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京都にての歴史物語

黎明期

作者: 不動 啓人

 シャフト(竪抗たてこう)は、人々にとっての希望であった筈だ。それが今や、奈落の入り口となって、ランタンの光も届かぬ闇をじっとりと湛えていた。

 奈落の口は直径5・5メートルの円形。深さ5・4メートルの位置からは東西径3・15メートル、南北径2・7メートルの楕円形となっており、深さは50メートル。

「大川さん!」

 田辺朔郎たなべさくろうは身を乗り出して腕の伸びる限りにランタンを翳し叫ぶが、奈落の底からの返答はなかった。


 明治初期、幕末の動乱と実質的な東京遷都に伴い活気を失った京都は、産業都市としての道を歩もうとしていた。そんな中で、より産業発展を進める為にも、物流、水力利用の観点から琵琶湖より水を引く『琵琶湖疏水びわこそすい』計画が持ち上がった。計画自体は、古くは豊臣秀吉とよとみひでよしの頃より模索されてきたが、技術的、財政的な面で問題も多く、近くは第二代京都府知事である槇村正直まきむらまさなおも検討したとされるが、実現には至っていなかった。そこへ第三代京都府知事として赴任した北垣国道きたがきくにみちは『琵琶湖疏水』こそ、当時の京都の最重要課題であると位置付け、実現に向けて強い指導力を発揮していた。

 『琵琶湖疏水』実現に向け、国道が主任技師として白羽の矢を立てたのが、当時工部大学を卒業したばかりの田辺朔郎だった。この21歳の若者は自ら実地調査したデータを元に『琵琶湖疏水』関する卒業論文を書き上げ、これが工事を外国人技師の手ではなく、日本人の手によって成し遂げることに拘っていた国道の目に止まり採用されたという。

 早速京都府へ出仕した朔郎は、精力的に工事計画を練り上げた。最も困難が予想されたのが、長等山第一隧道ながらやまだいいちすいどうで、その全長は2436メートルに及び、当時の日本では経験のない長さのトンネル工事であった。この工事にあたり、朔郎が採用したのがシャフトであり、長等山第一隧道の中間点にシャフトを掘って、その底辺から東西の入り口に向かってトンネルを掘り進めれば、都合四か所からの作業となり、工期の短縮を図ることができるのだ。

 明治18年(1885)6月2日『琵琶湖疏水』の起工式が執り行われ、それに遅れること2ヶ月余り、シャフトの掘削工事に着手した。

 工事は大量の湧水に難航し、掘削速度は日に20センチといわれた。極めて困難な工事であったが、それでも八か月かけようやく計画の底辺に達しようとした頃、一つの悲劇が起こった。大量の湧水を排出する為に導入された蒸気ポンプの責任者である大川米蔵が、シャフト竣工に目途が立ったある日、助手に「役目は終わった。後は任せた」と告げ、自らシャフトに身を投げたのだ。『琵琶湖疏水』工事における、最初の犠牲者だった。

 大川の自殺に、朔郎は大きく動揺した。『琵琶湖疏水』は日本史上、類を見ない大工事である。そんな大工事、難工事でまったく犠牲者を出さずに終えることは、大学で世界中の土木技術の研究してきた朔郎にとって、難しいであろうことは、ある程度覚悟をしていたといってもいい。その中で、犠牲者を出さないように最善の設計、工事計画を練り上げた自負はあった。ところが、出てしまった最初の犠牲者は、朔郎が苦心してケアしていた工事中の事故ではなく、自ら命を絶つという、朔郎の想定外のところで起きてしまった。

 朔郎は自問自答を繰り返した。そして強く痛感した。やはり、自分は未熟な「若造」なのだと。

 若干21歳にして工事責任者に任命された朔郎には、多くの好奇の視線と、そんな「若造」に膨大な予算を費やす大工事を託すことに懐疑的、否定的な意見が否応なく叩き付けられた。それを間に入って盾になり、一身に責任を引き受けてくれたのが府知事の北垣であり、それを意気に感じた朔郎は持てる全ての力を工事に注ぎ込んだ。年齢は関係ない。自身が持てる知識を以て責任者として工事に従事する工夫達を率いていく、そう強い意志を以て望んでいたし、行動していたつもりだった。

 だが、大川の自殺は、朔郎に決定的な事実を突き付ける。つまりは、朔郎が工夫達を率いていた訳ではない。工夫達が、若年である朔郎を支えていたのだ、と。その責任感に疲れ果て――大川は自ら命を絶った。

 知識では工夫達をリードできた朔郎だったが、人間性という面においては年齢が与えるイメージを覆すまでには至っていなかったと言え、つまりは、己は未熟であったと痛感するに至った。

 自分の至らなさが、大川に申し訳なかった。けれども、時を早め、望むままに年齢を進めることはできない。結局、自分は支えられているという事実を認め、感謝することしかできなかった。もし、自分がこの事実にもっと早く気付き、大川に心よりの感謝を告げていたならば――大川は、今も共に働いていてくれただろうか?


『一身殉事萬戸霑恩(一身事いっしんことじゅんずるは、萬戸恩ばんこおんうるおい)』

 

 最早、大川は戻らない。

 自分ができることは、この工事を無事に成功させ、大川の恩に報いることである。

 朔郎は決意を新たに立ち上がるしかないと、自分に言い聞かせ――行動した。


 明治23年(1890)4月9日、人々の希望の喝采を以て琵琶湖疏水は竣工式を迎えた。

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