目に映る世界-4.
加奈にとって円香を案じることが毎日の生活の一部になっていた時期がある。つい最近まで、殆ど無意識に円香の周りに注意を向けていた。誰かに嫌味を言われていないか。意地悪をされていないか。しかし森野と円香が一緒に登下校するようになってから、その心配はだいぶ小さくなり、彼らが正式に付き合い始めてからは、その心配はほとんど無用になった。
それは嬉しいことだ。加奈自身、歓迎している。ところが身についた習慣を急に変えることは難しくて、毎日ふとした瞬間に円香に視線をやってしまう。その度に仲良く何か話している森野と円香をみつけて、もうこんな風にこっそり様子を窺う必要はないのだったと思い出す。なんだか急に空き時間が増えてしまったようで加奈はその時間を持て余し気味だった。
視線を逸らしてぐるりと教室を見回したり、窓の外を見たり。なんだか所在ない。二人の邪魔をしたくないと思えば声をかけることを躊躇ってしまって、どうにもうまい居場所がみつからなかった。
今の自分の状況に良く似た話を何度も聞いたことがある。親しい友人に恋人ができてしまうと、自分は暇になると友人達が口々にぼやいていた。今、まさにその状態だ。一番の話し相手の一番が自分ではなくなっているのだから当たり前。友人達は、自分も恋人を作れば問題は解決すると、合コンにでかけたり友人の友人を紹介してもらったりと出会い作りに勤しんでいたようだけれど、加奈はそこまでする気にならなかった。どうしても恋人が欲しいと思っていないせいもある。それに同年代の男子生徒からはいつもお母さん扱いされることへの僅かなコンプレックスもあった。何度か誘われて他校の男子生徒とカラオケなどに行ったものの、いつも気がついたらお皿を片付けたり、周りの世話を焼いたりすることに夢中になってしまっていて、女の子というよりもお母さん扱いをうけてしまう。見た目も肝っ玉母さんみたいだなどと言われて、頼れるなどと叫ばれたらどうしようもない。苦笑いしてその役回りを引き受けるしかない。翌日以降にどの男子生徒から連絡が来たかなどと笑いあう友人に囲まれながら、結局自分は同世代の男性に恋愛対象に見てもらえないのだと再確認するだけの合コンなど、もうごめんだった。笑っているからと言って傷つかないわけではない。
時間が余るならバイトの時間を増やそうか。それとも部活にもうちょっと積極的に顔を出そうか。考えるのはそんなことくらいだ。ちょうど学園祭も近い。加奈が籍を置いている料理部はカップケーキの販売をすることになっている。加奈は試作品づくりやラッピング用品の買い出しにはいくらでも手がいるだろうと、頻繁に部室に顔を出すようになった。
「加奈様!救世主様!」
元々半分は幽霊部員という部活なので、毎回参加するだけで部長には感謝される。まして料理人である父親仕込みの加奈の料理の腕は確かだ。試作品のケーキの出来栄えも良い。
「助かるわあ。これなら絶対OKでるよ。」
部長以下、3年生の部員たちはトレーにいくつかのケーキを並べて満足そうに頷いている。
「OKってなんですか?」
下級生達の疑問に部長は大まじめな顔で答えた。
「学園祭実行委員のチェック。今年は受付のすぐ脇で物販やらせてもらえる時間があるんだけど、そこに出すものは見栄えがよくないと駄目なんだって。だから事前にチェックして、不合格だったら、その時間と場所の枠を没収されちゃうのよ。うちの分は今日試作品を提出するんだけど、これなら絶対いける。向井君のハートもがっちりキャッチよ。」
最後はガッツポーズで勇ましく部長が宣言する。脇で聞いていた同じ3年の生徒が「ほとんど加奈ちゃんのお手柄なのにずるいぞー」と茶々を入れた。
ケーキ自体の見栄えもさることながら、いかにも女子生徒の手作りという雰囲気を醸し出すピンクや黄色の華やかなラッピングは確かに加奈のアイディアによるところが大きい。お店でクリスマスの時期に配るお菓子を参考にデザインを考案して指導した。
「分かってるって。だからさ、加奈ちゃん。これから一緒に学園祭実行委員に会いにいかない?」
部長はにこっと笑顔で浮かべると片手を腰に当てて、もう片手の親指でくいっと後ろを示して見せた。方角は全くあっていないが、要するについて来いと言いたいようだ。
「いいですけど、何も事情分かってないですよ、私。」
加奈が首をかしげると、部長は良い笑顔のまま「いいの。いいの。」と手をひらひら振って見せた。
「私は、このケーキは完ぺきだと思っているけど、もし、万が一、学祭委員から文句がついたときにね、ここをもっとこーしろとか、あーしろとか。加奈ちゃんに聞いておいてもらった方が確実に対処できそうだからさ。ただ聞いててくれるだけでいいのよ。」
「自分で対応する気はないのか。」
再び同学年の生徒に突っ込まれながら、部長は「あるさー。」と軽い調子で返している。
「でも、やる気と実力は別のものだもーん。」
悪びれずにそう言う。この明るさ、軽さが部長のいいところなのだ。加奈は笑いながらそれを再確認する。ほぼ女子生徒だけで100名近い部員を束ねて行くには真面目な人より、このくらいいい加減な方がいい。適当な暇つぶしに在籍している部員の方が多い部だけに、妙にやる気がある人が上に立つと熱すぎて煩いと煙たがられるし、厳しく指導しても口煩いと嫌われる。かといって手を抜きすぎては頼りないなどと言われたりしてさじ加減が難しい。女同士の厄介な人間関係に足元を救われない人あしらいが料理部では必須のスキルなのである。
この人見てると、円香がどんだけ損な性分なのか。いっそ悲しくなるな。
真面目なことは良いことだ。それは間違いないのに、こうして軽快に女の集団を渡って行く人をみると真面目であることが馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
「さあ、ちょうど時間だ。いざゆかん。加奈ちゃんもおいで。」
部長に手招きされて、加奈は慌ててその背中を追いかけた。
生徒会を除く委員会には特定の教室は与えられていないが、それぞれ「持ち部屋」化している部屋がある。学園祭実行委員会の場合は第二会議室と呼ばれる職員用の会議室がそれに当たる。職員用であるため、調理室のある特別教室棟ではなく教員室や事務室が並んでいる教務棟という建物に部屋がある。
「いやあ、今年はいい場所で物販やらせてくれて助かるよね。がっぽり稼いで後期はちょっといい食材使っちゃおうよ。」
まだ合格点をもらったわけでもないのに部長はウハウハと売り上げの皮算用をしながら歩いている。
「受付横は確かにいいですよね。目立つし。」
「そうなんたって目立つ。」
副部長も一緒になって、深々と頷いて見せた。やはり学園祭における場所取りは重要で、いくらいいものを売っていても人が流れて来てくれないと、どうしようもないのだ。
「受付横で売れる時間が終わっても、うちのケーキ持って歩いている人をみて他のお客さんも来てくれるかもしれないし。こんだけ派手で可愛けりゃ目立つしいけるっしょ。」
「今年の学祭委員はいい仕事してくれるわー。」
その言葉に加奈は自分が褒められたように、少し気持ちが浮き立った。
「失礼しまーす。料理部です。」
がらりと扉を開いて入ってみた第二会議室には数名の生徒が思い思いに腰かけていた。委員長の向井の他に重要なチームを任されている黒江や円香の姿もあった。
「お疲れ様です。イベントの試作品ですね。時間ぴったり。はい、こちらへどうぞー。」
にこにこと笑顔で空いた席を示したのは向井だ。
「はい。カップケーキ3種。プレーン、チョコ、それからケーク・サレ風。」
部長がトレーを差し出すと、まずその華やかなラッピングにざわっと学祭委員の女子がざわめいた。そのざわめきの打ち消すくらいの大声で向井が全員の言葉を代弁する。
「おおー、いい!可愛い!さっすが料理部。」
彼は一つ包みを手に取ると、そのまま満面の笑みでそれを隣にいた生徒に手渡してみせた。
「いいでしょう?」
部長はいきなりの好感触に嬉しそうに胸を張った。他の委員たちもケーキの包みをリレーしながら、かわいい、凝ってる、と次々と感嘆の声を上げた。円香も一つケーキを手にとってしげしげと眺めると、視線を加奈に投げてきた。目だけで「これは、あなたが作ったのね」と聞いてくる。加奈は予想以上の高評価の中ではにかみながら先輩の背後で小さく頷いた。
「見た目は文句なしでしょ。目立つし、可愛いし。後はお味だね。いただきまーす。」
料理を作ると、この瞬間が一番緊張する。加奈はじっと向井の顔を見つめた。向井が食べているのはプレーンだが男の子には甘すぎるかもしれない。
料理部員の視線を一身に集めながらごくりとケーキを飲み込んだ向井は、にっこり笑って親指を立ててみせた。
「超美味しいです。」
それを聞くのを待っていたかのように、他の委員たちも次々と試作品を口に運ぶ。女子生徒達は素晴らしい笑顔で美味しいと請け負ってくれた。男子生徒達の反応は半々で、やはり甘いものが苦手な生徒には少し甘みが強すぎたようだった。
「甘いのが苦手な人はこっちの青いラッピングの方を試して下さい。塩のケーキで余り甘くないはずなんで。」
加奈が青いリボンのケーキを示すと、数名の男子生徒の手がそちらに伸びた。
「お、本当だ。パンみたい。」
「おー、すげえ。見た目は完全にケーキなのに甘くない。変な感じすんな。」
こちらも好評で加奈はほっと胸をなで下ろす。塩のケーキ、ケーク・サレも加奈のアイディアだった。試食を終えた向井は一度振り向いて数名と言葉を交わしていたが、全員の表情から前向きな返事が貰えそうだと期待できた。
「合格です。本番もよろしくお願いします。」
しかして、拍子抜けするくらいあっさりと向井は部長に告げた。
「ありがとうございます。」
ぺこりと頭を下げた部長は速攻で振り返ると加奈に向かってガッツポーズをしてみせた。
「やったぜ、加奈ちゃん!」
「さっすが救世主。本番も頼むわよー。」
副部長も笑って加奈の肩をバシンと叩いた。頼られると力が湧くタイプの加奈は思わず「任せといてください」と胸をはった。
「おー、目黒さん。かっこいー。」
外野から声がかかって振り返ると選択授業で一緒になっている生徒だった。明るくて気安い感じの生徒で、ちょっとした軽口を交わす友人だ。
「ありがと。」
ニカッと笑って片手を上げると、彼はうはっと嬉しそうに声を上げて笑う。
「まじ格好いい。俺が女なら惚れる。」
変な表現に次々に「なんだそりゃあ」と声があがって笑いが大きくなる。加奈も一緒に笑いながら視線を感じて円香を振り返った。円香には笑顔は無くて、心配そうに加奈を見ていた。
大丈夫。そんな顔しなくても、このくらい慣れっこ。傷ついたりしないよ。
そういう思いを込めて片目をつぶって見せる。それでも不安げな円香をの横、もう一人真顔でこちらを見ている表情が目に入った。不思議に思って視線を合わせようとするとふいと逸らされる。顔が揺れるのに合わせて黒い髪が流れて彼の目線を隠してしまった。加奈は気のせいだったかと首をかしげる。他の生徒を振り返ってしまい、もう後ろ頭しか見えなくなった様子からは確認のしようがない。
黒江君に限って、私が褒められて嫉妬するはずもないしねえ。気のせいか。
はて、と思いながら用事の済んだ料理部の面々と一緒に会議室を退室する。
「よし、売上目標はいつもの1.5倍増しだ。美味しい後期の活動のためにがんばろー!」
部長は廊下で大声を上げて拳を振り上げると、思いの他響いた自分の声に驚いて飛び上がった。その様子があんまりおかしくて、加奈は副部長と一緒に笑いこけながら調理室へ向かった。首尾を聞くまで帰らないで待っている部員に朗報を伝えたら、また一騒ぎあるだろう。想像しただけで歓声でいっぱいで騒々しい。だから、さっきのことなんて、すぐ忘れてしまう。
どうして、女だったら惚れるなんて言われたのかなんて考えない。
どうして、女のままの自分を褒めてもらえなかったのかなんて考えない。




