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ロンド  作者: 青砥緑
本編
59/64

Da Capo-6.

 病み上がりで修学旅行に参加した若菜は、戻ってからまた風邪をぶり返していた。寝込みこそしないものの鼻声で涙目だ。早く帰った方がいいから部活は待つなと言ったのに、終わるまで教室で待っているから迎えに来て、と相変わらず陽太の言うことを聞かない。


 それも、今日は少し都合が良かった。

 練習が終ってから急いで若菜の教室に向かう。暖房の効いた教室に飛び込むと走ってきた陽太は汗が止まらなくなった。一人で待っていた若菜はコートまで着こんで、汗を拭う陽太を見てくすくす笑っている。飲みかけのペットボトルを差し出そうとして、風邪がうつっちゃうねと言って引っ込めた。陽太は自分の鞄から水を出して手近な机に腰かけたまま一気に飲んだ。

「そんなに急いで来てくれたの?」

 笑いながら若菜は嬉しそうだ。その笑顔にちくりと胸を痛ませながら陽太はなるべく普通を装って若菜の方を向いた。

「若菜、少し話があるんだけど、いい?」

「いいよ、何?」

 首をかしげる彼女に分からないように、控え目に深呼吸をする。

「あのさ、修学旅行のときに森野と話をしたんだ。」

 そう切り出すと、若菜の表情がすっと抜けた。

「森野?どうして?」

 若菜は陽太に歩み寄って、冷たい手を机の上に置いていた大きな陽太の手に重ねた。

「うん。俺も理由は良く分からないんだけど。若菜のこと、とかちょっと。」

 陽太が無意識に指を絡めながら続けると若菜の綺麗な眉が跳ねあがった。

「私のこと、何か言われたの?修学旅行の直前にね、あの人、私のところにも来たの。ひどかったんだよ。」

 ぎゅっと若菜が指に力を入れて長い爪が陽太の手の甲に浅く刺さった。僅かに顔を顰めた陽太に気づかずに若菜は続ける。

「私が八坂さんを陸上部から追い出したって。私、陸上部員でもないのにさ。陽太くんにもそんな話したの?」

「いや、ちょっと違う。そうか、若菜にはそんな話をしたんだ。」

 陽太が、ふうんと言うのを聞いて若菜は陽太の顔を覗きこんだ。

「違うよ?部員でもないのに私が追い出すなんて無理じゃない。陽太くんはそんな話信じないよね?」

「うん。本当は、三年の先輩とかが円香は人の男をとるって噂信じて、自分の彼氏に色目使ったとか、何とか言って追い出したんだよ。」

 これまで彼が一度も口にしなかった、恐らく最も直接的な円香の休部の理由。それをこの日の陽太は淡々と答えた。若菜はその内容に憤慨したような表情を浮かべた。

「何それ、ひどい。」

 その表情を陽太は何とも言えない気持ちで見る。これは演技なのか。自分には見分けがつかない。疑えばきりがない。だから疑うのは止めようと思う。

「うん。ひどいんだ。そんな噂が広まったのは円香のせいじゃないし、実際そんな事実もきっとないし。」

 陽太が静かに続けると、憤慨していた若菜は勢いのやり場を失くしたように口ごもって相槌を打った。

「それは、そうなのかもしれないね。でもさ、どっちにしたって、やっぱり私のせいじゃないじゃん。今度森野に会ったら言い返してやらなきゃ。」

 頬を膨らました彼女を見下ろして陽太は諦めに似た決心をする。こんな若菜を何度も見ては見なかったふりをしてきた。円香に関して遠まわしにでも責められると、若菜は私のせいじゃないと口にしながら、脅えた動物が背を丸めるように攻撃的になる。何も心にひっかかりがなければ、こうも過敏にはならないだろう。若菜も自分が向かい合うべきことから目を背けているのではないかと思う。陽太は、昨夜もう逃げないと覚悟したから。勇気を出して次の一言を口にした。


「若菜。それは違う。」


 その瞬間に打たれた様に若菜が顔をあげた。

「若菜だけじゃないかもしれないけど、でも俺達のせいでもあったんだよ。最初は、円香が俺を狙ってるって噂だったじゃんか。それからたくさん尾ひれがついた。」

「何それ。」

 睫毛を震わせながら若菜は陽太から目を逸らせずに首を僅かに振る。陽太は繋いだままの手をしっかり握り直して彼女の目を見つめ返した。

「一番、若菜がよく知ってただろう?それを、そのまま尾ひれが着くのを見てただろ。」

 若菜は大きな瞳がこぼれそうになるまで目を見開いて、それから大きくかぶりを振った。

「知らない。そんなの、知らない。」

 若菜はそのまま陽太と繋いでいた手をほどいて彼の上着を両手で強く握った。熱のせいだけでなく赤く潤んだ目は必死に陽太の瞳の奥を覗こうとする。その真意を引きずりだそうとするかのように。

「陽太くんまで私を疑うの?私を悪者にするの?みんな、私のせいにするの?」

 陽太は若菜の手に自分の手をかぶせて柔らかに握った。

「そうじゃない。でも、関係なくはなかっただろ?若菜だけじゃない。俺も悪かったんだよ。せめて手の届く範囲で、根も葉もない噂を止めなきゃいけなかった。何度も話を聞いたんだから。何度も、どう思ってるかって聞かれたんだから。」

 もう言葉もなく首だけをいやいや、と横に振る若菜に陽太は苦しい思いを噛みしめて続けて言い聞かせる。

「俺、ややこしいこととか、難しいことは苦手だし、面倒なことも嫌で。だから若菜と一緒にいるの楽しかった。若菜と一緒にいるとすげえ楽しくて、落ち込んでても、そんなのどうでも良くなるって言うかさ。元気出るんだ。」

 これは、本当の本心だ。どれだけ彼女に救われたか分からない。いろいろあっても、やっぱり若菜が好きだと思う。それが伝わるようにと彼女の目を見つめる。

「だから、楽しくないことをお前との間に持ち込みたくなかったんだ。俺には若菜が本当に円香のことを悪く言ったのか分からない。聞かなかったから。でも聞かなきゃいけなかった。喧嘩しても怒られても。それでもしも若菜がしたことなら止めなきゃいけなかった。もしも若菜がそんなことしたとしたら、それは絶対俺のせいだろ。ちゃんと話をしなきゃいけなかったのに、俺は見ないふりをずっとしてたから。だから、それは、ごめん。」

 陽太は力なく、項垂れるように頭を下げた。若菜からの返事は来ない。しかし陽太がそのまま頭を下げているとやがて震える声が降ってきた。

「な、何。急に何言ってんの。意味分かんない。どうして、謝るの。これじゃ私が悪いみたじゃない。私が何か言う前に、もう陽太くんの中で私が悪いって決まってるみたいじゃない。」

 細く高い声で責められて陽太は顔をあげ、若菜の目を覗き込んだ。

「若菜は、本当に関係ないか?本当に?」

 彼女は赤く潤んだ瞳でじっと陽太を見上げた。そのまま首を横にも縦にも振らない。訴えかけようとする瞳に込められた言葉は読み解けなかった。そのまま無言でみつめあったが、若菜は口を堅く結んだままだった。判断を陽太に委ねているのか、自分でも答えが分からないのか。


 若菜からの返事は期待できないと諦めた陽太は震える若菜の手をもう一度軽く握ってから離した。陽太の手が離れるのにつられて若菜の手も握っていた陽太の上着から滑り落ちる。笑顔を浮かべようとして失敗したみたいな表情を浮かべた若菜に、もう一度陽太は向かいあった。


「一度、離れよう。別れてやり直したい。」


 若菜は目を見開き、凍り付いた。


 何を?誰が?誰と?


 声にならない疑問が顔いっぱいに浮かんでいる。ぽかんとする若菜が、自分の言葉を理解するまで陽太はただ待った。

 彷徨うように陽太の向こう側を見ていた若菜の目が、やがてはっきりと陽太を捉えた。か細い声で問いかけられる。

「今更、別れたって八坂さんは陽太くんのところには来ないよ。見たでしょ?もう森野と付き合ってるもの。すごく、仲が良さそう、だもん。」

 どうしてか最初から最後まで陽太には分からない。若菜は円香と陽太の関係を友人だと信じることができない。それは、自分が信じられていないのだという意味でもあるのだとやっと分かった。ずっと傍にいたのに、まだ自分の心は疑われたままであることが悲しかった。自分たちは一年も付き合っていたのに、お互いを心の底では信じあっていなかったのだ。それでも、陽太には、ただ自分の思うことを正直に告げることしかできない。

「円香は関係ないよ。ただ、このままじゃ駄目だと思うんだ。俺は若菜をちゃんと受け止められてないし、若菜も俺を信じられない。」

 こうやってまた、円香を疑うように。疑心暗鬼になって、人を傷つけて、それと同じだけ自分が傷つく。若菜は、「知らない」、「分からない」、「関係ない」と、そう言いながらずっと怯えていた。彼女も本当に自分が無関係だとは思っていないはずだ。ただ、自分の意思を遥かに超えて大きくなった結果をどうしたらいいのか分からなくて、逃げ出したのだ。自分と同じように考えないことにした。その逃げ場になってしまったのが陽太で、陽太にとっての逃げ場が若菜だった。このままで、良いはずがなかった。

「やだ。勝手に終りにしないで。私は陽太くんじゃないと駄目なのに。このままがいいのに。」

 縋るように、若菜が言うのを陽太は眼を閉じて聞いた。抱きしめてあげたくなる。泣かないで良いと言ってやりたくなる。だけど、それじゃ何も変わらない。自分たちはこれを乗り越えないといけないのだ。きっとそうしなければいつまでも、心の底の滓は消えない。


 陽太が若菜を見ないでいると、やがて若菜はぽろぽろと涙を流した。それでもこみ上げる思いを一つ一つ震える声で語りかける。


「一人で黙々と練習してる陽太くんが好きだったの。苦しそうに歯食いしばって一生懸命で。カッコいいと思ったの。」

「走っている陽太くんが好きなの。私に特別甘い陽太くんが好きなの。大きい手で手を繋いでもらうのが好きなの。」

「皆の真ん中で笑ってる陽太くんが好きなの。元気っぱいで、誰にでも優しくて。」


 そこまで言って、若菜はぷっつりと黙り込んだ。そのまま俯いて手を握りこむ。

 その俯いた小さな頭とこぶしを見下ろして陽太は唇をかみしめる。若菜の気持ちが嘘だとは思わない。こうして語りかけられたら決心が揺らいでしまうほど。それでも、陽太はひき返さないと決めている。彼女が大事なら、このまま甘やかして逃げ続けさせたらいけない。彼女の言葉を受け止めて、向かい合うためには絶対に一度離れないと駄目だと思ったのだ。お互いの甘えを断ち切るために。

 黙ったままの陽太が、ゆっくりと机から腰をあげる。夜道に一人にして悪いけれど、今日はさすがに一緒には帰れないと思った。去り際の陽太に若菜が一つ問いかける。


「陽太くん。森野は、本当はなんて言ったの?」

 陽太は振り変えてじっと若菜を見た。

「森野は関係ないよ。俺が決めたんだ。人生でこんなに何かを一生懸命考えたのは初めてだった。こういうの得意じゃないけど、俺なりに本気で考えたんだ。」


 若菜の表情には諦めが浮かんで、彼女はゆるゆると床にへたりこんだ。立ち止ったままの陽太はその視線を受け止めたまま、若菜の方へ近づくことも手を差し伸べることもしなかった。


「ねえ。私のこと、もう好きじゃない?」


 陽太の返事は残酷で、若菜に次の言葉を残さなかった。彼女の大きな瞳からはただ涙が、後から後から溢れて止まらない。



「好きだよ。世界で一番。だからちゃんと別れたいんだ。」


 *****


 翌日からまた熱が上がった若菜は学校を休んだ。

 戻ってきてからも、二人が一緒に下校することはなくなり、若菜と陽太が別れたのではないかという噂はゆっくりと学内に浸透していった。

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