距離-4.
夏休みに入ってからも、学園祭の準備で学校に行く機会はある。森野と円香は学級委員と学園祭実行委員という立場上、クラスの作業がある日は必ず参加することになる。森野は当たり前のように登下校の時間を円香に合わせては一緒に学校に通った。
八月に入ると補習授業が終了するので、ますます学校はお祭りムードが高まってくる。
その日はクラスの準備のために午後から集合がかかっていて、昼日中の一番暑い時間に登校することになった。学校へ行く道すがら、円香は森野の隣で他愛もない話をしてときどき笑う。日差しが強すぎるとかそんな、本当に何でもない話で、自然に花開くように笑う。それを間近に見るだけで森野は手を繋ぎたいとか、肩を抱きたいとか、もっとあれこれと高校生らしい欲求を抱いて胸の内で七転八倒した。遠くから見ている間はそんなこと思わなかったのに、体温を感じるほど近くに立って同じように自制することは難しい。この衝動は日に日に強くなっているようで実によろしくない。白いブラウスから伸びる細い腕や、暑い暑いと言いながら髪をかきあげると覗くうなじが実に心臓に悪い。
でも、まだお友達なのだから焦ったらいけない。
森野は自分に言い聞かせて、外見上はいつもと変わらぬ穏やかさで、教室へ向かった。クラスの面々は騒がしく墓場を演出する小道具を作ったり、落ち武者の人形を作ったりと眩しい光の中で見るとひどく滑稽な作業に興じている。円香はしばらく他の女子生徒と一緒に暗幕を数えていたが、三時を過ぎると「後、お願い」と森野に声をかけて出て行った。学園祭実行委員としての仕事があるのだ。鞄が教室に置き去りにされていることを確認して、先に帰られてしまう心配がないことを確認するのは夏休みに入ってからの習慣になっていた。
「森野。今日は嫁さん、遅いなあ。」
そろそろお腹も空いたし解散しようかと言い始めた頃に、クラスメイトの一人が声をかけてきた。残っていた生徒達が笑う。この場合、嫁さんとは円香のことで間違いないだろう。夏休みまで一緒に登下校していればそういう扱いになるのは道理だ。
「迎えにいかないでいいのかよ。」
悪意のない冗談を言いながら、彼らはのろのろと散ばせていた絵具や工具を片付けて行く。
「まだ仕事があるんじゃないかな。そのうち戻ってくるでしょ、鞄置きっぱなしだし。」
森野はさらりと彼女の机の方を示す。つきあっているわけではないと何度か訂正したが誰も聞く耳もたないので最近はもう放置だ。
「それで、お前はまた八坂が戻ってくるのを待つのか。」
「浮気、心配になんねえの?学祭委員って黒江もいるし、小松もいるんだろ?」
円香に陽太の組み合わせの話題はこの教室ではタブーだ。それでも口を滑らす生徒は必ずいる。周りの生徒が「バカ」と頭をはたいてから、恐々と森野の方をうかがった。森野が去年の噂を思い起こさせる話題の全てをひどく嫌がることは、これまでに皆よく学習している。
「なんだよ、俺はただいい男の分かりやすい例として言っただけだろー。」
叩かれた生徒はぶつくさ文句を言っては、今度は女子生徒に「空気読め!」とぴしゃりとやられていた。
「浮気も何もつきあってるわけじゃないって何度言わすの。馬鹿なの?」
にこりと首を傾げて森野が問いかけると、一瞬ぴりりとした空気が流れた。
これは怒っている。
いいから謝れ、と周り中に抑え込まれた男子生徒はそれでも不満げに口を尖らす。
「こんなに毎日仲良く学校来て帰って、つきあってないとかイミフ。嫌なら待ち合わせなんかいくらでもブッチするっしょ。ぬるいこと言ってて横からガッツーンって行かれちゃったらどーすんのよ。俺、これでも森野応援してんだよ?すげえ大事にしてんじゃん。そういうのすごいと思うわけ。もう一押しじゃん。もういっそ帰り道にこうガッツーンて。そんでブチュっとさー。」
「うん、お前、馬鹿決定ね。」
空気を抱きしめて口づける仕草をして見せた男子生徒に呆れた視線を投げて森野は笑う。周りに残っていた女子から「最低!」「きもい!」とか散々に詰られているから、これ以上の制裁はいらないだろう。
そんなの、心配しているに決まっている。ガッツーンと行っていいならそうしているに決まっている。
でも、そんなことをして嫌われるのが怖いのだ。嫌がられたら立ち直れそうにない。だからぬるい関係のままでいる。女子生徒は紳士的だ、優しいと言ってくれるけど、むしろ意気地がないというのが正しい。
「もう、いいから早く片付けて帰ろう。下校時刻は六時でしょ。」
自分で考えていて落ち込んできた。この話題はもう十分と手を叩いて森野が時計を示す。残り30分で片付けを終えて昇降口を通過しなければならない。クラスメイト達は、やばいやばいと口にしながら片付けを再開する。森野も身の周りを整えると自分と、円香の鞄をまとめてもった。委員会の仕事で特別に居残りが認められる可能性もある。その場合に暗くなってから無人の教室に鞄を取りに戻らせたくない。
「ほら、早く出ろ―。」
全員を教室から追い出しながら携帯でメールを打つ。教室が空になってしまうから鞄を届けると用件だけを送れば、すぐに電話がかかってきた。
「今どこにいるの?まだかかりそう?うん、鞄、持ってくよ。」
会話の内容から円香相手だと察した生徒達はニヤニヤ笑いながら手を振って教室を後にしていく。懲りずにキスの仕草をして見せた生徒の背中をはたいて見送る。
「全く。人の気も知らないで。」
森野は携帯をポケットに収めると、特別教室棟へ向かった。円香はまだ帰れないらしい。
下校時刻を過ぎて薄暗い廊下を抜けて行くと、一か所だけ煌々と明かりがともって騒がしい教室がある。円香がいると言っていた視聴覚室だ。
「失礼しまーす」
ガラリと戸を開けると一瞬、数名の視線が森野の方を向いたが、すぐに逸らされた。長机の上にはパンフレットや封筒が並んでおり、どうやら他校へ送る招待券やポスターの封入を行っているようだ。生徒達は喧しく話しながら流れ作業で机の周りを回っている。ぐるぐると回る中には向井や陽太の姿もある。大柄な彼らは良く目立った。
「ごめんね。助かった。」
森野に気付いて円香が戸口の方にやってくる。
「ううん。お安い御用。まだまだかかりそうなの?」
廊下で鞄を渡しながら尋ねると円香はうーんと唸った。
「今日中にやって明日先生に発送してもらう予定なんだよね。あと1時間まではかからないと思うんだけど。でも一応、全部揃ってから確認もしたいし。」
「そっか。帰り、待ってようか?」
問いかけると円香は首を横に振った。
「いいよ、遅くなっちゃうでしょ。」
その言葉に分かってないな、と森野は真顔で言い返す。
「遅くなっちゃうから待つんでしょ。」
夜道を一人で帰したくない。そういう意味だと分かると円香は困ったように笑った。
「部活やってるときなんてもっとずっと遅かったよ。大丈夫、大丈夫。」
森野はため息をついて「分かった」と頷いた。まさか委員長の向井がいるのに円香が最後の一人になるとも思えない。駅までは皆と一緒に帰ってくるだろう。
「じゃあ、駅前にいるから連絡して。」
反論は聞きませんとばかりに森野は言いきる。円香もため息をついて森野を見上げる。
「いいのに。」
そう言いながらも、もう反論を諦めた顔だ。それに満足して森野は「頑張ってね」と微笑んだ。




