背後からスライディングする。
下段脛斬りを、サーシャの魔導刃が受け流し、左右の団員も弾き飛ばす。
上下左右の連携に失敗した団員は、魔導刃の恐怖に失禁しながら戦闘続行。
小便の悪臭のみなのが、せめてもの救いか。
基礎訓練の前に大便を済ませる程度の経験知は、持っていたようだ。
教官サーシャの訓練は、本当に見事と言うしかない。
兵をギリギリの限界まで絞り上げることにかけて天才的である。
生かさず殺さず能力のギリギリまでを絞り出させている。
死に直面する恐怖に等しい経験で、兵が大幅に能力を伸ばすものだ。
疑似的に死の恐怖に追われれば、確かに急激な能力向上も納得いく。
しごかれる団員は、哀れであるが。
鈴木と佐藤の学生コンビは、私やサーシャと同じアパートに住んでいる。
黒須高校の神智科に所属し、魔法学の授業も受けている。
西洋魔道の『オーラ伸縮』で、2メートルもの強力な魔導刃を形成可能だ。
若さゆえ性欲を持て余し、有り余る精気が漲っている。
その精気を錬成し、陽気と化すことに成功しているのだ。
理論重視で実践が不足している、頭でっかちタイプのようだが。
……。
猛毒に汚染された死の荒野における訓練は、日暮れまで続いた。
また、私の休日が丸ごと潰された。
今週も、明日から仕事である。