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ロンド  作者: 青砥緑
番外
62/64

クリスマスの願い事

黒江、二十歳の冬。

 掲示板の前に立ち止まってヨレヨレによれている張り紙を見る。


 掲示板にはガラスがついていて濡れないはずなのに、どうして毎度毎度張り出されている掲示物がよれているのか分からない。張る前に濡らしているのだろうか。


 意味のない考察をしながら黒江龍一は掲示板の内容を確認した。明日からしばらく冬休みになる。見逃している情報がないか最終チェックだ。


 その後ろを通りかかった二人組の女子学生が足を止めた。

「黒江くーん、もう帰り?ご飯食べに行かない?」

 振り返った黒江は無表情に首を横に振った。ええー、と大きな声をあげた二人は口を尖らせ不満そうな顔をする。計算しつくされた表情だが、残念ながら上目づかいもアヒル口も黒江には効果がない。

「予定があるから。」

 付け加えられた返事もあっさりしたものである。彼は大学入学以来約二年間に渡ってつれない態度を貫き通している。ごねても他の男子学生のように「仕方ないなあ」と譲歩してくれることはない。女子学生たちもその辺はいい加減把握していた。誰もが振り返るこの美男は、しつこく追われることをとても嫌う。二人は素早く戦略を切り替えた。

「ねえねえ。明日のクリスマスパーティー来ないって本当?」

 今日予定があるなら、今日は諦める。では明日はどうか。一度断られたくらいで引き下がらない逞しさは男子学生より女子学生の方が上かもしれない。

「ああ。幹事に断っておいた。」

「えー、明日も予定があるの?もしかして彼女できた?」

 冗談めかしながらも、何も見逃さないとばかりの鋭い視線で女子学生は問いかける。黒江は彼女たちの様子を見るたびに記憶喪失のエージェントの映画を思い出す。鋭く、賢く、隙が無く、獰猛な。そんな恐ろしいものに対峙したら、自分も身構えずにはいられない。学内で無表情でいる時間が長いのは防御の一環である。黒江は防御を崩さないまま答えた。

「それ、お前に何か関係ある?」

 きつい一言に相手が鼻白んでいる隙にさっさと立ち去る。情報はなるべく与えない方が良い。進学直後に一人暮らしのアパートの場所を知られて夜討ち朝駆けを受けて以来、黒江はなまじなお嬢様よりガードが堅い。



「あー、なんか疲れた。」

 黒江は引っ越しを余儀なくされて移った二軒目のアパートの玄関に腰を下ろして長いため息をつく。大学の近所ではいつかまた自宅を発見されてしまうからと敢えて遠くに引っ越した。おかげさまで自転車を三十分以上漕いで通学している。自分を無駄に大学から遠い所に追いやった原因に出会った後で、この道のりを走ると妙に疲れる。のろのろとゴアテックスのブーツを脱いで玄関の脇にきちんと揃えてから立ち上がった。

「ただいま。」

「おっかえりー。」

 居間に入ると陽気な声が出迎えてくれる。黒江はどんより曇っていた気持ちが晴れるのを感じた。

「おっかえりー。」

「おっじゃまー。」

 今日は更に余計な声が二つほど続いて飛んできた。

「疲れた顔してんなあ、アムール。なんだよ、これから楽しく鍋パーティーってときに。外に七人の敵がいたのか?」

 家主のいない間に家に上がり込んでいた高校時代からの悪友がこたつの中から問いかけてくる。すっかり馴染んでいるその様子がなんとなく気に入らないと黒江は悪友の背中を遠慮なく蹴飛ばした。ぐえ、と潰れた悪友の隣で小柄な女性が叫び声を上げた。

「ぎゃー、ちょっと黒王子止めてよ。君にはこのおこたの上が見えないのかね!むきたてのエビ様が崩れるよう。せっかく芸術的に盛り付けてるのに。」

 必死の声音に床に伏せていた悪友が、がばりと顔を上げる。

「え、ちょっと先輩?彼氏の心配じゃなくてエビ様の心配なの?」

「君はそんくらい平気な子だ。強い子だもんね!」

「そ、そっか。うん。俺、全然平気!」


 勝手に盛り上がっている二人のやりとりを聞きながら、黒江はコートとマフラーを片付ける。彼らは放っておいてもいつもこんな調子だ。悪友は彼女に良いようにあしらわれるのが快感であるらしい。

「先輩、その黒王子ってのまだ止めないんですか。」

 悪友の恋人に尋ねると、思った通りに止めるつもりはないと言い返された。

「これ以上に黒江君に似合う渾名があるなら提示しておくれよ。それに納得できるまで変える気はないね。」

「外で黒王子ってでかい声で呼ばれるの、すっごい恥ずかしいんですけどね。」

 言っても無駄なことはすでに良く分かっている。文句を言いながら部屋を横切って台所に顔を突っ込んだ。

「ちょっと手洗わせて。」

 台所で何やら作っている料理人に声をかけると、彼女は半身だけどいてくれた。1LDKの狭い台所ではそれが精いっぱいだ。

「毎回なんでこっちで手を洗うんだろ。独立の洗面所があるってのに。」

 調理の邪魔をされる出張料理人は黒江のこの癖が気に入らないらしい。

「そのまま手伝うんだったら、こっちの方が効率がいい。」

 黒江の返事にかぶせるように先輩のでかい声が飛んできた。

「いちゃつくためだよー。その密着感を狙ってんでしょ、黒王子。」

 その言葉に料理人の顔は見る間に真っ赤になる。


 まるで熟れたトマトだ。かぶりついたら酸っぱいだろうか、甘いだろうか。


 黒江はじいっと赤い頬を見下ろして考える。

「ちょ、ちょっと黒江君。手え洗い終わったならどいてくんないかな。」

「なんか手伝うことは?」

「いやあ、もうほとんどできてるから。片付けのときにお願いするわ。」

「分かった。じゃあ、先に飲んでても良い?」

「許す。」


 一人暮らし用の冷蔵庫に入りきらないビールは冬の冷気で冷やすために狭いベランダに出してある。ビールをとろうと黒江が台所から出てくると、二人の客人がニヤニヤしながら見上げてきた。

「なっかよしー。新婚さんみたーい。」

「ひゅーひゅーだよー。」


 ひゅーひゅーって、いつの時代の表現だ。


 黒江は二人を無視して、しかしわざとベランダの窓を大きく開ける。冷たい風がリビングに吹き込む。二人がひいひいと悲鳴を上げるのをいい気味だと嘲笑って黒江はビールを取り出した。

「あ、俺のも!俺も飲む。アムール、も一本とって。」

 ぽんと一本投げてやると、悪友は片手で危なげなくキャッチした。

「じゃ、ちょっと早いけどメリークリスマスってことで。」

「いやいや、アムール。乾杯は目黒さんが席についてからでしょ。いくら亭主関白でもそれはない。」

 軽く缶を掲げた黒江に向かって悪友が思いっきりダメ出しをしてくる。それもそうかと頷いて黒江は黙って缶に口をつけた。二口、三口飲んでからはっとする。

「いや、亭主関白じゃないから。」

 言った途端に同じようにビールを飲んでいた悪友が吹き出して絶妙なバランスで山盛りにされていたエビに不要な下味をつけた。

「ああー!ちょっと向井っち何すんのー!」

「げっほ、げっほ。いや、今のは黒江が笑かすのが悪いじゃん。クールなノリツッコミとか無駄に技術高いことするからさ。」

「このエビ様どうすんのさー!」

「茹でれば平気だよ。ていうか、先輩は気にしないでいいじゃん。先輩自体に俺の唾ついてんだから。」

「下品な言い方すんなー!むきゃ―!」


 こいつらはどうしていつもこう煩いのだろう。


 黒江は半眼になってビールをすすりながら二人を見つめた。それでもどうにも憎めなくて高校卒業後、進学先は全員バラバラであるにも関わらず何だかんだで顔を合わせ続けている。どういうわけか黒江の家を集合場所にされることが多いのが難点だが、いつも一番きれいだからと言われてしまうと他の家に行くのが怖い。特に悪友の家は怖い。


「部長ー、向井くーん。じゃれ合うならちょっと離れててー。煮えたぎった鍋持ってくよー。」

 台所から声がかかって、二人はぴたりと静かになる。料理人が明らかに家族用の大きな鍋を持ってきた。

「はい。じゃー、始めましょうか。」

 こたつの空いていた一辺に腰を下ろした料理人が片手を揺らして何かを黒江に要求する。黒江は黙ってこたつを出て窓を開け、まだ二十歳の誕生日を迎えていない彼女のためのジュースを取って戻る。プルタブを開けてから手渡すと彼女は「ありがと」とにっこり笑った。

「なるほど、亭主関白じゃないな。」

 ぼそぼそ言い合う二人の声をかき消すように、料理人は「メリークリスマス!」と叫んで缶を掲げた。それぞれ慌てて手元にあった飲み物をぶつけて乾杯する。


 結局エビは煮沸消毒すれば大丈夫という結論に至り、鍋に投入された。そもそも直に箸をつっこんでいる時点で飛沫感染する病気が伝染するリスクは同じだ。食べ進めながら黒江がそう指摘すると全員からすごく嫌な顔をされた。

「黒王子の賢い菌が伝染するなら歓迎だけどさ。」

「アムールの突然空気読めなくなる菌は嫌だな。」

「そういうのは飛沫感染じゃないんじゃないかなー?どっちかっていうと空気感染?」

「やだ加奈ちゃん。何それ、怖い。」

 黒江はこたつの中で触れられるすべての足を蹴飛ばした。あちこちから報復される。誤爆も相次ぎ、もう何が何だか分からない。鍋の汁が零れたところで報復合戦は緊急停止された。

「ギリセーフ。布団までは濡れて無い。」

 台拭きでせっせと片づけをしていた悪友が爽やかな笑顔でVサインを出して、一同から拍手が起きた。


 黒江は四本目のビールに手を伸ばしつつ笑いを噛み殺す。馬鹿ばっかりだ。でもちっとも嫌ではない。いつまでも高校の続きをやっているみたいで安心する。いつまでも何もかも同じではいられないかもしれないけれど、気負わずに素顔のままでいられる間柄だけは変わらないでほしいと思う。


「そんで、いつ実家帰んの?」

 だいぶ酔いの回った赤い顔で悪友が問いかける。

「ああ、明日戻る。」

 黒江の答えに彼は目をしぱしぱと瞬かせた。

「え?明日?なんで。クリスマスイブじゃん。」

「別に俺はどこぞの気前のよい爺さんじゃないからイブだからって世界中駆け回る必要ないし。」

「それくらい知ってるけど、こっちにいた方がパーティーとか飲み会とかあってさ。楽しく過ごせるじゃん。アムール、爺さんじゃなくて若者でしょ?」

「別に、パーティーなんて一回やれば十分だろう。」

 そこで少し沈黙が下りた。黒江以外の三人が顔を見合わせたり、俯いたりもじもじしている。

「く、黒王子。うっかり惚れそうになったわ。こんな四人ぽっちの、クリスマスとは名前だけの鍋パーティーで満足だなんて。口説かれてるのかと!」

 胸を押さえてつっぷする恋人に悪友は「気をしっかり持って!」などと励ましの言葉をかけている。

 黒江は放っておけば永遠に夫婦漫才を続けている悪友を早々に見限って料理人に顔を向けた。彼女は照れ臭そうに笑っている。急いで実家に帰るのにはそれなりの理由がある。地元でクリスマスにしか見られない御利益がありそうな特別なクリスマスツリー。そこに願い事をしにいくのである。同行を約束している料理人は当然そのことを知っている。何を願いに行くのかは伝えていないが、たぶん、分かっているのだと思う。

 何だか嬉しそうな、ほくほくとしたその笑顔を見つめて黒江も自然と笑顔になった。


「・・・見つめ合って笑ってますぜ、旦那。」

「しっ、黙ってなさい。そのうちキスするから。写真とってやろ。記念すべき初チッスの。」

「え、なに?初ってどゆこと?」

「だから、そーゆーこと。」


 ひそひそ声の悪友達の会話に黒江は心の内だけで答えた。


 悪いが、それは明日の予定だ。

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