神様の意地悪-3.
夏。一年生にとって高校生として初めての大会が始まった。国体予選に出場した彼らは、高校での一年間の差を嫌という程思い知らされる。特に成長著しい高校生の男子にとって一年の差は大きい。陽太のフォームは誰よりも美しかったけれど、結果を見れば彼は予選落ちに終わった。
練習でも先輩の方が良いタイムを出しているのは知っていた。だから円香にも陽太が一番を取れないことも分かってはいた。子供と大人ほど体格の違う先輩を見れば、彼らの方が成績が良いのはごく自然に思える。けれど、公式な試合での陽太の負けは予想以上にショックだった。ただのチームメイトの自分が傷つくなんておかしな話だ。そう分かっていても胸のもやもやは、いいところのなかった自分のレースよりも大きく手に負えない。
美しさと速さは正比例しない。速さを生み出すためには強さも必要だ。応援していただけの円香にも良く分かったくらいだから、陽太も気がついただろう。陽太はもしかしたら、円香よりも前に気がついていたのかもしれない。レース後に一度、天を仰いだ顔に笑顔は無く、しかし涙もないままに控室へ戻っていった。
男女別々の控室へ引っ込まれては追いかけることはできない。まして一年生は先輩の応援も仕事の内である。円香は、なかなか応援に戻ってこない陽太を心配しながら全ての競技が終わるのをじりじりと待った。ようやく引きあげとなって競技場の外へ出れば、陽太が黙って俯き何度も地面を蹴っているのを見つけた。早く励ましたいと思っていたはずなのに、それまでに見せたことの無い厳しい表情に声をかけることを躊躇ってしまう。
円香は走ることが単純に好きで陸上を続けているので、勝つことをあまり重視していない。もちろん速く走りたいという思いはあるから苦しい練習も耐えるのだけれど、1位になることよりもベストタイムを出すことの方が嬉しい。タイムが良くなった結果、勝てればそれはラッキーくらいに思っていた。彼女にとって走ることは頭をからっぽにできる、非日常の世界に入り込める楽しいことだ。そこにぎらついた勝利への欲望を持ちこみたいとは思えなかった。だから、陽太とも勝負についての話などしたことは無かった。円香の目に映る彼の走る姿は完璧なまでに美しくて、そのせいか、彼には勝利への渇望などありはしないと思い込んでいた。けれど、思い返せば陽太はタイムが上がることをとても喜んでいた。それも、これで先輩まであと一歩だと誰かの背中を見ながら。円香が見逃していただけで、これまでだって美しく楽しいだけが彼の陸上ではなかった。あの肉食獣を思わせる走りは、ちゃんと高みを、獲物を狙っていた。金色に輝く獲物を追って駆けていたのだ。
何のために走るのか。自分と、自分の陸上選手としての憧れである陽太との間にこれまでに感じたことの無い種類の隔たりを見つけて円香は奇妙な焦りと寂しさに襲われた。
大会の後から陽太の練習メニューには筋力トレーニングが増えた。自主的に行う分を含めたら過剰に思えるほど。練習の隙に陽太の様子を見る理由が、心配に変わったのはその頃からだ。そうやってずっと見ていたからこそ、彼のフォームが狂ってきた時にはすぐに分かった。練習を監督するコーチより、一緒に走り込む先輩より早く、円香が気付いた。
彼が膝を庇うような動作を見せ始めた時にとうとう見兼ねて声をかけた。
練習後、使った道具を片付けながら周りに人がいないときを狙って後ろから近づく。
「陽太。練習し過ぎなんじゃない?右膝、痛むんでしょ。」
心配で仕方なくて声をかけたのに、口から出た言葉は子供を窘める母親のような少しお節介な響きを持っていた。その言葉に、陽太は弾かれた様に顔を上げる。驚きと少しだけ悲しむようなその表情に、円香は理由も分からないまま後悔した。
陽太を悲しませたくなどないのに。
円香の僅かな動揺に気づかないまま一言漏らした言葉と表情で、陽太は円香の指摘が正しいことを認めた。
「なんで。」
彼は自身の不調に薄々気がつきながらも、それを誰にも告げていなかった。コーチに言えば練習を減らされる。今、一日でも休めばライバルとの差は詰まるどころか広がる一方になってしまう。決定的に体を壊したら元も子もないことくらい頭では分かっているけれど、まだ大丈夫と騙し騙し練習を続けていたのだ。
「フォーム、おかしくなってきてる。夏の終わりくらいから体のバランスが変わってきてるせいじゃないかな。最近、膝を庇うから余計バランスが崩れて見えるよ。」
円香の言葉は陽太の実感に限りなく近く、陽太は驚いた様子でじっと円香を見返した。今日まで、誰からも隠しおおせていたつもりだったのに。
「無理しない方がいいよ。走れなくなるよ。」
「分かってるよ。」
陽太は強い調子で一言答えて、抱えていた道具を倉庫に下ろすとそのまま視線を床に落とした。円香には、彼が無理をしている理由も想像できた。もうすぐ都の新人戦がある。出場するなら怪我を治している時間が無い。
怒らせたかもしれない。そう思いながらも、黙り込んでしまった陽太に向かって円香は更に話しかけた。普段の彼女なら少しでも拒絶の態度を示されれば、それ以上踏み込むようなことはしない。けれど円香の頭には入部当初の陽太の走る姿がくっきり焼きついていた。もう見られなくなると思うと堪らなくて、彼を引きとめたい衝動を止められなかった。
「膝を庇って変な癖がついたら、直すの大変だし、膝を庇って、腰や他の部分を痛めたらリハビリだけでも時間が。」
「分かってるってば!」
今度こそ叫ぶように円香を遮って陽太はじろりと円香を見下ろした。彼にはとても珍しく怒りを露わにした表情が暗い倉庫の中でも分かった。
円香は、はっとして口をつぐみ、俯いた。一つの大会のために体を壊したら、もうそれ以降のチャンスはない。そんなこと誰だって分かっていることだ。そして、一番悩んでいるのは陽太本人に違いないのだ。
「そだよね。・・・偉そうなこと言って、ごめん。」
強張った表情のまま、円香が踵を返すと、陽太もゆっくりとそれについて倉庫を出て来た。しばらく無言で片付けをしている他の一年生たちの元へ戻りながら、段々頭が冷えてくる。陽太は円香の背中に向かって声をかけた。
「怒鳴ってごめん。心配してくれたのに。」
円香は振り返り、しゅんとした陽太を見てほんのり微笑んだ。目元が少し和むだけの、笑顔が苦手な彼女の精いっぱいの微笑み。
「ううん。私が無神経だった。でも、入学したての頃の陽太のフォーム、本当にすごく綺麗だったから。もったいなくて。体がついてきたらきっとずっと速くなるよ。」
励ますように続けられた円香の言葉に驚いたように少し間を空けてから陽太はため息をついて苦笑いを浮かべる。
「ありがと。んっとに円香には敵わないな。本当に俺と同い年なの?」
「どういう意味?」
円香が問い返せば、陽太は口を尖らせる。
「落ち着きすぎ。いい意味でだけど。頼りになるし。でも、円香と喋ってると俺って子供だなーってときどき思うわ。すぐ、かっとなったりさ。落ち着きないし。」
大きな声を出してしまった自分を恥じるように言う。円香にとっては落ち着いているというのは、小学生くらいから言われ慣れた言葉だ。年に比べて、いつも少しませた、大人びた子供だったし、今でも同級生たちから姉や母のような扱いを受けることがままある。そんな聞きなれた言葉だったけれど、陽太にはっきりと良い意味だ、頼りになると言われて悪い気はしなかった。褒められたのだと思えば単純に嬉しい。同時に陽太の機嫌が戻った様子であることにほっとした。
「素直なのは良いことだと思うよ。」
フォローするつもりでそう返すと、陽太は声を立てて笑った。
「だから、そういうところが、同い年っぽくないんだって。」
そのまま軽口を叩きながら、他の部員の集まっている近くまできたところで陽太がもう一度、円香を振り返った。
「あのさ。膝のこと、もうちょっとだけ、黙っててくれる?」
最初からコーチに告げ口する気などなかったと円香は頷く。
「サンキュー、さすが相棒。」
陽太はにこっと笑うと軽く手をあげてハイタッチを促してきた。円香は二、三歩駆けて飛び上がるように大きな掌に手を合わせた。指きりの代わりだ。それきり二人は故障の話はせず、いつも通りに他の部員に合流して帰路についた。
陽太が新人戦を諦めて、体の調整に専念することにしたのは翌週のことだった。
練習後のミーティングでコーチから陽太が新人戦から外れることが発表されたとき、陽太は円香の方を向いて笑ったように思った。部員全員に発表されたことで、むしろ円香の秘密は減ったのに、なぜか彼と二人だけの隠し事ができたような気がして、気恥ずかしい。円香はなぜか頬が熱くなるのを感じて慌てて俯き、髪の毛で顔を隠した。