神様の意地悪-7.
円香にとって森野穂高は付き合いやすいと同時に不思議な同級生でもある。
学級委員に選ばれたことからも明らかなように成績優秀は誰もが認めるところだが、他にこれといって際立ったところはない。運動も人並み、騒がしいわけでも、口が悪いわけでもなく、強いて言えば穏やかで話しやすい。見た目に関して一番特徴的なのは少し垂れ目気味の細い一重の目。顔全体で、そこ意外に甘みは全くなく、高校生にしては鋭い輪郭や時折のぞくきりりと上がった眉は男性的な印象だ。体格は細身で手首などは見ている方が心配になるくらい骨が浮いている。その痩せた体格と、かろうじて目が覗く程度まで伸びている長い前髪と全体に伸びっぱなしに見える野暮ったい髪型のせいでクラスメイトたちの恋愛対象に見られない「眼鏡の秀才」というラベルをべったり張られている。年頃の16歳だというのに、本人はそれを気にかけている風もない。女子生徒のうけはあまり良くないが、男子生徒からは一癖ある面白い奴として受け入れられているように見える。
高校生の男子の中では「一癖ある」というのは「かわいい彼女がいる」のと同じくらい重要なことで、少し悪いところが格好よかったり、何かにこだわっているのが良かったりするらしい。そういう意味では森野のどこが買われているのかは分からないがとにかく一目置かれている様子なのは見てれば分かる。何がそんなに凄いのだろうと正体を掴もうとすればふわりと笑顔で交わされてしまう。どうも本性が見えないと思うけれど、嫌な感じはしなかった。
円香は自分の席について予習道具を広げたが、どうも集中できない。窓からグランドを見下ろせば、委員会が終わると同時に飛び出して行った陽太が練習に駆けつけてくる様子が見えた。このまま見つめてしまってはいけないと無理に視線を引きはがす。
余計に気が落ち着かなくなったので悪いと思いながらも森野にもう少し雑談に付き合ってもらうことにした。彼は自分からあれこれ話しかけてくるタイプではないが、声をかければ大抵の場合は話に付き合ってくれる。
「ねえ、森野もずっと学校で自習してるけどさ。予備校には行かないの?」
森野は顔を上げて半身振り返ると首を横に振った。
「行く気はないよ。この学校の授業なら予備校は必要ないし。」
森野は学年トップ10の常連なので、いつかは医学部や法学部を目指して猛勉強を始めるだろうと思っていた円香には意外な答えだった。
「それに学校の授業が終わってまで誰かの講義を聞いていたら自分でものを考える暇がない。人の話を聞いているだけじゃ身につかないから。」
続けられた言葉は円香には考えもつかなかったことだったが、言われてみれば一理ある。なるほど、次から人にどうして予備校にいかないのかと聞かれたらこれを答えよう。なんだか賢く聞こえそうで良い。と頭にメモする。
「八坂は?」
「私も予定はないよ。そんなに勉強が好きな訳でもないし。」
軽く首を振ると、森野はペンを握ったままの右手を顎に当てて考えるようなポーズをとった。
「何か?」
腑に落ちないことでもあるかと聞いてみると、森野は軽くかぶりを振った。
「いや、勉強が好きなわけじゃないのに毎日何時間も居残って勉強するというのは。つまり、あれだな。真面目なんだな。」
と、思っただけ。と言って森野は顎にあてていた右手を机に戻した。
「そうかな。」
円香は自分が特別真面目だとは思っていない。授業についていくのに必要な勉強をするのは当たり前だ。
「一度大きく遅れてしまうと、取り戻すのがすごく大変だな、と。だったら遅れない方が絶対楽だよね、と。そういう小市民的なことなんだけど。」
一夜漬けで山を張るよりも毎日こつこつ続ける方が円香にはよっぽど楽だ。
そう答えれば森野は口元を緩めて「ふうん」と漏らした。
「それは全く正しいね。」
賛成の意を示した森野は、すいと手を差し出した。思わず握り返すと軽く握手をして離される。思いの他、冷たい手の感触に円香は離した後も遠ざかる森野の手を思わず見つめてしまう。指の長い、肉の薄い痩せた手。
「何か?」
今度は森野に聞き返されて円香は苦笑いを浮かべた。態々言うようなことでもないのだけれど。
「いや、手が冷たいなと思っただけ。」
「そうかな。」
彼は自分の手を首筋にあてて首をかしげている。
「心が温かい人ほど、手が冷たいって言うからね。」
使い古された俗信を持ちだして森野はにやりと笑った。
「まあ、真偽のほどは確かじゃないけどね。」
円香が切り返すと、森野は笑顔のまま頷いた。
「確かに。でも、真実はいずれ明らかになるんじゃない?」
「どっちの?」
俗信の話か、目の前の級友の心根の話かと問い返すと森野は細い目を瞬かせた。
「通説を確認して回るのは難しいでしょ。今言ったのは俺の話。」
円香はしばし、彼の言葉の意味を理解するために立ち止まった。確かに長く付き合えば彼の人柄については知る機会もあるだろう。隠そうが隠すまいが、人柄というのは伝わってしまうものだ。というか、この一カ月程度の間に彼が本質的に優しい性質だと言うことは円香にも分かっている。
彼女が納得して視線を森野に戻すと、彼はすでに話は終わったとばかりに窓の外を眺めていた。示し合わせたわけではないものの同じ教室で毎日のように二人で居残るうちに、二人には二人なりのルールができていた。話の打ち切りのタイミングはしばらく間が空いて片方が宿題や予習を再開したときだ。話を打ち切るのは失礼だろうかと延々と相手につきあってしまっては無駄に時間がかかる。だからお互い好きな時に話を終りにしても良いようにしたのだ。
その後、半月ほど毎日見続けている森野のいつもと変わらぬ背中と、同じく聞き続けているペンがノートを走る音を聞いているうちに、円香の胸の中にあった落ち着かない気持ちは溶けて消えていった。円香は静かに目を伏せて胸の中だけで森野に礼を言うと予定どおり、予習を始める。そのまま二人は部活に勤しむ他の生徒の掛け声や楽器の音が途切れ途切れに聞こえてくるだけの静かな教室で暗くなるまで勉学に勤しんだ。




