恋の味-6.
ピアノのレッスンは建前としては18時には終わる約束になっているが、黒江がその日最後の生徒であることもあり、しばしば延長される。その日は、練習後にしばらく講師と話し込んだおかげでお決まりの洋食屋に辿りついたのは20時近かった。間食も夕食もなしで20時は厳しい。
いつもより勢い込んで店に入り、差し出されたメニューを開く前にオムハヤシを注文した。
「今日は遅かったねえ。」
加奈はいかにもお腹が空いているという風な黒江の様子を笑いながら、声をかけてくる。
「ちょっと次の曲について話しこんで。」
夢中に話している時は気にならなかった空腹はピアノ講師の家を出た途端に襲いかかってきた。おかげで集中力をすっかり切らしていた黒江は、口を滑らせた。
「曲?」
「ああ、ピアノを習ってるんだ。講師がこの辺りに引っ越してきたから毎週こっちまで通ってる。」
「へえ、知らなかった。それでいつも同じ曜日なのね。」
お冷を注ぎながら、ふうん、と頷く加奈の様子を見て、ようやく黒江は自分がピアノを習っているとを口に出したことに気がついた。うっかりしたな、とつい顔を顰めてしまう。
「何、変な顔してんの?」
すぐさま見咎められて、何と答えようか迷いながら加奈を見上げる。
「いや、普段ピアノを習っていることは人に言わないようにしてたんだが。うっかり口が滑った。」
結局、何の捻りもない本心を告げれば、加奈は首を傾げた。
「恥ずかしいことでもないでしょうに。ああ、でも男子だとやっぱりちょっと気にするもんかね。ギターとかの方がカッコいいとか?もてそうとか?」
自分で答えを探すように続けた加奈は、最後のところで呆れたように小さく吹きだした。
「いや、黒江君に限ってもてそうかどうかとか、気にしないか。」
黒江はますます渋い顔になる。もてたい、と思ってそのために躍起になったことはない。しかし、女子からの視線が全く気にならないような聖人君子でもない。誰かれ構わずもてたいわけではないが、好意を抱いた相手に好かれたいというくらいの普通の欲求はある。
「それは買いかぶりだな。」
「あら、そ?」
加奈は黒江の言い分などまるで本気にしていない様子で首をかしげると、何か言いかけたが口にする前に厨房からの声に呼ばれて言ってしまった。
そのまま、他のテーブルの間を動き回る加奈を何となしに目で追いながら黒江は自分が恐れていた反応が返ってこなかったことにほっとしていた。もしかすると、高校生にもなればピアノくらいで騒がれないのかもしれない。小学校、中学校時代のトラウマを引きずって自意識過剰になっているだけかもしれない。加奈の言う通り、ギターやバンドをやっているという方が男子高校生としては格好がつく。同じ音楽なのに理不尽な話だが、少しつっぱっている位が格好いいのが高校生というものだ。ピアノというと、どうしても両親の期待に応える良い子ちゃんのイメージが付きまとう。恐れるべきはむしろそちらだったのかもしれない。
別に、不良で売りたいわけでもないけれど。
心の中でひとりごちる。うっかりすれば次の生徒会長に推薦されかねない自分の学内の立ち位置を黒江は良く分かっている。それを誇りに思っている訳でも、嫌だと思っている訳でもない。敢えて言うならば仕方がないと思っている。けれど、やはり理想のイメージばかり作りあげられていくのは窮屈だった。
「はい、おまちどうさま。オムハヤシです。」
取りとめのないことを考えている間に注文の品がやってきた。食べ物がやってきたことで、全ての思考は一時中断される。期待通りの食欲をそそる香りを吸いこんで、いただきますと手を合わせるとそのまま休まずにスプーンを動かす。残り三分の一までご飯が減った頃にようやく人心地ついて顔を上げた。平日にも関わらず店は盛況で、加奈は引き続きくるくると良く動き回っている。週末にはバイトが来ると聞いているが平日の夜の接客は加奈と、その母だけが行っている。手際良く注文を通し、きちんと頼まれた順番通りに料理を並べて行く。慌ただしいときも殺気だったりはしないで、いつでも笑顔だ。自分にはここまで卒なくこなせないだろう、と感心しながら彼女と母の息の合った連係プレーを眺める。
まさに看板娘だな。
初めて店に寄った時の感想は今でも変わらない。加奈までが店の一部であるようにすっかりなじんでいて、彼女の明るい笑顔まで含めてこの店が出来上がっているように思えてならない。温かくて家庭的な街の洋食屋さん。何度来てもほっとする店だ。
「コーヒーお持ちしましょうか。」
あっという間に皿が空っぽになった黒江に加奈が声をかけてくる。今日は五分もかけずに食べてしまったのではないだろうか。黒江は「頼む」と頷きながら、もっとしっかり味わえば良かったと僅かに後悔した。美味しかったという記憶はもちろんあるのだけれど。
「いやあ、相変わらず良い食べっぷりだね。」
コーヒーを差し出した加奈がにやりと笑う。
「美味かった。御馳走さま。」
「なんの、なんの。黒江君すっかりお得意様だね。」
毎度ありがとうございます、と加奈は笑う。
「美味いし、居心地がいいし。」
つい通ってしまう店だと言えば、加奈は満面の笑みでもう一度ありがとうと答えた。
「17歳で使うのも変な表現だけど、懐かしい味がするんだよな。」
首をかしげつつ、黒江がメニューに目を向けると加奈は笑いを含んだ声で「ナポリタンは初恋の味がするって説があるらしいよ。」と言う。振り返れば、にまにまと笑いながら、彼女は「そう言えば、はじめて注文いただいたのナポリタンだったよねえ。」と目を細めている。
初恋という言葉に、黒江の脳裏にぱっと円香の横顔が浮かんだ。白い頬。ほっそりとして長い首。どうもあの赤いナポリタンのイメージではない。思わずうなり声を漏らした。
「ちょっと違うな。」
円香の印象は食べ物に例えるならば果物が近い。瑞々しくて、爽やかな。青リンゴのような。そんな気がした。
「ナポリタンって言ったらむしろ、目黒のイメージだな。」
家庭的で、ほっとする。飾らないけど、絶対美味しい。自分の評価に満足して一つ頷くと、加奈が非常に微妙な表情で自分を見下ろしていることに気がついた。
「ごめん、黒江君。喜んでいいのか、悲しんでいいのか、わかんないわ。」
初恋をイメージさせる食べ物と結び付けて思い出すと言えば、まるで加奈が初恋の人のように聞こえるが、直前に「ちょっと違う」と呟いていることを踏まえると、初恋というものをとっぱらって単純に「ナポリタン=加奈」と言っていると思われる。ナポリタンみたいな女子高生と言われるのはたいして嬉しいことではない。しかし単に、この店の第一印象がナポリタンだからで、店と加奈が分かちがたく結びついて記憶されているからだけの、条件反射のような単純な紐づけではないかと思えば怒る程のことでもない。
「悪い意味ではないぞ。」
とりあえず、それだけは誤解が無いようにと黒江が言い添えれば、加奈は神妙な顔で頷いた。
「黒江君が私とお店を一体に覚えてくれているというのは何となく分かった気がする。」
「あー、それはそうかも。目黒の店だと思ってるからな。」
黒江が来る度に、必ず笑顔で出迎えてくれるのは加奈なのだ。もちろん彼女の父と母の店であることは重々承知しているが、感覚的には加奈の店に来ているという思いが強い。黒江が何気なくそういうと、今度は加奈が変な顔をして耳を染めていた。何か、気まずいことでも言っただろうか。黒江が首をかしげると、加奈はようやく苦笑いになる。
「うん、さっきの買いかぶりじゃないと思う。」
話の流れと関係ない受け答えに、黒江は何の話かと問うように片眉を上げた。
「黒江君、もてるかどうかなんて気にする必要無いわ。やっぱり。ほっといてももてる。大丈夫。ピアノのことなんて気にする必要ないわ。」
「なんだ、急に話が戻ったな。ピアノのことを黙っているのは別にそういうことじゃない。勝手にイメージを作り上げられるが面倒なだけだ。」
黒江が首を振って答えると、今度は加奈が片眉を上げた。
「あー、なるほど。そっちか。王子様の王道イメージまっしぐらだもんね。」
「王子って。ありえないだろう、現代日本の高校生で。」
思ったままを言い返すと、加奈はからからと笑った。
「そりゃそーだ。大変だね、二枚目も。せめてピアノのことは胸にしまっておくよ。」
ぽんとエプロンの胸を叩いて加奈が請け負ってくれる。黒江は実に有難い申し出に「感謝する」と小さく頭を下げた。
「これで、ピアノのことを気に病んで、止めちゃったりして、せっかくのお得意様が通ってくれなくなったら困るから。」
冗談めかして加奈は笑う。
「現金だな。」
釣られて笑いながら、黒江はこれほど気の置けない女子の友人など何年ぶりだろうと思い返す。当たり前に話しかけて、当たり前に返してもらえるだけのことがこれほど自分を安堵させてくれるものだとは。こんな関係はきっと小学生の頃以来だ。この店をなんだか懐かしいと感じるのは、料理だけでなく、こういう加奈との雑談のおかげもあるのだろう。やっぱり良い店を見つけた。黒江は俄かに、この街に引っ越してくれたピアノ講師に感謝の気持ちが湧いた。
次回は手土産でも下げて行こうか。




