神様の意地悪-5.
始めはゆっくりで、その変化に気がつかなかった。特に円香はあまり友人達と一緒に行動しないので気がつくのが遅れた。段々とお昼を一緒に食べる人数が減り、移動教室の廊下で話しかけてくる同級生も減った。クラスで一番気が合った目黒加奈や数名の友人は変わらずに接してくれたが、クラスの女子生徒の半分程とは口をきかない関係になった。
とても緩やかな、仲間外れとも言い切れないくらい緩やかな、けれど断固とした拒否。そして、ひそひそと語られる悪意。
思い当たる節は、一つしかない。陽太のことだ。柏木は円香と違って友達が多そうだし、彼女が所属する吹奏楽部には女子がたくさんいる。そのうちの誰かにちょっと泣きついて円香が陽太に横恋慕しているとでも言えば、そこから噂が噂を呼んでも不思議はない。
面倒なことになった。早く飽きてくれるといいけど。
最初、円香の感想はそれだけだった。元々、あまり友人と行動を共にするのが得意な方ではないから話し相手が少しくらい減ってもすぐに困りはしない。幸いこれまで通りに付き合ってくれる友人もいる。物を盗まれたり、トイレに閉じ込められたりという実害を伴うわけでもない。円香はただ、大人しく周りがみんな飽きて、違う暇つぶしを始めるまで我慢しようと思っていた。大抵の場合、こういう反応は季節性の風邪のようなもので峠を越せばいつの間にか消えていくことを経験上知っているし、自分の忍耐強さにも自信があった。
しかし、円香の見込みは少々甘かった。気がつく前までは何ともなかったのに、一度気がつけば小声で囁かれる根も葉もない噂や、あからさまに自分を避ける級友の態度がひどく気になるようになった。休み時間に態度を変えないでいてくれる僅かな友人達と話している合間にも、誰かの語る自分の名前に神経をとがらせ続けた。一人でいるときは向けられる視線ですら煩わしく思えた。真綿で首を絞めるようにじわじわと自分を取り囲んで行く悪意に円香は知らぬ間に疲弊していった。何も変わらずに授業を受けて、部活に出る。していることは同じはずなのに、寝てもとれない気持ちの悪い疲労が背中に張り付く。背中を覆うべったりとした何かは日に日に重くなった。加奈は円香の様子を心配し、なるべく一緒に過ごしてくれようとしたがそれにも限界があるし、何より彼女を巻き込むことは円香の本意ではない。平気だからこれまで通りの付き合い方をしてくれたら十分だと虚勢を張り、結局、また円香は誰にも弱音を吐かなかった。
そんな日々の中でもグランドを走っている間だけは自分の鼓動と息遣い、火照る頬を冷やす風にだけ集中することができた。だから円香は周囲がざわついているときほど走った。教室にいることを拒むように段々と練習時間が延びて、朝もぎりぎりまで自主練をしてからホームルームに向かい、授業が全て終われば即またグランドに戻るようになる。何とか自分の心のバランスを保とうと必死だった円香は、その陸上部に固執しているようにみえる行動が柏木を更に不安がらせることなど考えもしなかった。
円香が自分を守るために走り続けたことは、結果的に事態を悪い方向へ転がした。緩やかな嫌がらせに黙って耐える円香の態度は、ただ日々の鬱屈を晴らす場所を探していた生徒にとって嗜虐心を煽るものでしかなかったようだ。噂は噂を呼びいつの間にか陽太とは関係の無い、本当にでたらめな噂までが流布しはじめた。それは、とうとう陸上部の中にまで浸透し円香から僅かな逃げ場を奪って行った。部室やグランドの人の輪に円香が加わると途端にとぎこちない雰囲気になる。もちろん円香はそのことに敏感に気がついた。
クラスの女子の様子にはひどく鈍感な様子だった陽太も、さすがに部内にまでことが及ぶと何かおかしいと気付いたらしい。円香を孤立させないように気を使って話しかけてくれる回数が増えた。変な噂信じるなよ、とチームメイトに冗談めかしながら、しかしはっきり釘をさしてくれることもあった。
庇ってくれることは嬉しい。その一方で円香は下手な期待をしてはいけないと何度も自分に言い聞かせた。陽太は友人を大事にする。相棒の円香を大事にしてくれる。それだけで、それだけだ。そうでなければ、彼はどうして今も柏木と付き合っているというのか。円香がどれほど辛い思いをした日でも、陽太が円香を置いて柏木と一緒に帰るのは、彼が柏木を付き合い始めた頃から変わらずに大事に思っているからに決まっている。彼の恋人を見る目は優しく、彼の褪せない恋心を円香に知らしめるには十分過ぎる。
やがて円香は陽太が自分を庇うことが、事態を悪化させることを恐れるようになった。何せ、元凶が円香と陽太の関係への嫉妬なのだから十分起こりえることだ。陽太が自分から離れて行くように、柏木が更に何か仕掛けてくるかもしれない。そのときに、本当に自分と柏木を天秤にかけなければならなくなったときに、陽太がどちらを取るのか、円香には見届ける勇気が無かった。怖れは円香に悪い想像を掻き立て、それから逃れるために余計に練習ばかりするようになった。無理が重なり、心身ともに疲れが抜けずにぼんやりする時間が増えていった。
疲れ過ぎて夕食に手がつけられず母親に悩みでもあるのかと真剣な顔で問われた晩に、色々なことがもう限界だと思った。
円香はとうとう自分から陽太を避け始め、やがて自然と陽太との距離が広がった。自分が離れようとすればこんなに簡単に離れられるのならば、離れないでいたのは円香の意思だったということになる。離れてほしいと必死だった柏木は正しかったのだ。チームメイト、相棒という言葉に頼って彼の近くに留まり続けようとした円香の下心に柏木はちゃんと気付いていたのだ。女の勘は馬鹿にならないとおかしくもないのに笑いがこぼれた。
円香が、これを最後に部を去ろうと思い定めていた春休みの競技会で、陽太は都の決勝まで進んだ。一年前と変わらぬ美しいフォームで、ずっと力強くそして速く。ゴール後に観客席の彼女にガッツポーズをして見せた姿は、ほれぼれするほど格好良かった。その後ろ姿を見ながら、同じグランドに立てていることを嬉しく思った。チームメイトであることを、とても誇らしく思った。
応援していたチームメイトの元へ帰ってきた陽太がハイタッチのために上げてくれた手にぱちりと手を合わせた。これが陽太と交わす最後のハイタッチかもしれない。浮かびそうになる涙を堪えて不出来な微笑みを浮かべる。
温かくて大きな手を握りしめてしまいたかった。
その晩、陽太からメールがあった。
「夏にヤケになって無茶してたとき、止めてくれてありがとう。フォーム褒められてほんとはめちゃくちゃ嬉しかった。今日の入賞は円香のおかげです。これからもよろしくな。」
きっと、このメールは柏木には内緒なのだろうと思った。いつからだったか、陽太からのメールはぷっつり途切れていたから。送信後にメールボックスから削除されているかもしれない。それでも、今日という日に自分にありがとうと言ってくれる。あの美しいフォームで勝ち取った入賞を自分のおかげと言ってくれることが嬉しくて、嬉しくて。けれど一番最初に笑顔でガッツポーズを向ける先は自分ではないことが悲しくて。昼間は堪えた涙がこぼれた。
日の光も当てなかった。水もやらなかった。それでも円香の初恋の芽はしぶとくて、まだこんなにも好きだ。だからこそ、私はあなたからもっと離れなければならない。
春休みの間にコーチに退部届を出しに行った。
学校で生徒たちにいつも接している大人は、生徒が思うより遥かに彼らの動向に敏感だ。円香を取り巻く状況にも気がついていたのだろう。彼は退部届を受け取らず、代わりに休部届を書かせた。
「皆には脚の不調と言っておく。お前も話を合わせろ。それで目が覚めたらとにかく一番に走りたいっていう日が十日続いたら、いつでも帰ってくると良い。」
学校の部活は心が折れるまで我慢して続けなければならないようなものではない。だから今の円香の状況を鑑みて無理に引きとめはしない。コーチはそう言った。それから彼はこう続けた。全ての力を注ぎこんで陸上に向かいあうなんてことは、学生の身分を失えば一握りの天才たちにしか許されない贅沢になる。今のうちにもっと楽しんでもらいたい。いつか思い出した時に悔いのないように陸上に向き合って欲しいのだ、と。
「はい。」
常になく優しく笑うコーチに円香はもう一度頭を下げて彼の元を辞した。
休み中の閑散とした校庭を歩いて帰る。校庭を囲む桜のつぼみの先が、ほんのりと赤く染まって薄赤い灯りが校庭を照らしているようだった。
花開かなかった自分の恋はちょうどこのくらいまでは育っていただろうかと思う。それでも、このくらいの薄ぼんやりした輝きで精いっぱいだった。時を待つ桜に自分の初恋を重ねて円香は目を細めた。泣きたいのか、笑いたいのか分からない。円香は半年もかけて自分が恋の枯らし方も知らないということを知った。それでも諦める以外ないのだから、今度こそ初恋を葬り去ろう。