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ロンド  作者: 青砥緑
番外
63/64

またね? -1

「えーと、じゃあ、ま……また来週ね。八坂」


 別れ際の歯切れが悪くなったのは、受験のために自由登校になった頃からだったと思う。

 初めて気がついたときには、もう「また明日」が当たり前じゃなくなったのだと思って寂しい気分になった。けれど、それと同時に次に会える日を数えながら挨拶する森野の律義さが可愛らしく思えて心が温かくもなった。


「じゃあ、えーと、ま……また、ね。八坂。連絡、するから」


 次に会う日が分からないまま別れるようになったのは、森野が東京へ引っ越してから。森野は都内の大学、円香は地元の大学にそれぞれ進学し、二人の恋は遠距離恋愛になったのだ。

 遠距離恋愛になると決まったときから、不安はあった。もう簡単には会えないという事実が取り返しのつかない、大変な出来事のように思えた。それでも、そのために進学先を変えるような森野でも、円香でもない。円香は不安だと口にすることさえしなかった。むしろ「大丈夫だよ」と繰り返した。それは自分に言い聞かせるためでもあって、森野はそのことに気づいたのかもしれない。遠距離恋愛が始まってからも別れ際の挨拶から「またね」の言葉が消えることは決してなかったし、それまで以上に思いの籠った眼差しで円香を見つめてから「また」と告げてくれるようになった。

 だから、円香は森野の挨拶が好きだった。思いつめたように自分を見つめて、想いを込めて、込めすぎて「ま……またね」と、つっかえながら言ってくれることが嬉しかった。



 大学生になって初めての夏休み。森野は一週間だけ帰省してきた。久しぶりに「また明日」と言って別れられる日々を満喫し、そして今日、彼はまた東京に戻る。

「夏期講習は稼ぎ時だから、仕方ないね。森野先生」

 駅のホームでベンチに並んで座ったまま、円香は微笑む。ずっとつないだままの手には腕から汗が流れ落ちて、少し動かすだけでぬるりと滑った。すり抜けそうになってしまった指を、また森野の手の中に戻す。

「お金稼がないと、次に帰って来られないからね」

 森野も苦笑いを浮かべる。その前髪は高校時代に比べてすっかり短くなり、表情がずいぶんと見やすくなった。髪型は森野が東京に出て大きく変わったところの一つだ。

「次は、私が行くってば。いつも森野ばっかり帰ってくることないじゃない」

「うーん、そう言われたらそうなんだけど……」

 森野の視線の先にある線路にはまだ陽炎が立っている。円香はそれを見ているだけで眼球が焼けそうだと目を細めた。そのまま目を閉じて待つ。僅かな期待を裏切って耳に入るのは蝉の声、電車が入るというアナウンス。

 森野が円香に東京に来いと言ったことはない。円香から言い出したときでさえ、春は家が片付いていないと、夏は家族にも会いたいから自分が帰るといって断られた。今度こそ断る理由はないはずなのに、森野はやっぱり会いに来てほしいとは言わない。

「……行ったら、迷惑?」

 電車がホームに入って来るタイミングで呟いたのは、聞かずにはいられないくせに返事を聞きたくなかったからだ。

「え? 何?」

 案の定、聞き返されて、円香は内心ほっとする。


 やっぱりまだ、聞きたくない。心の準備ができてない。


 この一週間、本当に楽しかったけれど、でも、森野がときどき何か言いたそうにしていたことに円香は気がついていた。気がついて、怖くて、聞けなかった。今だって、何本も電車を見送ってまで一緒にいるのは、別れ話を切り出すタイミングを待っているのではないかとほんの少し疑っている。


 知りたい。知りたくない。今は、まだ。


 円香は立ち上がり、森野の腕をひいた。

「もう行かないとって言ったの。おうちに着くのが夜中になっちゃうでしょ。この電車、乗りなよ」

 恋人にも不安を上手に見せられない。円香は相変らず甘え下手のままだ。

 森野は笑顔の円香を見つめてから、鞄を担いで電車に向かった。乗り込む前に振り返り、もう一度じっと見つめる。そして、俯くように目を逸らした。


「あの、じゃあ。ま……、ま……、また、ね。夏バテに気を付けてね、八坂」

「うん。森野もね」


 発車ベルに急かされるように森野は俯いたまま電車に乗り、閉まる扉に振り返る。扉越しにやっと円香と目が合った。顔が良く見えるようになった森野のいつもと違う表情。見慣れない苦し気な表情の彼を乗せて、電車は去っていった。



 あのぎこちない挨拶が大好きだったのに。

 一人、帰路についた円香は電車の窓に汗ばむ額を押し付けて目を伏せる。

 今日、去り際の森野は初めて円香から目を逸らした。いつものように「またね」と言いかけて口ごもり、けれどもいつも通り「またね」が出てくるまでにひどく時間がかかった。

 本当は、もう会いたくないのかもしれない。東京で出会う女の子たちは、きっと円香よりずっと垢抜けているだろうし、森野の同級生となれば、皆きっと頭も良い。気の利いた会話だって得意だろう。改めて円香を見て、幻滅したのかもしれない。いつまでも昔のまま。おしゃれでもない。甘えるのも下手で、可愛げがない。

 浅く息を吐いて目を開ける。泣くなら家に帰ってからにしたい。円香は無理やりに意識をそらし、車窓の景色を眺めた。高校時代に何度もデートした町が通り過ぎていく。毎日当たり前に一緒にいて、離れるなんて思いもしなかった、幸せな日々。幸せな思い出。

 円香はまだ思い出の町に暮らし、そこに浸りこんでいる。けれども、森野は違う。円香は今の森野が暮らす町さえ見たことが無い。

 重たいため息が、知らないうちに漏れ出ていた。


 ツンツン。

 肩をつつかれて振り返ると、大学で知り合った友人の呉崎高雄だった。

「あ、やっぱり。円香じゃん」

 良かったあ、と呉崎はにかっと笑う。大きな口が顔からはみ出そうに広がった。

「また会ったね。奇遇奇遇。俺達本当に良く会うね。運命かね。っつうか、この辺に住んでたら仕方ないよね。遊び場選べないしね。んの割に高校時代に出会ってないんだから逆にもう運命じゃないこと確定、みたいな。ところで元気?って、今、すっげえため息ついてたけど、一応聞いとくわ。元気?」

 円香は背の高い呉崎を見上げてもう一度、今度は軽いため息をつく。この男はとくにかく口数が多い。悪い人物ではないのだが、話していると口を挟む隙をみつけるのに疲れてしまうほどよく喋る。

「高雄ほどではないけど、元気よ」

「そうー? ならいいけど。って、あれ? 一人だね? 彼氏は? おとつい会ったの遠恋っつってた彼氏でしょ? 帰って来てたんじゃ」

「東京、帰った」

「え、もう? 早くない? まだまだ夏休みでしょって、分かった。それで落ち込んでんだろ。なんだあ、円香、乙女さんじゃん。かっわいい。ザ・ツンデレだな」

「煩い」

 呉崎は円香と同じ沿線に住んでおり、確かに良く会う。とはいえ、彼の言う通り、若者が立ち寄りたい場所など限られている地方都市なので、円香としても特別な運命は感じない。むしろ、一昨日に森野と一緒にいるところで出くわしたときは舌打ちしたい気持ちにかられたくらいだ。何せ呉崎はおしゃべり過ぎてうるさい。森野と過ごせる貴重な時間を、呉崎に分けてやる気には全くならない。

「わあ、照れてる。レア過ぎる。あはは。やだ踏まないで、ビーサンってほとんど裸足だから。痛いから」

 円香が踏みかけた足をどけてやると、呉崎は汗をぬぐう仕草だけしてけろりと円香の隣に並んだ。つり革を掴んでも余っている長い腕。円香は彼が昆虫のようだと良く思う。

「それにしても彼氏、とっとと帰っちゃうとか、つれないねえ。確かにクールっぽかったけど、でも」

「バイトなの。仕方ないの」

 ぴしゃりというと、呉崎はちょっとだけ目を丸くしてからつり革にぶら下がるようにして膝を曲げ、円香の顔を覗き込んだ。

「ふうん。じゃあ、円香がついてっちゃえば良かったのに」

「そんなのっ」

 行きたいに決まっていると、言いかけて詰まった。言葉の代わりに涙がこみ上げる。

 ついていけるなら、行きたかった。でも、森野が。彼が、円香には東京に来てほしくないと態度で示していたのだ。


 それは、なぜ?


 慌てて顔を背けたが、呉崎は見逃さなかったらしい。

「円香、円香。円香、ちょっと一緒に下りよう。お茶、お茶、お茶しよう。ね、ね、ね、ね? 女の子泣かせたまま別れるなんてできないよ。お願い。ね? ね?」

 次の駅で呉崎は円香を連れて電車を降りた。断れなかったのは呉崎の勢いと、それから長い前髪のせい。初めて会ったときに、ここにもいたのかと思わず見つめた目を覆うほどの長くて重たい前髪。それだけで他人とは思えなくなってしまった呉崎との妙な距離感せい。


 何でもない小さな駅で、お茶は自動販売機の缶ジュースになった。ベンチすら空いていなくて、ホームの端に立ったまま二人はジュースをすする。

 何を言うよりも前にジュースを飲み切ってしまったらしい呉崎は、唾をのんで円香に向き直った。

「単刀直入にお聞きしますが、振られたの?」

 円香はじろりと呉崎を見上げる。

「違う」

「じゃあ、浮気してるっぽいのに気がついちゃったとか?」

「違う」

 森野は浮気できるような男ではない。もしも他に気になる女の子ができても、円香と別れるまではきっと我慢する。

「じゃあ、何よ?」

「こっちが知りたい」

「は?」

「分からないの」

 これまで森野は円香が知りたいと示せば、それに応えようとしてくれた。隠し事をしないでくれた。でも、今の彼は何かを隠しているのだ。円香にはそれが何か分からない。どうしてなのかも。

「はーん。よく分かんないけど、円香が不安だってことだけ分かった。不安になってるってことは、彼氏になんか怪しげなとこがあるんでしょ。そこ、白黒つけない限りずーっと不安だと思うなあ」

「やめてよ、不吉な予言みたいなの」

 円香がぶすっとして言い返すと、呉崎は真顔になる。

「予言じゃないよ。助言。ていうか、真実」

 言い切られると、本当に呉崎が正しいような気がしてくる。このままでは、ずっとモヤモヤを抱えたままになるのかもしれない。

 呉崎は黙ってしまった円香の肩をポンポンと叩いた。慣れない大きさの手の感触に、円香の肩がびくりと揺れる。

「あ、触られるの嫌だった? ごめんごめん」

 両手を上げて一歩離れながら、呉崎は口元だけ笑顔を浮かべる。

「頑張って白黒つけてきなよ。今からだって追いかけられるでしょ、トーキョー」

「え?」

「駄目だったらさー、連絡くれたらお迎えに行ってあげるから。何時でも」

 呉崎は両手でバイクのハンドルを握る仕種をする。円香は彼が大きなバイクに乗ることを思い出した。

「終電とか気にしないでいいから、行っておいでよー」

「な、んで?」

 そこまでしてくれるのか。円香の途切れた問いかけを汲んで呉崎はゆるゆると笑みを深めた。

「だって円香、美人さんだもーん。悪い男から救い出したらさ、俺ンとこ来てくれるかもしれないでしょ」

「は?」

「ま、それは冗談として。バイク出すのは本当にいつでも全然OKだから。オトモダチとして応援してるよってことよ」

「あ、ありがとう」

 円香は一歩、二歩と後退った。邪魔くさい前髪の奥からのぞく目の奥だけが真剣に見えた。ほんの少し首を傾げたら髪の毛で隠されてしまう瞳。

「早くいっといでー」

 ひらひらと手を振る呉崎に見送られて上り電車に飛び乗ったのは、半分は彼から逃げ出したかったからだ。

 家に帰るよりも、森野のところに逃げていきたかった。そして、ちゃんと自分を引き留めて欲しかった。


 逃げ場所になるとは限らないのにね。

 東京に着いてしまってから円香は独白して苦い笑いをこぼした。既に東京で一人暮らしをしている加奈にも連絡してもしものときに転がり込める先は確保した。だから呉崎のことは一旦忘れていい。考えなければならないのは、これから向かう先。森野のことだ。東京駅から電話をかけたら、珍しく混乱した様子で最寄り駅へ迎えに行くと言っていた。

 怒られるだろうか。疎まれるだろうか。

 怖いけれど、円香の足がすくんでも電車は走る。住所だけ知っていた森野の新しい住処はすぐそこだ。

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