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ロンド  作者: 青砥緑
本編
37/64

目に映る世界-7.

 学園祭はいよいよ明日に迫った。

 料理部で販売するカップケーキのうち初日分を全て焼き終えた頃にはすっかり外は暗くなっていた。加奈は自分の全身から漂うケーキの香りに既に胸やけしそうになりながら、昇降口に向かった。薄暗い下駄箱にはまだいくつも靴が残り、居残っている生徒も多いことが分かる。今日ばかりは完全下校時刻を過ぎても教師も見逃してくれているようだ。


「加奈ちゃーん、駅まで一緒に行こう。」

 最後まで一緒に片付けに残っていた部長が三年の昇降口を抜けて声をかけてきた。いつも元気いっぱいな部長は、相変わらず疲れた様子もなくにこにこしている。

「遅くなっちゃいましたね。」

「ねー。でも、こういうときだけは遅くまで学校にいても見逃してもらえるからちょっと楽しいよね。」

 二人して一度立ち止まってまばらに電気のついた校舎を見上げる。まだ教室に残っている生徒達のざわめきが窓からこぼれてくる。なんでも前夜祭が最高に楽しいといったのは誰だっただろう。今まさに、校舎には祭りの前の爆発しそうな期待が充満している。触れているだけで、自分がそれに関わっていると思うだけで、うきうきしてくる。

「今年で、最後かあ。」

 ぽつりと部長が呟いた。その言葉にはただうきうきと明日を待つ加奈とは違う寂寥があった。思わず横目に部長を見れば、目を細めて微笑みながら慈しむように校舎を眺めている。その表情を見ただけでも、きっと彼女は学校が好きで、部活も大好きなのだろうとわかる。しかし、先ほどの言葉の重みには加奈が知らない去年や一昨年の思い出もあるのかもしれないと感じた。何と言って声をかけたらいいのか。加奈は改めて校舎を見上げて息を吸い込む。

  まだ残暑の残る夜風に乗った笑い声、ペンキの匂い、調子の外れたギターの音。それから、自分たちが身に纏っている甘いケーキの香り。そんな小さなかけらを集めて輝かせる高揚感は、明日の朝、日の光を浴びれば消えてしまう夜だけの魔法だ。

 いくら考えても良い言葉なんて思いつかなくて、いつもの部長が喜びそうな言葉を選んだ。

「明日、いっぱい売れるといいですね。」

「うん。そうだね。」

 そんな加奈に力強く返事をすると、部長は思い切り拳を振り上げた。

「がんばろー!目指せ完売!」

 先ほどまでの切ない表情をまるっと消して叫ぶだけ叫べば、後はさっさと振り返って「さあ、帰ろう」と意気揚々と歩き出す。余韻も何もない。


 この人も、森野と違う意味で良く分からないなあ。


 加奈は苦笑いしながら部長の背を追いかけた。加奈よりも随分小さな背中だけれど溢れるパワーには圧倒される。近くにいるだけでパワーを貰える人。皆に好かれてしまう不思議な人。来年、また学園祭を迎えれば、自分はこの人のことを絶対に思い出すだろう。彼女が、珍しく見せた静かな表情の意味をもう一度探ろうとするだろう。来年になれば、分かるだろうか。分かったら、自分も叫んでしまったりするだろうか。加奈はその日まで先ほど感じたあの高揚と先輩の横顔を絶対忘れないようにしようと心に刻みつけた。



 駅に向かうバスはちょうど行ってしまったところで、二人はバス停のベンチに並んで腰かけた。

「加奈ちゃん、最近なんかあった?」

 部長は座るなり、加奈を見上げて聞いてきた。

「え?」

 心当たりがなくて部長を見返したけれど、部長の方は確信でもあるように、うろたえずに加奈の返事を待っている。

「夏休み明けから急に部活に良く来るようになったし、何かちょっと前と雰囲気違うかなって。」

 つい先日、森野と話したことを思い出して加奈は思わず「ああ」と声を漏らした。そして、もともと特別親しくしていたわけではないのに、この人も周りの人のことを良く見ているなと驚いた。

「何かあったでしょ?」

 何か思いあった風の加奈を見て、ほらねと言いたげに部長は言葉を重ねてくる。隠すほどのことでもない。加奈は頷いた。

「一年のときから仲のいい子に彼氏ができて、ちょっと暇になりました。」

 冗談めかして言う。部長は「あはは」と声を上げて笑った。

「なるほどねー、それで部活ね。有り得る、有り得る。そんで自分にも恋人ができるとまた来なくなるのよ。」

 よくあるわあ、と言ってからから笑う部長はそんなひどく私的な理由で出入りしていく部員のことを悪く思ってはいないようだった。

「こなくなる方は、私は当面大丈夫そうですけど。」

「あら、じゃあやっぱり次期部長は加奈ちゃんかしらね。」

「それとこれとは。」

 別に引き受けてもいいのだが、少しだけ面倒くさい気もしていて加奈はまだ腹を括れていなかった。そんな煮え切らない加奈の返事を聞いても部長は「まあまあ」などと言うだけで失望するようでも、怒るようでもない。

「それはそれとして、お友達に彼氏ができただけ?」

「え?」

 もう一度聞き返すと、また部長は自信ありげな表情で加奈を見ている。彼女が自分で答えを見つけてくるのを確信しているように返事を待っているようだった。それでも加奈は何を求められているのかさえ分からなくて「えーと」くらいしか出て来ない。そんな彼女に部長は答えを示してくれることにしたらしい。

「加奈ちゃん、楽しそうになったと思う。明るくなった。」

 その答えは意外で、加奈は首をかしげる。明るくなったというのは、もともと明るくなかった人に使う表現で、元から明るい加奈に向けるには不適当な表現のような気がした。

「私、暗かったですか?」

 問い返すと、部長はまた「あはは」と笑った。

「暗くはなかったね。でも、そういう単純なもんじゃないのよ。加奈ちゃん、一年生の時も、二年生になってからもどっかねえ、確かに明るく振る舞ってるんだけど、無理してるっていうのかなあ。明るくしようとして明るくしてるっていうのかなあ。ちょっと辛そうに思ってたんだよね。本当にちょっとしたことなんだけど。でも最近ね、本当に楽しそうな気がするから、何かあったかなって。」

 加奈には無理をしていたつもりはないから、部長の言葉には何も心当たりなんてないはずなのに、なぜかドキッとした。

「加奈ちゃん、真面目だからさ。ちょっと心配だったよ。」

 部長はにこにこしながら加奈の顔を覗きこむ。真面目すぎて心配なのは、円香や、そういう人のことで、加奈はそういう括りで扱われたことは無い。意外なことばかり言われて加奈はただまじまじと部長を見つめ返した。

「私、心配になるくらい真面目ですか?」

 心配はする側であっても、される側ではないつもりだったのだけど。そんな加奈の心の声が聞こえるみたいに部長は笑った。

「そうだよう。私らみたいなちゃらんぽらんな人にしてみたら、きちんとしてる人はみんな真面目だし、人の心配ばっかりしてる人なんて、傍で見てたら心配でしょうがないって。」

 そこで急に背筋を伸ばした部長は加奈を振り返り笑顔を引っ込めた。

「去年の一年生のいじめ、相当な噂になってたから、さすがに私の耳にも入りました。」

 そこまで言われたら加奈にも話が見えてくる。

「飛び込んで仲裁するほど、真面目じゃないから。でも、せめて部活くらいねえ、加奈ちゃんの避難場所になったらと今の三年の皆で言ってたんだけど、あんまり来てくれなかったね。自分たちで乗り越えちゃったね。今年、ていうか最近、肩の力が抜けて来た加奈ちゃん見て、母さんちょっと安心しちゃったよ。」

 部長があの悪意の渦に巻き込まれていた自分を案じてくれていたのかとぽかんとして彼女の話を聞いていると、部長は「おーい」と加奈の目の前で手を振った。

「あ、いや。心配してもらってるの気がついてなくて。びっくり、しました。ありがとうございます。」

 まだ思考が追い付かないままにぺこりと頭を下げれば、部長は「だから真面目だっつーの。いいことだけどさー。」などとぶつぶつ言っている。


 しかし、加奈はその言葉を殆ど聞いていなかった。去年、クラスにも手を貸してくれる友人は少しだけいたけれど、結局は自分一人で円香を守るのだと思っていた。自分がしっかりしなければと確かに思い詰めていたと思う。でも、遠くから、しっかりと森野も、部長も、先輩たちも見守っていてくれた。助けを求めたら、自分から手を伸ばしたら、その手は握り返されたのかもしれない。そうしたら、一人の力ではできなかったこともできたのかもしれない。それがようやく理解できてくると、何とも言えない安堵と、それからじんわりとした後悔を感じた。

「私、馬鹿だなあ。」

「なんで?」

 小さな呟きを聞き逃さずに部長が合いの手のように良いタイミングで問いかけてくる。

「ちゃんと部長や先輩達のことに気がついてたら、八坂さんのこと、もっとみんなで守れるように上手くやれたかもしれないのに自分で抱え込もうとして結局彼女を守りきれなかったんだなって。」

 ため息をつきながらそう言うと、加奈よりもっと盛大なため息を横でこぼされた。

「加奈ちゃんは本当に馬鹿だねえ。」

 顔を向けると予想外に怒ったような真面目な表情をした部長が加奈を見つめていた。

「そうやって自分の悪いところばっかり探してたら元気でないでしょ。いいことだけ考えればいいじゃん。できなかったことじゃなくて、できたことを数えたらいいんだよ。」

 もどかしそうに両手を振りまわして力説する姿に、加奈の口から思わずぽろりと言葉が漏れる。

「超前向き」

 それを聞きつけた部長は胸を張って笑った。

「他にどっち向いて生きていくのさ。前向き結構。前のめり上等。ねえ?」

 得意気に言いきる部長に思わず笑ってしまう。この人と話していると自分が心配になると言われたことにも納得がいってしまう。彼女に比べたら自分の未熟なこと。来年までにこんな風に後輩を励ませるようになれるだろうか。

「ちょっと部長見直しました。先輩ってやっぱりすごい。」

 笑いをおさめた加奈が言うと部長はぷっと笑ってからにやりとして見せた。

「憧れちゃったんならいいこと教えてあげようか?部長、やってみるといいよ。」

「え?そこに繋がるの?」

 冗談交じりに、ええーと声を上げると部長は大きく頷いた。

「やることが変わると見えるもの、変わると思うよ。」

 百人の部員を束ねる。しかも好き放題に出入りする自由な気風の部で、それでもいつでも楽しい雰囲気の料理部。それを作って行く側になるのだと想像する。今、自分が思っているのとはまるで違う次元の悩みや苦労がありそうだ。部長は見えないところでどんなことをしていたんだろうかと加奈が聞いてみようとしたところで、部長が一言、断言した。


「楽しいよ。」


 加奈の頭にあった質問は、消し飛んだ。

 いつも面倒くさい、できない、なんて言いながら笑ってばかりの部長は、きっと自分とは少し物の捉え方が違う。でも、ごちゃごちゃと考える前にただ楽しいと言いきれることはとても格好いいと思った。どんな苦労があるにせよ、それをする価値があるのだろう。加奈は、部長と同じように感じてみたいと思った。もっと大きな自分になりたかった。部長はお調子者かもしれないけど、でも優しくて逞しくて賢い。同じように一年、部長を務めたらそうなれるだろうか。加奈がどこからか湧き上がる力を感じていると、部長はもう一つ言い添えてへらりと笑った。

「それにね、なんだかんだいって、他に来年適任者いないわ。観念して。」

 ずっこける加奈をほったらかして、あ、バス来た―、なんて子供みたいに大きな声で言って部長は立ち上がる。その背中を何ともいえない気持ちで見上げながら、加奈は一つため息をついた。


 結局、この人は計り知れないけど。やっぱり嫌いになれないし、この人に頼まれることならやってやろうと思っちゃうんだよなあ。諦めるか。


 来年、学園祭の前日になったら思い出さないといけないことがたくさんになった。加奈は普段はつけない日記を今日の分だけ書こうかなんて考える。今日、部長と話したことを全部思い出したい。来年の自分がどう思うかなんだかとても楽しみになってきた。



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