目に映る世界-6.
加奈の心の隙間が埋まったからといって、急にまた部活から手を引くわけにはいかない。加奈を新部長にしたい料理部員達の姿勢は変わらず、学園祭の準備も部内のまとめから、実行委員との話し合いまでどっぷりと巻き込まれていた。でも、意識していなかったとはいえ円香を避けるために部活に集中していたのとは違う今となっては、部活に集中しても何の後ろめたさも無い。思えば自分は料理が好きで料理部に入ったのだし、お調子者の部長も、事なかれ主義の副部長も一年生の頃から好きだった。それに何かをまとめたりするのは元々得意なのだ。高校二年生にして年中肝っ玉母さんと呼ばれるのはそれなりの実績があってのことだ。要するに、向いている。今はただ単純に楽しい。
その日加奈は「二年生同士だし」という極めて説得力の薄い理由で学園祭実行委員に提出すべき書類を任されていた。しかし、昼休みに教室に向井を訪ねたら最近は休み時間はずっと会議室だと教えられた。午後の授業の直前にくれば戻ってくるとは思うけどギリギリになるんじゃないかという生徒に礼を言って、ひとまず向井の教室を後にする。こうなると二年生同士だから教室が近いということもなくなり、部長の代理を加奈が務める理由はまるでない。かといって今更部長に書類を突き返すのも、馬鹿げている。別に部長が届けなければならないという規則があるでもなし、ひとっ走り行ってこようと昼休みの残り時間を見ながら早足で教務棟へ向かった。
ノックすると「はーい」軽い声で応答がある。
「失礼します。料理部です。」
入ってみれば、部屋には向井と黒江しかいなかった。机の上には他の部から既に提出されたと思しき書類が並んでいる。
「衛生検査の書類の提出に来ました。」
「はいはい。ありがとう。」
向井は書類を受け取ると、さっと目を通して「確かに受け取りました」と頷いた。そのまま受取証を記入して返してくれる。
「部長さんに渡しておいて。」
「はーい。」
そのまま、立ち去ろうと思っていた加奈だったが振り返る前に向井に呼びとめられた。
「ねえねえ、目黒さん。ちょっといいかな。」
「はい?」
向井の随分明るい茶色の髪が背後の窓から入る光を受けてきらっと光る。
「おたくの部長さん、どっか悪いの?」
「え?いや、元気だった、けど。」
少なくとも、昨日時点ではいつも通り能天気な様子でラッピングが上達したと小躍りしていた記憶がある。なんだか部長の無責任を責められているようで思わずしどろもどろになった。
「そう。ならいいや。」
責めるかと思いきや、向井はにこにこと頷く。
「本当はこういうのは部長が来た方がいいの?」
問いかければ、向井は首を横に振った。
「別に構わないよ。あの人が来たくないというなら仕方ないしね。」
「お前に会いたくないんじゃないか?」
横から黒江が口を挟んできた。不満そうになんでだと問い返す向井に、受付横で物販するときにミニスカート履かせろとか言うから、と淡々と言い返す。部屋を出るタイミングを見失った加奈は、あんなの冗談に決まっていると言い返す向井と、そもそもお前が、と何やら違う件まで持ち出して説教を始めた黒江の間で発言者を追って首を左右に振り続けることになった。
二人の仲がいいのは分かったけど、いつ出て行けばいいんだろ。
昼休みが終わってしまう、と加奈が時計を見上げると二人もつられた様に顔を上げた。
「お、そろそろ戻るか。」
二人はがたがたと立ちあがって散らばったままの書類を手際よくまとめて行く。加奈の近くまできたところで黒江が声をかけてきた。
「目黒、その、八坂はその後大丈夫か?」
その後とは、松葉杖が取れた後のことだろうか。加奈はにっこり笑って頷いた。
「元気だよ。変な嫌がらせもないみたいだし。」
黒江はその言葉にほっと息をついた。円香が心配してくれているようだと言っていたのを思い出す。本当に気にかけていてくれたらしい。一見、冷たそうだけどいい人なんだなと加奈は笑顔をおまけしておいた。盛大に笑いかけられた黒江は、一瞬キョトンとしてから慌てて目を逸らす。笑いかけられて目を逸らすなんて失礼な話だけれど、焦ったような様子がなんだか可愛らしくてどうにも腹は立たなかった。
「そうだ。アムール、漢文のノート貸してよ。明日までに写して返すから。」
荷物をまとめ終わった向井が部屋を出ようとしながら声をかけてくる。鍵をかけていくらしく指先で鍵をくるくると回している。
「金輪際その呼び名を使わないなら貸してやらないこともない。」
先ほどの焦った様子など微塵も感じさせない尊大な態度で言い返しながら黒江も加奈を促して会議室を出た。向井の言葉に加奈は首をかしげる。
「アムール?モナムール?」
アムールはフランス語で愛。モナムールは我が愛という意味だったはず。思いつくままに口に出して黒江と向井を交互に見ると、二人は一瞬虚をつかれたような顔をした。その後、黒江は盛大に顔をしかめて、向井は爆笑しだした。
「うははは。最高。目黒さん。お友達になろう。」
涙を浮かべた向井に大きな手を差し出され、加奈はそれをきょとんと見下ろした。どうして今の流れでお友達になることになるのかわからない。戸惑いをそのまま表情に出して向井をまじまじと見返す。
「え?」
「嫌だそうだ。遠慮しておけ、向井。」
向井が答える前に間髪いれずに黒江が割って入った。体もちょうど向井と加奈の間において文字通り会話に割り込んでいる。しかし、意訳が過ぎる。折角立候補してくれた同級生にあなたとお友達になりたくないと返すほど加奈は捻くれていないし、切実に断らなければならないほど向井の性格は破綻しているわけでもない。
「いや別にそんなことはないけども。」
しかし、曖昧な加奈の言葉の半分程を聞いて向井は先を勝手に都合よく補ったらしい。
「いいってさ。聞いたろ、アムール。いや今日からはお前はモナムールだ。聞いたか、モナムール。」
黒江はにやにや笑いの向井を無視して加奈を見下ろした。
「目黒、お前意味が分かっていて言ったのか?」
「え?アムール、ジュテーム、モナムール。愛の言葉よね?」
おそらく一番有名なジュテームの意味は愛している、だ。加奈が呪文でも唱えるようにすらすらと答えると黒江は口元を歪めて苦々しげに言葉を探しあぐねるように僅かに黙った。
きっとアムールは向井と黒江の間の秘密の渾名であったに違いない。まずいことを聞かれてどう言い逃れしようか困っているようだ。確かに級友からの呼びかけが愛というのは中々に刺激的だ。
しかし、向井と黒江の関係が、いわゆる友人の枠を超えていたとしても加奈はどちらに対する態度も変えるつもりはなかったし、吹聴する気もない。加奈は同性愛について非常にオープンな考え方の持ち主なのだ。しかもこの二人の組み合わせならば見目も良く心理的抵抗はなおさら少ない。
道理で黒江の彼女の噂を聞かないわけだ。
一人で納得した加奈は、にこりと笑って請け負った。
「大丈夫。他言しないし、心配いらないわ。」
幸い教務棟の廊下は人気がなく、他の生徒に聞かれた心配も無さそうだ。しかし加奈の笑顔に黒江はますますぶすくれた表情になる。
「目黒。なんか誤解しているだろう。しかも、非常に不本意な。」
一方、笑いの止まらないらしい向井は、もはや歩くのも辛そうになっている。
「目黒さん、マジ最高。いっそ付き合おう。」
「「なんでそうなる。」の。」
あまりの飛躍に黒江と加奈は思わずはもった。一斉につっこまれた向井は笑いを引っ込めて目を丸くしている。
「なんで、そこで息ぴったりなの。」
「誰でもつっこむとこだろ。」
黒江はあきれ顔で向井に向かってため息をついた。それから実に不愉快そうに加奈に向き直る。
「目黒。お前は一刻も早くその恐ろしい誤解を止めろ。アムールは別にフランス語だけの単語じゃない。他に思い当たるものがあるだろう。」
はて。誤解ということは二人はそういう関係ではないのか。意外と似合いだと思ったのにな、と少し残念に思いながら加奈は言われた通りアムールという言葉を他にどこで聞いたかと考えてみる。
次に加奈が何を言うかとそれぞれ全く違う期待を込めて黒江と向井が待っていると加奈の眉間に段々力が籠ってくる。
「アムール。アムール。あ。」
そして、ぱっと顔を上げた。
「虎!」
その言葉に向井はまた笑いだし、黒江は何とも言えない表情になった。アムール虎という種類の虎は実在する。完全に間違っているわけではない。
「方向性は間違ってないぞ。目黒。アムール虎はどこの虎だ。」
頭痛を耐えるように額に指を添えながら黒江が聞いてくる。
「え、知らない。動物園かなんかで見たけどどこから来たかはさっぱり。」
素直に答えると、黒江は深く息をついた。不本意な渾名の理由を自分で説明するのは気が進まないが加奈に向井との関係を誤解されたままにしておくよりはずっと良い。
「ロシアだ。ロシアにもアムールという言葉がある。」
そこまで言ってもらって、加奈はようやく納得のいく説明に思い当った。
「あああ。分かった。アムール川だ。そうか、黒江龍一君だもんね。」
ユーラシア大陸北部を流れる大河の名前をアムール川、中国では黒竜江という。黒江龍一。ちょっと文字を入れ替えれば黒龍江になる。なるほど。
黒江は満足げに頷いた。
「そういうことだ。こいつらが勝手に言い出した渾名で俺は認めた覚えはない。分かったらその単語ごとお前の想像した諸々も忘れ去れ。」
加奈は少し迷った。一度聞いてしまうとアムールという渾名は実に良くできている。忘れろと言われても、きっと忘れられないだろう。さすがに自分が使うことはないだろうが。
「善処します。」
加奈が正直に答えると、黒江は「お前はどこの政治家だ。」と疲れた様子で嘆いた。そのやりとりは更に向井を喜ばせた。加奈は思ったよりずっと気安い二人の様子に、驚きながらも微笑ましい様な気持ちになった。
そうだよね、向井君も、黒江君も普通の高校生なんだよね。王子様なんて実在するわけないか。
三人はそのまま軽口を聞きながら教室へ向かう。教務棟から一般教室のある棟への渡り廊下に近づくと、生徒の数が増えてきた。その辺りで黒江と向井は目顔で何か話しあった。何かと思いながらも黙って二人の横を歩いていた加奈を向井が振り返ると小声で思わぬことを告げた。
「ちょっと先に挨拶しておくね。ここらでお別れということで。」
「へ?」
話が分からない加奈が何かと問えば、向井は少し言いにくそうに続けた。
「保険、かな。バカみたいなことして、恥ずかしいんだけど。ちょうっと熱烈なファンがついちゃった、みたいな?」
遠回しなもの言いだったけれど、加奈にはピンとくるものがあった。去年の陽太と円香の件のように不意に顕在化する女子生徒の嫉妬を指しているのだろう。馬鹿みたいと向井は言ったが、それを心配したくなるだろう程度には向井と黒江は人気がある。なるほど、と思ってからもう一度首を傾げた。
「まあ、分からないではないけど別に私と数十メートル並んでいるくらい平気なんじゃない?どっかの美少女ならいざ知らず。」
自意識過剰とは言わないが、そこまで気をつけていたら学校生活が送りにくいこと、この上なさそうだ。自分は男子生徒と話していても恋仲だと疑われないタイプだと言うのは重々承知している。加奈の言葉に、今度は黒江が答えた。
「気をつけるに越したことないから。俺たちが近くにいるだけで女の子に迷惑かけたくないし。」
そこでちょうど渡り廊下を抜けた。黒江と向井は「じゃあ」と加奈に声をかけて廊下を折れた。三人の教室は同じ階の並びにある。当然同じ目の前の階段を一緒に上ると思っていた加奈は咄嗟に反応できずに立ち止まる。明らかに遠回りのルートを選んだ二人は既に駆けだしていた。一般教室棟の廊下は昼休みの終りに教室に戻る生徒でごった返している。ここで、三人が一緒にいるところを他の生徒に見せないためにわざわざ遠回りしてくれたのだろう。
加奈は、人にぶつかりそうになって再び歩き出しながら驚きすぎて回転の止まりそうな頭で考えた。黒江や向井は自分を普通の女子と同じに扱ってくれた。それだけのことが、どうしてこんなに嬉しいんだろう。彼らから見たら、こんな自分でも女の子で、お昼休みのやりとりをみたら、学校の王子様達も普通の男の子だった。それだけのことが嬉しい。これまで、自分をお母さんとか、女子じゃないとか、冗談でも本気でも言われる度にじくじく痛んだ見えない傷がほんの少し和らいだように思った。




