Da Capo-4.
風邪で休んでから、若菜の様子がいっそうおかしくなった。休み時間も、帰りもべったり陽太にくっついて離れたがらない。周りの友人にもはっきり分かるようで、少し前までは、可愛い彼女が羨ましい、だった冷やかしの内容が徐々に同情に変わってきた。
「お前、よくつきあえるな。」
「あれちょっとうざくねえ?俺だったら無理だわー。」
「頑張るなあ。」
そのたびに、陽太は今はちょっと特別なのだと誤魔化した。勘のいい奴はそれだけで察してくれる。
「ああ、そうね。」
そう言って視線で、隣のクラスを示す。円香がいる方向だ。若菜が一番恐れていること、それは陽太が円香と仲良くすることなのだ。他にも女友達はいるし、むしろ若菜のために、この半年くらい円香とは碌に口も聞かないようにしているのに、どうしても彼女が気になるらしい。相変わらず、身の潔白の証明方法が分からない陽太は、若菜の我儘に付き合えるだけ付き合っていた。それで彼女の気が晴れるのなら、構わなかった。修学旅行も、彼女の言う通りに一緒に過ごしてお揃いのお守りを買う約束をした。
修学旅行の部屋はさすがに男女別々のフロアに割り振られる。フロアをまたいで行き来する不届き者がでないように教員の厳重な監視が行われていた。それをかいくぐることがロマンだと挑戦する生徒達が次々と検挙されては廊下に長い正座の列ができて行く。級友たちの挑戦をよそに陽太は部屋で転がっていた。今日は一日自由行動で若菜と過ごし、正直疲れていた。お揃いのお守りをなんとなくいじりながら、これで機嫌が戻らなかったらお手上げだなと考える。
「おおい、陽太。呼び出しだぞー。」
声をかけられた時に、若菜が来たのかと思った。そしてそれを嬉しく思えなかった。もう今日は十分じゃないのかと思ってしまった。そう思いながらも立ちあがって出て行けば、入り口で片手を挙げているのは森野だった。
「ちょっと、いい?」
森野は指で外を示す。同室の友人の好奇の視線を感じてすぐに頷いた。若菜と陽太の関係がおかしくなっているところに、円香の恋人が顔を出すのだ。これは修羅場かと無責任にウキウキしているに違いない。
「ごめんね、急に。今日のうちに解決しておきたい問題があってさ。」
人目を避けて辿りついた非常階段に腰を下ろした森野は、ぽりぽりと頭を掻いて言う。
「何?」
姿だけはお互い散々見ているが、森野と陽太はほとんど会話を交わしたことがない。何の問題を持って来たのかと言われると、もう一つしかない気がした。それなのに森野は違う名前を出した。
「柏木のことなんだけど。」
「若菜?」
円香ではないのかと意外な名前を繰り返すと、森野はこくりと頷いた。少し、居心地が悪そうだ。
「気が付いてる?」
「は?何に?」
訳が分からない。まじまじと森野を見返すと、森野はそんな陽太の顔をまた見つめ返した。しばらく見つめ合うようになって、森野がため息をついて視線を落とす。
「何?」
何かにがっかりされたようだが、さっぱり分からない。
「うん。柏木、最近変じゃない?」
「え?」
森野の問いかけが端的過ぎて、さっきから意味のある受け答えができていない。
「小松に、言い方が悪いけど、付きまとってるでしょ。」
「あー、ああ。え?それ、なんかお前に関係あんの?」
やっぱり呼び出された理由が分からない。素直に不思議に思って陽太が聞き返すと森野は少し顔を顰めた。
「ある、といえば、ある。」
なんで。素直な疑問は、再びそのまま口に出た。
「その説明をするには、さらに前提から説明しないといけないんだけど、そっちも、気付いてない、なんてことはないよなあ。」
森野は、口もとに手を当てながら呟いた。最後の方はほとんど独り言だ。
「まあ、もったいつけてもしょうがないから話すけど、去年、柏木が八坂のこと苛めてたじゃない。」
いきなり断定されて陽太は何も反論できなかった。驚いて言葉の出ない陽太を置き去りに森野は話を進める。
「それが原因で、八坂が部活休んで、最近やっと復帰したけど、そしたらまた柏木の小松への依存度が高まったって言うか、八坂に対する視線がね。とっても危なっかしい感じがしたから、もうああいうことは止めてほしいって話をしたわけ。で、分かってくれたのかなと思ってたんだけど、結果を見ると余計に小松にべったりになっちゃってるからちょっと心配でね。あの子、不安定な子だよね。小松、その辺分かってる?」
立て板に水で話されて陽太は口を何度か開け閉めした。
「いや、ちょっと待って。色々、待って。」
「ん?」
森野は若菜が円香を苛めていたと言った。まず、そこから問題だ。そもそも、それは事実なのか。円香がそう言ったのだろうか。陽太が一つずつ質問を並べようとすると、最初の一つで「は?」とひどく苛立った声が返された。
「それ、小松が一番傍で見てたでしょ。あの根も葉もない噂と、女子の態度。お前、何見てたの。」
じっと睨まれて陽太は言葉に詰まる。円香を取り巻く環境を知らなくはなかった。若菜が円香のことを妙に敵視していることも。ただ、それを繋ぎ合わせて考えることを避けてきた。ずっと考えることを先延ばしにしていた。そこを突かれたと思った。
「お前がそうやって都合の悪いことから目を逸らし続けるから、問題が大きくなったんだと思うけど。まあ、それ全部が小松のせいとまでは言わないけどさ。でも、もう一回知らない振りするのはやめてあげなよ。あんな異常なつきまとい、助けてほしいって言ってんのと変わんないでしょ。」
「何なんだよ、本当に、急に。」
三流役者みたいな台詞しか出て来ない。
俺が何かしないといけないのか。円香のことは、悪口も言ったことは無いし、悪いことをした覚えはない。若菜のことだって、直接何かを見たわけでも、相談を持ちかけられたわけでもない。俺は彼女を疑わなかっただけだ。それは責められなければならないようなことなのか。
陽太の頭の中でだけぐるぐると言い訳が巡る。
「傍で見ていてこれくらいはっきり分かるんだから、言われるまでも無く分かっているんでしょ。そうじゃなきゃ、馬鹿だよ。」
そこで、若菜は関係がないとはっきり言えたなら良かったのだろう。しかし、陽太は反論ができなかった。それは心のどこかで若菜を疑っている証拠だ。そしてことの真偽を本人に尋ねずに来たからこそ、何も答えられないのだ。疑いは胸の内にあった。考えないようにと目をそらしてももやもやとずっと心の奥に。それでも、聞いてしまえば聞きたくないことを聞かされると思ったから、若菜にはっきり問いたださなかった。そのことを誰も知らなくても陽太自身は知っている。逃げたと言われれば、その通りだ。
しばらくの沈黙の後に森野が突き放すように重ねて言う。
「余計なお節介なんて、こっちだって焼きたくて焼いてるわけじゃないんだけどね。」
「じゃあ、止めてくれよ。」
その言葉は、ほとんど反射的に口をついて出た。森野が陽太を見る視線はまた激しい苛立ちを含んでいた。
「じゃあ、心配も迷惑もかけるなよ。」
冷たい言葉に、心配も迷惑も頼んでなんかいないと思った。しかし陽太は、それが詭弁だということも知っていた。迷惑や心配は頼まれてするものではない。相手を思いやっていたら自然としてしまうものなのだ。それは自分にだって、覚えがあることだった。見ていられない。自然とそう思うのだ。それほどに今の陽太と若菜は頼りなく、情けないということ。
陽太は深く項垂れて息をついた。
森野が並べ立てた言葉が頭の中をぐるぐると回っている。陽太なりに一生懸命、若菜を大事に接してきたつもりだ。我が儘にも答えた。決して裏切りもしなかった。でも、若菜が時折見せる不安そうな表情だけ見ない振りをした。笑っている彼女しか見ない振りをしてきた。今こうして、まるで二人に関係のない森野がしてくれるように厳しいことを言うことはなかった。面倒くさそうなことから目を逸らした。
「別れればいいのか。」
短くは無い沈黙の後で、陽太はそれだけ口に出した。何を答えれば森野が満足するのか分からなかった。
「なんで。」
絞り出した答えに、森野はまた端的な質問をよこしてくる。陽太に答えはなかった。どうしてそうすべきなのか、分かって口にしたわけではないからだ。黙っている陽太をどう思ったのか、森野は返事を待つのを止めて、すらすらと言葉を並べた。
「お前さ、別れて責任とったことにして楽になりたいだけなんじゃないの。面倒なことはもう関係ないってことにして。それで柏木のしたことは、勝手に柏木が責任取ればいいって考えてるの。どうして柏木があんなことしたのか一緒に考えないの。あの子、そのまま放り出すの。これまで間違ったことも止めてやらずに甘やかして、それで放り出すのが正しいの。」
森野の口調はちっとも怒っていなかった。一言一言、陽太を突き刺すような辛辣なことを言っているにも関わらず優しいくらい穏やかで静かだった。その柔らかい口調で彼は陽太に止めを刺した。
「小松、はじめてちゃんと喋ったけど、あれだね。お前、柏木のこと、ちゃんと考えてないんだね。」
もう用は無い。とでも言うように森野はすっと立ちあがった。
「ま、俺としては、こっちに八つ当たりされなきゃ文句は無いから別れるなら後腐れなくやってよ。」
そう言って視線を森野は携帯を開いた。一瞬明るい光に照らされて眼鏡が白く光る。そしてそれをすぐに閉じると陽太を振り返った。
「じゃあ、俺もう帰るわ。この非常階段ね、あと5分くらいで巡回の先生が来るからそろそろ退散しないと夜這いの容疑で捕まるよ。」
「え?」
陽太が慌てて立ちあがる脇をすり抜けて森野は階段を上がって行く。上は女子のフロアだ。
「おい。」
思わず呼びとめると、森野はくるっと振り返ってにやりと笑った。
「もう邪魔しないでくれる?」
そのまま今度は立ち止らずに走り去って行く。陽太は巡回の教師の足音が近づいてくるまで呆然として立ち尽くしていた。




