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ロンド  作者: 青砥緑
本編
4/64

神様の意地悪-4.

 陽太には特別メニューが組まれた。グランドの隅でフォームを確かめながらゆっくりと日に日に作りかえられていく体の使い方を学んで行く。一人で淡々と同じ練習を繰り返す日が2カ月も続いただろうか。同じ一年生で吹奏楽部の柏木若菜がパート練習のために渡り廊下でよくトランペットを吹いていたのも、その渡り廊下が陽太が一人で練習していたグラウンドの隅に面していたのも偶然だ。

 円香がトラックを走っていると、第三コーナーを過ぎた後で一瞬だけその渡り廊下が見える。

 練習の最中に陽太の様子を見ようとして視線を振った円香は休憩中の二人が時折話しているのを見かけていた。春までの円香と陽太の関係なら、なんでもない景色。けれど、このときには円香にも分かっていた。毎日、走る姿を目で追ってしまう意味も。彼の負けを自分のレースの結果よりも重く感じてしまった意味も。彼の笑顔に頬を赤くした意味も。

 それまで恋愛に興味がなかった円香にも間違いようもなく、それは恋だった。


 円香は時折笑いあう二人を見て、妙な胸騒ぎを覚えた。なんとなく、特別な空気が流れているような気がした。けれども、自分にやましい気持ちがあるから、陽太に面と向かって「あの子は誰?」と聞けないまま時間が経った。陽太が久しぶりに参加した記録会を見学に来ていた彼女を発見して「あの子は誰?」と陽太に聞いたのは同学年の他の男子生徒たちだった。

 平気な顔で聞き耳を立てていた円香の耳に聞こえて来た陽太の返事は、悪い意味で予想通りだった。

「彼女。付き合うことになったんだ。」

 あーあ。

 そのとき円香の胸に最初に浮かんだ感想はそれだ。告白なんて考え付きもしなかった。育て方も咲かせ方も知らない円香の幼い恋。略奪するなんてことを思いつきもしない円香は、想いを胸にしまい込むことしかできなかった。誰か一人にでも知られたら同情されてしまうかもしれない。そうしたら自分はきっと弱くなって、陽太や他の部員の前で今まで通りに振舞えない。それだけは確かに思えた。

 それまで友人からは常に頼られる側だった円香は、弱みを人に見せることに慣れていなかった。一つ弱さを見せれば、自分がどんどん崩れてしまいそうに思えて怖くなった。だから、誰にも何も言わないことにした。誰にも悟られないように、今まで以上に練習に打ち込み、毎日、頭が真っ白になるまで走る。家に帰る頃には疲れきって何も考えずに眠る。どうすれば恋を諦められるのかなど知らないけれど、日も水をやらないでいれば芽生えたての恋はやがて枯れて朽ちるだろうと単純に信じていた。



 ある日、円香は昼休みに思いがけない人物からの呼び出しを受けた。

 上手く隠し通してきたつもりだけれど、知られてしまったのだろうかと内心びくびくしながら人気の少ない中庭に出向けば、柔らかく巻いた長い髪を風に遊ばせながら彼女は円香を待っていた。


「八坂さん。急にごめんね。どうしてもお話したくて。」

 そう切り出したのは陽太の彼女の柏木若菜だった。やせ形で背の高い円香がシャープな印象であるのに対して柏木は小柄で可愛らしい印象だ。守ってあげたくなるような女の子だと、惚気た陽太が言っていたことを思い出す。実際に間近で見ても彼女は脆くて甘い砂糖菓子のような少女だった。こういうタイプが好きなのだとすれば、自分では太刀打ちできない。円香とは似ても似つかない。改めて打ちひしがれている円香を真っ直ぐに見上げて彼女は一つ尋ねて来た。

「あのね。八坂さんは陽太君のこと、好き?」

 マスカラで伸ばされた長いまつげに縁取られた瞳に不安と、それからかすかな嫉妬を映して彼女はそう口にした。

 唯一のクラスメイト兼チームメイト。柏木を除いて学内で一番陽太と親しかった女子生徒は多少うぬぼれても良ければ円香だろう。陽太本人も陸上部員たちも二人を相棒だと認めているくらいだ。だからこそ、柏木にとっては円香の存在が脅威であり、疎ましくさえ思えるのかもしれない。

 円香は自分が嫉妬の対象になっているらしいと察して苦い笑いをこぼした。


 陽太を好きなのはあなたでしょう。もう付き合っているのだから、わざわざ私に何か聞く必要はないのに。嫉妬しているのはこっちの方よ。


 そんな正直な想いを口に出すことなどできない。円香は「いいお友達だよ。」と最も望まれているだろうことを答えた。

 その答えをどう捉えたのか。柏木は思い詰めた顔で続けた。

「私、彼が本当に好きなの。それでずっと一緒にいたいと思ってるの。」

 会話がキャッチボールになっていない。円香の答えを聞いていたのかどうかも怪しい。そう思いながら、円香はほんの少し柏木の言葉に安堵した。

 本気で付き合ってくれているなら良かった。陽太が遊ばれているんだったら可哀相だから。

 けれど、それより遥かに強く不快感がこみ上げる。今のそれは彼に言えばいい言葉で、彼氏の友人で、柏木とはかろうじて面識がある程度の円香を呼び出してまで宣言しなければならないことではない。これまで感じたことの無い様な攻撃的な気持ちになることに、円香は自分でも驚いた。じくじくと胸を痛めながら湧いてくる怒りが治まらない。円香の密かな恋心を知っていての今の言葉だというのなら、はっきりと諦めてくれと言われた方がいっそせいせいする。自分の気持ちだけ押し付けて、察しろと言うつもりなのだろうか。察して、黙って身を引けと。そんなのひどいと、癇癪でも起こしたように目の前の柏木を責めたくなって強く口を引き結んだ。

 なんとか平静を保とうとしている円香に向かって柏木は一歩近づいた。近づいた分だけ首を逸らされ、二人の身長差が更に強調される。

「陸上部、辞めてほしいの。」

 予想していたものとは外れたお願いをされて円香は咄嗟に目を少し見開く以上の反応ができなかった。

「え?」

 やや間が空いてから問い返すと、彼女は思い詰めた表情で同じことを繰り返した。

「陽太君の傍から離れてほしいの。」

「いや、私は別に陽太と付き合おうとか、そういうことのために部活をしている訳じゃないよ。」

 どう取り繕おうかと考えるまでもなく、当たり前のことを返しても柏木には円香の言葉は届かないようだった。

「でも。教室でも部活でも。八坂さん、ずっと傍にいるじゃない。」

「仕方ないじゃない。同じクラスだし、同じ部活なんだから。」

 確かに二人は良く話すが、仲の良い級友というレベルを超えてひっついてはいないはずだ。特に、陽太が柏木と付き合い始めてからは度を越さないように注意しているのだから間違いない。円香は自信を持って答えたが、柏木は大きな瞳にうっすら涙をためて円香を睨み上げて来た。

「自分の彼氏の近くにいつも同じ女の子がいることがどんなに不安か、あなたに分からないでしょう。」

 強い口調で言い寄られて、かえって円香の気持ちは落ち着いた。彼女はきっと今、恋に夢中で周りなど見えていないに違いない。だからこんな馬鹿らしいこと言うのだ。自分がどれほど陽太に想われているか分かっていないとは可哀相なことだ。時折、惚気話をするようになった陽太の幸せそうな顔を見せてやりたい。思った端から、いや、絶対に見せたくないとも思った。

 自分が喉から手が出るほど欲しいものを、もう既に持っている癖にまだ足りないという柏木が憎らしく思えて、円香は冷ややかな瞳で小さな少女を見下ろした。


 そんなもの、分からないよ。あなたが陽太の気持ちを信じられないのも。私にあなたの気持ちを理解させようとしている意味も。これっぽっちも分からない。


 気持ちを口に出しはしないが、冷たい視線に同情も共感も得られていないことは伝わったようだった。柏木はむきになったように続ける。高く、早くなった声と口調に彼女の苛立ちが滲んでいた。

「走るだけなら、部活じゃなくてもいいじゃない。」

 確かに、走るだけならどこでも走れる。フォームを指導してもらわなくても、大会に出られなくてもいいのなら。そして円香はよくても地区大会の入賞どまりの成績しか望めない選手だから、大会などでなくても一緒だ。そう言われてしまえば、確かにその通りなのかもしれない。けれど、陽太に相棒と言ってもらえる時間は円香にとってかけがえのない大切なものだ。恋を諦めて、相棒に甘んじることに決めたのに、それさえ許さないというつもりなのか。どうしてそこまで彼女の思う通りにしてやらなければならないのだろう。円香は黙って柏木を見下ろした。何か言い返したいと思うけれど、言葉が出て来ない。

「とにかく、彼から離れて。それから、できればもう陽太って呼び捨てにしないで。」

 柏木は重ねて涙目で懇願して、円香が頷かないのを見ると睨みつけた。それでも円香が無言を貫くと彼女はとうとう踵を返して離れていった。長い髪を揺らしながら走り去る後ろ姿は悲劇のヒロインにぴったりだ。


 ひどく一方的なお願いを押しつけられて、静かな中庭に取り残された円香はため息を漏らした。

 もし、自分が陽太のことなど何とも思っていなければ馬鹿なことを言うなと、もっとはっきり言い返せただろう。胸の中に、後ろめたい想いがあるから何も言うことができなかった。まだ諦めきれない、離れたくないという想いがあるから柏木の言葉を笑い飛ばせなかった。

 すっかり柏木の姿が視界から消えてから、円香は空を仰いで小さく呟いた。


「陽太の馬鹿野郎。恋人を不安にさせてんじゃないっつーの。」


 折角、忘れようとしているのにこんな仕打ち。いい迷惑だ。本当に、迷惑。

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