8-2.ヨジェリアンとリュージン (2)
「もう一緒に入らない方がいい」
いつものように稽古を終え、浴室へと向かおうとしていたヨジェリアンは、驚いたように相手を見上げた。
まじまじと見つめられ、背高の少年――いや、もう青年と呼び方を変えるべき背格好だ――は、決まり悪そうに目を伏せる。
「どうしたんだリュージン、具合でも悪いのか」
「そういう事じゃないが……」
長めの黒髪を掻き上げ、リュージンは困ったような顔でヨジェリアンを見下ろした。
ヨジェリアン・タタールは女性でありながらかなりの上背がある。だが、それ以上に弟のリュージンは背高だった。
拾われて以来、彼は黙々とヨジェリアンの鍛錬に付き合い、同じかもしくはそれ以上に熱心に心身を鍛えていった。彼はヨジェリアンの影でいることを望み、常に彼女の後ろを歩いた。言葉もこの10年ですっかり滑らかに話せるようになっていた。
「理由があるのならはっきり言いな。言葉を濁しがちなのはあんたの悪い癖だ」
彼女の言う事は最もだった。
意見を主張せねば誤解を招き不利に陥ることもある。なのにリュージンという男は、どうもヨジェリアンの言葉や意見に合わせたり、曖昧な相槌でその場を穏やかに流そうとする癖があった。
別にその事自体が悪いわけではない。だが主張する術も身に着けておかねば、その穏やかな性格が命取りとなる可能性もある。ヨジェリアンはリュージンに生き残れる男であって欲しかった。
リュージンは辺りを見回し、廊下に誰も通っていないことを確認した。
「……姉上、私はもう大人だ。今では身体も姉上よりずっと大きい。心だって変わっていく」
「それは当たり前のことだろう?」
控えめに切り出したリュージンの言葉に、ヨジェリアンは何を今更といった調子で返した。
「根にあるものが同じでもいずれ花や実がつくものだ。お前はしっかりといい武人に成長した。
だがねリュージン、私はそろそろ嫁に行くことになりそうなんだ。今までは父が防いでくれたが、ヨルダムの将軍から王を通じて話がきたから断れない。女での軍職は目立つからね、おおかたあちらの軍に引き入れて士気を高めるのが目的なんだろう。
そんなわけで、あんたと風呂に入れるのも、どのみちあと僅かで終いなんだ」
だからお前がそう言ってくれるな。
ヨジェリアンはそう続けるつもりだったが、突如がしりと肩を掴まれた。
「……は、初めて、聞いたんだが……」
何故か息苦しそうな顔をしてリュージンが自分を見ている。
「本決定ではないからな。まだ話が舞い込んできたばかりで、これから進む」
「どうしてそんな……、あなたが断れば……」
「国の為となり命令であるなら従うさ」
ヨジェリアンの本心だった。
彼女は美人ではない。
だが、戦場で長い錆色の髪をなびかせて進む国名を持つ女将軍の姿は、後続する兵士達を高揚させるのに十分な効果をもたらした。
凛々しい彼女の元で直接指導を受け戦いたいと、兵達は競って鍛錬したため、結果として彼女の率いる軍やその周囲の士気は高く、素晴らしい統率力を誇っていた。
そうしてその噂は近隣諸国にも伝わっていた。むしろ、今まで話が来なかったのは国王と父がせき止めていてくれたからだ。ヨルダムは隣国であり国交もある。その大将軍デペといえば剛将として有名で立場的にも申し分なかった。
「だが、姉上の気持ちは……好きなやつとかいないのか?」
「そうだなあ、今まで特に考えもしなかった。恋の一つでも覚えておけば良かったかもしれないな」
はは、と軽い冗談でヨジェリアンは弟を和ませようとした。想定以上の反応をされ、心配になってきたのだ。
肉親と離れる寂しさが幼い頃の心の傷となり、今でも残っているのだろうか。
「心配せずとも、私はあんたを好きだよ」
ヨジェリアンは見上げるとリュージンの頬に手を置き、そっと親指で優しく撫でた。幼い頃そうしていた、涙の筋を拭き取る仕草。泣いていたわけではないけれど、等しいほどの悲しみが胸に伝わってきたからだ。
「今まで一心同体だったからね。
離れても、毎日あんたを想っているよ」
瞬間、ヨジェリアンは腕を引かれた。
顎を掴まれ抱き寄せながら、激しく唇を吸われる。あまりにも突然の事に判断が遅れた。
そのまま強く抱き締めようとするリュージンの腕から一気に身を沈めながら避ける。飛びずさりながら懐から短刀を出し、鞘を捨てて抜き身にした。素早く刃を向けながら、
「――何の真似だい」
と低い声で問う。
――弟が自分を肉欲の対象とした。
高潔な彼女はそれを許せなかった。
「ずっと……好きだったんだ。
駄目だと分かっていたが、他の男に嫁ぐと聞いて押さえられなかった。
私のものになってほしい。……お願いだから、姉上」
醜く嫉妬に歪む顔ですら、描かせて残したいほど様になる。
『砂肌のリュージン』は、見目良く背高で女性にも優しかった為、侍女内だけで幾人も彼に懸想している事をヨジェリアンは知っている。
だが、彼女の方は弟に応える気など毛頭なかった。
彼は武の相方であり弟である。心乱す相手ではない。
風呂で背中を流し合うことは親密を深めるいい行動だと教わっていた。だが性が違ってしまうとこのように面倒な事を引き起こしてしまうのだ。もっとずっと早くに、やめておくべきだった。
このように愚かな理由で決別する事が、ヨジェリアンは心から残念だった。
だが、けじめは必要だ。
「リュージン・タタール、軍長命令だ。
私が許可を出すまでは決してお前から近付き、話しかけてきてはならん」
男相手には立位置を利用して命令を出す。
拒むことなどできないのだとヨジェリアンは知っている。
リュージンは口を開きかけ――、やがて俯いた。
「……了解しました」
頭を垂れてそう呟く彼を置き、ヨジェリアンは身をひるがえして去っていった。
――今より、およそ10年前。
二人が姉弟でいられなくなった瞬間である。




