距離-3.
向井が、放課後の教室にやってきて円香の着替えと鞄を保健室に届けてほしいと言ったとき、教室には数名の生徒と一緒に森野と加奈が残っていた。
「階段で転んで、そのまま保健室行きになってるからさ。」
どうかしたのかと詰め寄る加奈に向井は両手を上げて答えた。
「頭は打ってなさそうだけど、足捻っちゃったみたい。」
加奈はすぐに教室を飛び出して行った。最終の授業が体育だったので円香の荷物は更衣室にある。森野にできることはない。荷物は任せて、森野は向井の腕に腕をからませて彼を廊下の隅に引っ張り込んだ。
「お、森やん。久しぶり、元気か―?って顔怖えよ。怖い怖い。近い近い。」
文句を言う向井を無視して小声で聞く。
「階段で転んだってどういうこと?」
「え?」
「どういうこと?」
かなりの近距離で繰り返す。先ほどから、いつも通りに振舞って見せる向井の表情に、森野は違和感を覚えた。彼が隠している怒りのようなもの。嫌な予感がした。
「森やん、怖いって。」
言いながら、森野の腕をやや乱暴に外した向井の表情はもう笑っていない。
「八坂に、なんかあった?」
重ねて問えば、向井は眉を寄せて嫌そうな顔をした。彼を面白くて素敵だと思っている下級生がみたらたいそう幻滅しそうなひどい顔だ。
「しつこい。俺、今、急いでんだよね。」
「じゃあ、早く答えて。なんかあったんだな?」
向井は「だあっ」と一度叫んでからため息をついた。
「しょうがねえな、森やんは。俺、森やん好きよ。信じるからね?馬鹿なことしないでね?」
くどい前置きをおいてから向井は早口で彼の見たもの、聞いたものを教えてくれた。円香が階段から突き落とされたこと。それが下級生の女子生徒の仕業であったこと。相手の名前もクラスも全て向井が聴取済みで、これから釘を刺しにいく予定であること。おそらく原因は黒江絡みの一方的な嫉妬であること。それから、保健室で会った円香が泣きも怯えもしていなかったこと。
聞いている間に森野の表情はどんどん険しくなる。普段は茫洋としてみえる友人の、およそ優等生らしからぬ表情に向井は、森野が自分に迫ってきた理由をなんとなく察した。どうでもいいような生徒のことで怒るほど、森野という生徒は熱血漢ではない。
「俺と黒江はさあ、ちょっと後始末つけないといけないから。お姫様の方は森やんにお願いしちゃっていい?同じクラスの方が何かと便利そうだし。」
「別に向井に頼まれる筋合いの話じゃないけどね。まあ、いいよ。」
誰に言われなくても、円香を放っておくつもりはない。そういうつもりで答えると、向井はにこりと笑った。
「俺、森やん好きよ。マジで。惚れ直した。」
ついでにウィンクをつけてくる元クラスメイトに森野は眉を潜める。
「気持ち悪い。」
「ひどっ。」
笑いながら向井は既に自分の教室へ向かって歩きだしている。
「じゃ、よろしくね。」
「そっちも。」
二人は軽く手を上げて別れた。それから急いで荷物をまとめて教室を出ようとした森野は、途中で加奈と鉢合わせて円香が市民病院へ連れて行かれたと聞いた。ついて行こうと思ったのに置いて行かれたと少し落胆している加奈を軽く宥めて、別れを告げる。
本当に人に心配させてくれない人だな、八坂は。
加奈の気持ちも分かると思いながら、連れて行ってくれないなら勝手に押しかけてやろうと急いで携帯電話で市民病院への経路を検索した。
どうして、自分はいつも後悔ばかりなのだろう。
病院の待合スペースでみかけた円香の真っ白い包帯が森野の心を刺す。今度こそ、近くで守ると誓ったのに、彼女はこれまでよりずっと恐ろしい目に遭った。一体、何に遠慮して彼女にため息の理由を訪ねなかったのだろう。どうして迎えに行かなかったのだろう。今なら、友人として手を差し伸べられるところにいるのに。
病院で円香に会ってからの行動は少し強引だったかもしれないけれど、森野に後悔はなかった。結果を見れば、円香は森野の申し出を受け入れてくれたし、これまで以上に近くにいることを許してくれた。心なしか、自分が傍にいるときは安心してくれているようにも思う。笑顔が見られる回数が多い。それでも心を許してくれたわけではないようで、弱いところは決して見せない。それに耐えきれずに告白してしまった日からも、森野は円香の送り迎えを続けた。円香はそれも拒まなかった。
松葉杖が外れた日に、もう一人で大丈夫だよ、と一度だけ円香が言ったときも森野は首を横に振った。
「俺が一緒にいたいの。」
それは、ただ近くにいたいという思いと、もう二度と目の届かないところで恐ろしい目に遭ってほしくないという思いの両方をこめたものだった。それが伝わったのか、円香は駄目だとは言わなかった。だから、それからも一緒に登下校を続けている。森野の告白について、その後二人の間では何も話されていない。でも、自惚れて良ければ、杖が無くなった分だけ歩く二人の間の距離は狭まっていた。自分が躊躇うから円香との距離が縮まらなかったのだと森野は思う。これまでだってきっと踏み出せば、近づける可能性があったのだ。このまま少しずつ、彼女の隣にぴったり並べるように二人の時間を重ねていこう。もう後悔はこりごりだ。




