4-3.少年僧は夢を見る
少女は厚い敷布の上で身じろぎひとつしなかった。くたりと力の抜けきった操り人形のようにも見える。
「――余程疲れていたのですね」
長い瞑想を終えて瞼を開き、ワジは動かぬ少女に呟く。
砂漠での移動中にツキツキがラクダの上で眠っていた2日間、ヨンはワジに対して少女がどのような世界に住み、どうやって意識を飛ばしてここにやってきているのか既に説明済みだった。
だがその考えは、単一世界を信条とするレナーニャ僧のワジには受け入れられないものだった。彼はヨンに対しては基本丁寧な態度と尊敬の念を表していたが、こうした話題になった途端、冷たい目となり彼女を見るのだった。
「移動猶予は残り何日だい」
ヨンの問いかけにワジは首を横に振る。
「急げとは言われていますが、特に期限は設けられていません」
「ではここには明日まで滞在しよう。ツキツキの体力が持たない」
「……この子を、連れていくおつもりなのですね」
「あんたはどうだい、ワジ。ツキツキの同行には反対かい?」
「そう、ですね」
ワジは死んだように眠っている少女の顔に目をやった。痛々しい火傷跡はだいぶ落ち着いてきたようだ。
「……置いていくべきだと思っていました」
何一つ役に立たない子ども。それもか弱い女だ。
「ですが、ああして命がけの経験をしますと、少し考えさせられたといいますか……縁を感じました」
ワジは口に出す言葉で自分の考えを確認しているようだった。
「生きるものにはいろんな存在の有り方があります。
その中の『守る者』と『守られる者』の関係は、お互いの強い繋がりが前提としてあります。弱者である守られる側が強者である守る側を信じているのは、たとえば血縁関係であったり恋人同士で会ったり主従や金銭関係であったりと、相手に受け入れられている確固たる自信があるためです。
ツキツキさんは私達と出会った時、守られる事に対して全くといっていい程疑いを持っていませんでした。この年までこれだけ弱いままで生きてこれたということは、守られるのが当たり前な特殊な環境で育ってきたということなのでしょう。
私は盗賊に襲われた時、彼女の無垢なまでの頼り方に心動かされたのです。もしやこれは神が遣わした修行ではないかと。弱きを護り、強くあれという」
運び屋は特に何の表情も浮かべず、胡坐をかいたまま酒の杯を傾けていた。
ヨルダム国ではその昼間のうだるような暑さから、正午から午睡をたっぷりと時間をかけて取るのが習慣だ。窓板を棒で支えた網窓の外ではハエのぶんぶんと唸る音だけが聞こえている。家畜もぐったりと小屋で休んでいるのだろう。
日が傾きだすまでのひと時の始まりを、ヨンは寝酒、ワジは瞑想を行って過ごしているところだ。
ツキツキはワジと同年齢の異性ではあったが、それでも『合理的にいこう』と、ヨンは部屋を一緒に取っていた。
『同室の方が護りやすい。別室を取るのは金の無駄だ』
そう言って、ヨンは旅の始まりからワジと同室を望んだ。宿代も食事代も十分に含めた支払いだろうに何というケチ臭さだ、と最初こそ呆れていたものの、禁欲も修行の一環であるワジはそれに文句をつけることはできなかった。
最も、たとえ万に一つでも不埒な考えを起こそうものなら、一瞬にして返り討ちに遭うだろう。
部屋にはヨンを真ん中にして厚手の敷布が三枚敷かれている。
ワジはひやりとした水入り枕に頭に置き、黙って酒杯を傾けるヨンを尻目に目を閉じた。
*
はあっ、はあっ、はあっ。
逃げる息の荒さに見つかるのではないかと怯えながら、それでも吐く息は大きくなるばかりで。
「いたか!」
「いや、あっちを探せ! おれは藪を見る!」
兵士達の喚き声がだんだんと近くに迫る。このままではきっと見つかってしまうだろう。
自分の運命は、この日のためにあった。
震える腿を思いっきりつねり、それだけではたりなかったので頬も叩く。しゃらしゃらと手足に付けた細い金の飾り輪が擦れて軽い音をたてた。
ここで時間を稼ぐのが、わたくしの使命。
立ち上がり、少年はよろめきつつも走り出す。
しゃらしゃらしゃらと音を立てながら、ごうごうと燃える炎の中、金色の装飾品に身を包み冠を付けた少年が長い衣をまとい城の中を走り抜ける。
「おい、いたぞ!」
「捕まえろ! 生け捕りだ!」
怒鳴り声と共にひゅううん! と矢が耳の傍をかすめた。
これは驚き足をすくませる為のもの。殺されはしない。殺されはしない。
そう己に言い聞かせ、必死になって少年は走る、走る。
『身代わりになることを名誉だと思え』
そう教わり、その通りだと思っていた。
覚悟はできているつもりだった。
だが、実際にその時がきた時、恐怖のあまり身がすくんだ。運命を潔く受け入れる覚悟がない自分が情けなく腹立たしい。
「か、かあさま」
呟きが震える吐息と混じりあう。
「かあさま、かあさまかあさま」
どこまで逃げおおせられたでしょうか。
わたくしはお役に立てましたでしょうか。
震えてもいい、転んでもいい。ただ決して、泣く事と喚く事だけはしてはならなかった。
それが王子である自分の矜持。
ぐい、と乱暴に髪が掴まれた。どすん、と転び、もがこうとしたその手足をぎりぎりと踏みつけられ、
「―― つぅかまえたぁ」
下卑た笑い声が遥か頭上より降ってきた。
それから、地獄が始まった。
*
目尻に涙が溜まり、荒い息が漏れていた。
ワジは口元に手をやると、目を閉じて深呼吸を繰り返した。
寝ている間、自分はうなされていたのだろうか。不審な言葉を発しなかっただろうか。
そろそろと首を動かし、隣を見る。
ヨンはワジに背を向けて眠っていた。その規則正しい肩の動きから、ぐっすりと眠っているのだと判断する。
ホッとして、ワジは半身を起こすと枕元の水差しを取った。喉の渇きを癒しながら心を平静に戻す。
(ようやく見なくなったと思っていたのに……)
よりによってこんな時に、と苦々しい思いで夢を忘れる事に努める。
目を閉じて瞑想を試みても、どうにも心が乱されたままだ。
午睡の続行など到底できそうもなかった。