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ロンド  作者: 青砥緑
本編
31/64

目に映る世界-1.

「ごちそうさまー。」

 夕食を食べ終えて、まだ店の厨房にいる両親に大きな声をかけてから狭い階段を上る。自室に戻れば夕方帰宅してすぐに着替えてアルバイトという名の家の手伝いに出ていった時のまま、放り出された鞄と適当に吊るされて右肩が落ちたままの制服が迎えてくれる。

「おおっと、危ない。」

 このまま落下していたらブレザーに皺ができてしまうところだった。セーフ、セーフ。目黒加奈は間にあってラッキーだったと息をつきながら制服をきちんと整える。それから、赤と白の縦じまのエプロンを外して吊るした。小学生のころから父の経営する洋食屋の手伝いを続けている。サイズは変われどエプロンの柄はいつも同じ。このエプロンも加奈にとってもう一つの制服だ。並んだ制服達に背を向けてベッドに腰をおろせば、四畳半の部屋の壁の一面を埋める本棚が視界に入る。見慣れた背表紙が並ぶ中、いつもは気にかけない一冊が目を引いた。

 加奈は一度、両足を振り上げて弾みをつけると、その反動を使って跳ねるように立ち上がった。中学の卒業アルバムを引きだすと、そのままベッドに戻って腰を下ろす。自分のクラスを開けば健康優良児を絵にかいたような丸顔に満面の笑みを浮かべている自分の姿が一番に目に入る。加奈は昔から少しふっくらした子供だった。今も、肥満とまでは言わないが、スレンダーな友人達に比べれば明らかにもったりとした体つきをしている。何度かダイエットを試みたが、何も上手くいかなかった。もう諦めが入っているとはいえ、改めてパンパンに張っている頬を見るとため息が漏れてしまう。

 目的は自分の姿を確認することではなかったのに、こういうものはどうしたって一番に自分に目が向いてしまう。

「そうじゃなくって。」

 わざわざ声に出しながら視線を見慣れた顔から引きはがす。見開き隣のページに並んだ詰襟の男子生徒の中に、目当ての人物を見つけた。

「こっち、こっち。」

 森野穂高と記された写真には、今よりいくばくか幼い顔つきをした級友が生真面目な表情で映っている。

「こっちも、やっぱり変わらないなあ。」

 彼女本人が昔から丸顔のまんまのように、森野穂高という少年は昔から痩せていた。高校に入ってから眼鏡を変えたのだということに、昔の写真を見て初めて気がついた。今かけているのはたしか細い黒い淵の眼鏡でレンズも横長で小さい。一方、写真の中の彼がかけているのはかなりレンズの大きな眼鏡で顔の半分くらいを眼鏡が覆っている印象だ。改めてじっくり見てみると髪型も少しだけ改善された様に思えてくる。長い前髪が目のすぐ上まで覆っていて表情が見えにくいのは相変わらずだが、今の方が首の周りはすっきりしている。

「うーん。マイナーチェンジはしてるんだ。」

 気付かなかったわ。ぼそりと呟きながら、彼女はぱらぱらとページをめくる。三年分の学校行事の写真の中から森野の姿を探してみる。きちんと全ての生徒が何かしらの写真に映るように配慮してくれた教師たちのおかげで比較的地味で目立たなかった彼の写真も使われていた。

 一年生のときの遠足の写真に映る彼はまるで子供で、周りの生徒に比べてもかなり小柄だ。確か、当時は加奈よりも小さかったはずだ。ここから三年までに二十センチ以上は伸びただろう。思えば高校に入ってからの一年でも大きくなっている気がする。横幅がないので大きいという印象はないけれど横に並べば、加奈より余程背が高い。ひょろっとしているというのが実に似合いの表現だ。


 色も白いし、まんまもやしっ子だわ。ただし、黙ってればだけど。


 彼の本性を垣間見たら「もやしっ子」という言葉を投げかける気にはならない。

 加奈は中学時代に、まさに彼をもやしっ子と囃したてた悪童が、柔らかい口調でやり込められているところを聞いたことがある。森野は散々小突かれた後で、黒い学ランは白いほこりまみれになっていたし、腿の付け根あたりにくっきりと誰かの上履きの足跡がついていたけれど、真っ直ぐに立って、悪童達を冷えた目で見返していた。こうして数と力に頼って自分を小突きまわすことが、どれほど馬鹿馬鹿しいことかと言い返していた。怖がりもせず、喚きもせず。暴力は彼を傷つけることなどできないのだと言いきった。加奈が直接みかけたのは一度きりだが、たぶん、ああしたことは一度や二度ではなかったのだと思う。学年が上がるにつれて森野は誰からも一目置かれるようになっていった。教師からの信頼も厚く、悪童たちも決して彼を粗雑には扱わない。森野の優れたところは頭脳というよりも、芯の太いあの性格だと思う。

 そこまで思い返して、加奈はアルバムから目を上げると勉強机の上のコルクボードに貼ってある写真を見上げた。


 そういうところが、似てるし、気が合うんだろうな。


 コルクボードにあるのは高校に入ってから出会った友人と一緒に撮った写真だ。確か体育祭の打ち上げだったか。皆、日焼けして頬が赤い。加奈の隣で健やかに笑っている友人の姿に目を細める。


 付き合うことになったんだ。


 加奈の一番の友人である八坂円香は、昼休みの渡り廊下で恥ずかしそうに俯きながらそう言った。

 とうとうか。まだ付き合ってなかったのか。そうか良かった。すごく良かった。

 聞いた途端に思いが駆け巡り、それは笑顔と笑い声になって加奈から飛び出した。

「良かったね。」

 肩を叩けば、円香は照れくさそうに微笑んで頷いた。


 友人の嬉しそうな顔を思い出すと、自分の心まで温まってくる。昨年は辛い思いをして、日に日に笑顔を減らし憔悴していったのを知っているから喜びもひとしおだ。この春から、彼女が部活を休み、クラスも変わってから、円香は病が癒えるようにゆっくりと元気を取り戻して行った。その彼女を支えたのが森野だった。

 いつも級友たちの輪の中にいるようで、どこか一歩引いている。控え目で物静かな印象のある森野だけれど、こと円香に関しては積極的だった。2年生に進級して同じクラスになって以来、彼は円香に付きまとう嫌がらせを拒み続けた。大して親しくもない級友に対しても、そういうもの言いは良くない、無責任なことを言うなと遠慮なく諌めた。学級委員だからこその責任感と思われていたようだが、加奈は森野がそんな責任感に駆られていたわけではないことを知っている。なぜなら、彼が学級委員に任命される前に既に円香について相談を受けていたからだ。

 委員決めどころか、クラス替え初日に呼び止められた。

「八坂のことで、相談があるんだけど。」

 そう言った森野は真剣な表情で、どうして円香がこれまで辛い思いを強いられてきたのか、その真相を尋ねてきた。円香と親しい加奈だったら知っているだろうと。

 加奈と円香が親しくしていることは、隠していることではないけれど違うクラスの男子生徒が知っているようなことではないはずだ。森野が、二人に、あるいはそのどちらかに興味を持っていたことは、二人の仲を知っているだけで明らかだ。そして、どちらに興味があったかなんて最初の言葉で分かりきっている。

 とても意外に思った。

 しばらくまじまじ彼を見つめてしまった程度には驚いた。加奈に口を半開きにして見つめられた森野は居心地悪そうにしていたが、最後まで折れずに話を聞いた。途中からは加奈も真剣に応えた。1年生の途中から続く友人への理不尽な仕打ち。それは加奈にとっても、悩みの種だったからだ。二人は円香に知れないように教室から悪意を追い出した。静かに、ゆっくりと、確実に。


「ほんと、良かった。」

 もう一度、声に出してからパタンとアルバムを閉じて本棚へ戻した。

 この気持ちに嘘偽りはない。加奈にとって円香は大事な友達だ。彼女の喜びは一緒に喜びたい。けれど、胸の奥にじくりと痛むところがある。

「ごめんね、円香。」

 本棚の前で俯いたまま、どうしても本人に向かっては言えない言葉を吐きだした。


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