恋の味-4.
毎週水曜日、ピアノの練習が終ると商店街を抜けて加奈の家の洋食屋へ向かうのが黒江のお決まりのコースになるのに時間はかからなかった。どのメニューも単純に美味しかったので、では、これはどうだろうと次々に挑戦しているうちに、全メニューを制覇するまで通い続けることが当たり前の目標のようになってしまったのだ。
とはいえ、アルバイトをしていない高校生が週に一度の外食の費用を確保するのは難しい。収入は増えないのだから支出を減らすしかないと他の無駄な出費を次々と切り詰めた。
真っ先に目をつけたのは食費だ。予備校の自習室に行くと、つい途中でコンビニによって軽食を買ってしまうのを止めるために学校に居残って勉強するようになった。図書室や自習室を使ってみたが、どちらも待ち合わせ目的に集まっている生徒がざわざわと騒がしい。しかも黒江がいると知れると明らかに勉強目的ではない女子生徒が集まってきて、教科書の適当な個所を指しては「教えてほしい」とせがんでくるようになった。煩わしいことこの上ない。
黒江は居場所を教室に移した。他人の教室に入って来てまで勉強を教えてくれというのは自習室で声をかけるより余程敷居が高いようで、この作戦でやっと黒江は静かな場所を得た。予備校の授業もピアノもない日は教室に数時間居残る。
休憩がてら窓辺に立つとだいぶ暗くなった校庭に校舎の影が落ちていた。教室の灯りがぽつぽつと影に穴を開けるようについている。2年A組の教室の窓には黒江自身の影も映っていた。何気なく視線を横にずらせば、二つ隣の教室にも灯りがついたままだと分かる。2年C組にはいつものように、円香と森野が残っているのだろう。避けてはいても、その前の廊下を一度も通らないわけでもない。相変わらず、二人で静かに並んでいる様子を見かけることが何度かあった。静かで、穏やかな二人の世界は、ひどく居心地が良さそうだ。森野の席に自分が座れるなら、あの居心地の良い空間にすっぽり包まれることができるだろうか。そう夢想したこともあった。我に返ってから諦めの悪い自分が情けなくて、笑ってしまった。円香を穏やかに笑わせることができたのは、自分ではなくて森野だったことくらい分かっているのに。
黒江は窓に背を向けて、席に戻った。予習はみんな済んでいる。今日はもう帰ろう。
手早く荷物をまとめて教室を出ようとしたところで、向井に行きあった。学園祭以来、顔を会わせる機会がめっきり減っている。随分久しぶりのような気がした。
「忘れ物か。」
階段を駆け上がって来たのか、少し息の上がっている向井に声をかけると、彼はニカッと笑った。
「おお、アムール。久しぶりじゃん。こんな時間まで何してんの。」
「自習だ。もう帰る。」
もうアムールという呼び名をいちいち訂正するのも面倒くさい。だいたいこいつは聞かれたことに答えていないし。黒江が眉を顰めて短く返すと、向井は少し驚いたように目を瞬かせた。それからすぐに首を忙しなくふって何かを確認すると黒江の肩をポンと叩いた。
「ちょっと待って。すぐ戻ってくるから一緒に帰ろうぜ。ジャージ忘れちゃってさ。」
汗をかいた日にジャージを持ち帰り忘れると、あとあとひどいことになる。ひどいことになるのを恐れない強者もいるが、大抵の男子生徒は確実に持ち帰る。翌日以降、臭い臭いと母親からクラスメートにまで嫌な顔をされるのはごめんだからだ。黒江は、向井のクラスは今日、体育があったかなと思いながら返事も聞かずに走り去った向井の背中だけを見送った。
無言で置いて行くほど仲が悪いわけでもなければ、急いでもいない。廊下の壁に寄りかかり、見るともなしに廊下に零れる教室の灯りを眺めていると、言葉通りすぐに向井が戻ってきた。
「悪い、悪い。お待たせ。いやー、涼しくなったっつってもこれを一日放置はやばいわ。俺今日、超頑張っちゃったから。」
そのまま並んで歩き出しながら、向井は続ける。
「頑張ってる最中は、頑張って―、向井くーんって言ってくれる子も、明日ジャージからかぐわしい匂いでもしたら掌返したみたいに、向井君って不潔!とか、だらしない!とか言うんだぜ。ひどいよなあ。漫画の王子様じゃないんだから汗の匂いが薔薇の香りとか、あるわけないっつーの。普通に雑菌繁殖するっての。なあ?」
黙って聞き流していた黒江は、冷やかに向井を見返した。言いたいことは良く分かるが、ここで「そうだよ、雑菌は繁殖するさ」と返すのは何かが違う。
「・・・思い出して良かったな。」
「いやー、マジで。危なかったあ。駅まで行きかけて戻ってきたからね。バス代もったいないから歩いて戻ってきたからね。」
文句を言いながらも、向井はけらけら笑っている。
「それは、それは。大変だったな。」
「アムール、棒読みとかひどくない?」
「ひどくない。」
どうも、この男が相手だと口数が増える。良く喋る向井に乗せられてしまうのか、いつも気がつけば漫才じみたやり取りになってしまっているのだ。それが嫌なわけではないが、どうも調子が狂うなと久しぶりの向井節に黒江は苦笑いを浮かべた。
「そう。お前はそうやってな。俺のこと馬鹿だと思ってんだろ。」
その笑顔をどう解釈したのか、向井は「全く」と黒江の腰を蹴っ飛ばした。
「いてえな。何も言ってないだろ。」
本当は痛くなどないが、やられたらやり返すのが黒江流だ。黒江が同じように脚をあげて蹴り返そうとすると、向井はジャージを収めた丸いバッグで難なく防いだ。そのまま、はははと声を立てて笑う。
「甘いぜ。そんなぬるい蹴りで俺様を沈められるとでも思ってんのか。」
「沈めてほしければ本気を出してやらないこともないが。」
本当はそんな気はさらさらない。それは真っ直ぐ歩き続ける黒江の様子からも分かるだろう。向井も「俺、そんなMじゃないし。」などと軽口を返すだけで本気でかかってくるようなことはない。向井は学園祭の後始末の中で起きた些細な事件、例えば誰が後輩に告白して見事射とめたとか、玉砕したとか、に話を切り替えて黒江に聞かせた。
他人の恋愛模様にそれほど興味があるわけではない黒江は生返事をしながら、かろうじて話題に出た生徒達の顔を思い出そうとする。皆、学園祭以降は疎遠になっているので、係りも違った一年生のことなどはかなりあやふやだ。
「でさー、黒江はその後なんかなかったの?当日は寄ってくる女子を華麗に断りまくってたって聞いたけど?」
バス停で次のバスの時間を覗きこみながら、向井は背後に立つ黒江に声をかけた。
「何もない。だいたいそういうのが困るから実行委員会に入った方がいいと言い出したのはお前だろう。」
憮然と黒江が言い返すのを聞いて、振り返った向井は口元を歪めて「ふうん」と息を吐いた。
「そうかあ。俺はてっきりアムールは八坂さんの笑顔に一発でフォーリンラブかと思ったんだけど。」
向井は腕組みをしてちらりと黒江の顔色をうかがった。黒江はますます不機嫌そうな表情になって目を逸らす。気付かれているかもしれないとは思っていた。自分は随分と円香を目で追っていたし、何より階段から落ちた彼女を抱え上げて脇目も振らずに保健室に運んだ実績がある。あれが他の女子生徒だったらそこまでしたか自信がないのは事実だ。向井はそういうヒントを見逃す程、おっとりした性格ではない。
しかし、それだけ聡いならこちらの事情も察してほしいと黒江は胸の内で憤る。円香が今、誰と付き合っているかなんてもう学年中、下手したら学内中が知っていることだ。円香と行きも帰りも一緒にいるのは黒江ではなくて森野だ。つまり明らかに黒江の横恋慕で、そして失恋なのだ。
ぶすっとしたまま黙っていると、それが肯定の意味になると黒江も気づいていたが、返すべき言葉もみつからない。
しばらく黙っていると向井は返事を諦めたらしい。
「まあ、それでも森やんが八坂さんを手放すとは思えないけど。彼女が階段から突き落とされた日の森やんの剣幕ったらなかったもんなあ。」
ぶつぶつと独白のように呟く。初めて聞く情報に黒江は視線を向井にやった。あの日、森野は関係なかったと思っていたけれど、何かあったのだろうか。視線に気づいた向井は肩を竦めてみせた。
「知らない、か。俺が言わなきゃ誰も知らないもんね。まあ、なんていうか、森やんは彼女に夢中だったっていうね。そんな話よ。」
「それだけなら、もうほとんど誰でも知ってるだろ。」
彼女が松葉杖をついている間、毎日荷物を持って、雨の日は自分が濡れても彼女に傘を指しかけて、お前は執事か、と思う程尽くしていたのをみんな知っている。そういう意味を込めて返すと、向井は笑って頷いた。
「メロメロだもんなあ。あれだけやられたら俺でも惚れるわ。お前はタイミングが悪かったよ。俺、森やんも好きだけど、アムールもいい男だと思うし。」
さりげなく慰めてくる向井に、黒江は遠慮なく嫌そうな表情を向けてやった。そのことには誰にも触れないでほしいのだ。まして男から同情めいた慰めを貰うなんて気持ちの良いものではない。無神経な奴だと思っていると、向井は黒江の予想をさらに越えたことを言い出した。
「だからさあ、アムールのためにも今日みたいな自傷行為みたいなのは止めた方がいいと思う。」
「は?」
思わず間抜けた声が出る。今日、自分は自傷行為になど走った覚えはない。
「簡単に忘れられるもんじゃないかもしれないけど、何も二つ隣の教室に一人で居残って、なんか痛々しいっていうか。」
黒江はついに向井に向き直ってまじまじと友人の顔を覗きこんだ。
「・・お前、何言ってんだ。」
黒江の声音に彼の込めた思いを感じたらしい向井はきょとんとして顔をあげた。
「・・え?」
「なんか、勘違いしてるだろ。」
向井の言葉の断片を拾い上げて、黒江は意味の通る説明を思い当たったところで目の前が暗くなる思いがして額に手を当てた。
「別にC組の気配を探ろうと思って残ってるわけでもなければ、あらぬ想像をしながら居残っている訳でもない。それは俺の名誉のために全力で言っておくぞ。単に予備校の自習室を使うより学校の教室の方が都合がいいと気付いただけだ。」
淡々と、でもどこか抑えきれない怒気と呆れをはらんで言葉を重ねると、向井は「ええー」となんともしまらない声を上げた。
「いやいや、誰がどう見てもあれは彼女に未練があって一緒に居残ってる気分で自分の教室に居ましたって感じでしょ。まさか鈴鳥高校きってのクールビューティー黒江くんがそんなことすると思わないから、俺はもう、お前の心の傷がどれだけ深いのかと心配してだな。って、ええ?本当に違うの?お前、強がってない?別にいいんだぞ。言っちゃって。俺、これでも秘密守れる人だし、恋に傷つくのは青春の勲章なんだから。ほら、なんなら俺の胸で泣いたらって、うお!あっぶね。」
まくしたてる向井の勝手な言い分を止めさせるべく黒江が、先ほどよりだいぶ本気で鞄を振って向井の背中を狙うと向井はまたジャージの入った袋で防御した。
「何すんだよ、もう!」
地団駄を踏みそうな勢いで怒鳴る向井を、黒江はぎろりと力を入れて睨みつけた。
「お前があんまり勝手なことを言うからだろ。自業自得だ。」
本当は、向井の言葉がいくらか真実を言い当てていたから余計に腹が立ったのだ。そうやって簡単に見透かされてしまう自分のみっともなさにも、改めて人の口から語られると情けなくて仕方ない自分の行動にも。居残りを終えて帰ろうと思う時、廊下で必ずC組の電気を確認する。まだ彼女がいるかと、いたからと言って会いに行くでも、姿を見るでもない癖に、気になって何かを考えるより前に目がいってしまう。情けない。何度自分を戒めても、直すことができなかった。教室への居残りを止めて、これまで通り予備校の自習室を使えばずっと楽に目を逸らせると分かっているのに、それはそれで自分の失恋の重さに負けるようでできなかった。毎週水曜の夕飯代のためと言い訳しながら、中途半端に円香の気配に触れられる距離を離れられないでいるのだ。
自業自得どころか、本当は、八つ当たりだ。本当に情けない。
ため息を漏らしそうになって、ぎりぎりで踏みとどまる。ここで向井に弱った顔など見せれば、今度は何を言いだされるか分からない。顔を合わせないで済むようにバスの来る方角を確認する振りをすれば、ちょうど信号の向こうに駅へ向かうバスがやってきていた。
「バス来たな。」
ぽつりと呟くと、隣で向井が何事も無かったように「3分遅れだなー。」と相槌をうった。
どうやら、時に傍若無人な友人はこの話題はもう終りにしてくれるようだった。黒江はほっとした気持ちを顔に出さないように努めながらバスに乗り込み、それからは次のテストの話など当たり障りのない会話に終始した。




