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ロンド  作者: 青砥緑
本編
23/64

距離-1.

 カラオケにでも寄ろうかと言いながら教室を去って行く最後の一団が扉あたりで振り返る。

「じゃあ、お先に。お二人さん。」

「遊びたくなったら電話して来いよ。」

 軽く笑って手を振って級友を見送る。彼らの声が聞こえなくなって教室には心地よい静寂が満ちる。斜め前の窓際で校庭に視線をやる円香の後ろ姿を目に収めてから森野は教科書に視線を戻した。クラス替えからたったの一カ月で誰も不思議にも思わなくなった毎日教室に居残る二人。夕方の教室は二人だけの脆い密室だ。



 森野は去年から同じように放課後を教室で過ごしていた。教室の窓際の席に陣取って勉強していたのは教室の居心地が良かったからというだけではない。最初は人のざわめきが煩い自習室を嫌ってのことだったけれど、途中からは違う理由だった。窓の外。本校舎の窓からグランドを見下ろすため。勉強の合間に綺麗な少女を見つめるためだった。

 自分でも、そんなことをされたら気持ち悪いのだろうなと思ったことはある。名前も知らない、もしかすると顔も分からない生徒に毎日のように観察されるのは気持ちのいいことではないだろう。その視線に片思いと名をつけた途端に、それは許されたような響きを持つけれど、やっていることは一緒だ。

 それでも、森野は一度見かけたその少女がどうにも気になって仕方がなかった。

 すらりとした長身に程良く日に焼けた褐色の肌。短く切りそろえられた黒い髪の毛。涼しげな印象を与える整った顔立ち。彼女に気がついたのは体育祭の時だった。応援席でだらだらと友人達と話しながら目の前を走って行く女子生徒の脚を見るともなしに眺めていたときに、一際美しい脚が通った。それが彼女だった。綺麗な子だとそのまま目で追って二周目に入るのを見て、その競技が800メートル走であることに気がついた。そこからの残り一周は友人そっちのけで彼女ばかりを追っていた。一目惚れだったと思う。

 一位でゴールした彼女は、級友に飛びつかれて尻持ちをついて地面に転がっていた。めくれ上がったハーフパンツから覗いた太ももの白さに一気に心拍数が上がったことまで克明に覚えている。

 自分の名誉のために言えば、別に脚だけに惹かれたわけではない。走る姿が、無心の横顔が、とても綺麗だと思ったのだ。


 学校の中で、彼女を探すのはそれほど難しくなかった。一学年十クラス以上あるとはいえ、体育祭の時点で学年とクラスまで判明している。相手のクラスに知り合いを見つけ出して出向いて行けば、名前や部活などはすぐにわかった。

 八坂円香。陸上部。道理で綺麗な脚で、綺麗に走るわけだった。

 自分は知り合いでもないのに突然告白して色よい返事がもらえるような外見ではないし、さりげなく彼女に近づいて友人になれるほどの策士でもない。何より、彼女の様子を見かけるだけで一日満足できてしまうような可愛い思いで、それ以上何か行動する気も起きなかった。ただ、移動教室の廊下で彼女のクラスの脇を通る時に、視線を泳がせて彼女を探す。放課後のグランドに彼女の姿を探す。それだけの恋だった。それでも彼女が穏やかに笑う顔を見かけた日や、珍しく友人にじゃれかかっている姿を見かけた日には心がぽっぽと発熱するように一日幸せな気持ちでいることができた。抱いた欲と言えば、来年同じクラスになれるか、委員会でも、なんでもいいから一緒になったらいいな。そうしたら、話しかけられるかもしれない。そんな僅かなものだった。


 けれど、のんびりした気持ちでいたことを数カ月後に森野はひどく後悔することになった。

 森野には男子の友人は多いが女子の友人は少ない。だから森野の耳にその話が届くのはひどく遅かったのだと思う。口にしたことはないけれど、思い出さなかった日はない名前を不意に級友の会話の途中で耳にして驚いた。これまで他クラスで噂になるようなことはなかったのだ。彼女は基本的に大人しいし、すごく目立つわけでもない。何の話だろうと、話を聞いていれば信じられないような言葉が続いた。彼女を傷つける言葉。明らかな中傷。それを面白半分に並べたてては本当だろうかと笑う友人に怒りを感じた。本当なわけがあるか。怒鳴りつけてしまいたかった。まだ円香と一度も話したことは無くて、彼女の人となりなど殆ど知らなかったにも関わらず。

「どうせ、ただの噂だろ。そういう子には見えないよ。」

 それしか言えなかった自分に失望した。それから注意を払い始めれば、怖いくらいのスピードでその噂は広がって行った。誰もが半信半疑で、けれど、どこか面白がって話を広めていく。


 止めろ、止めろ。止めてくれ。どうして彼女を傷つけるんだ。彼女が何をしたっていうんだ。


 森野の心の叫びは、声にならない。何もできない自分が情けなくて、家に帰るなり乱暴に鞄を床に叩きつけて親に怒られる。本当に情けない。こんなことをしても何にもならないのに。どうしてせめて、彼女と友達になっておかなかったのだろう。そうすれば、今、もっと何かできることがあったはずなのに。

 盗み見る彼女の様子は、はっきりとは変わらなかった。けれど段々笑顔が減っていく。友人と過ごしている時間が減っていく。冬が始まる頃にはグランドに一人でいる姿ばかり見るようになった。

 朝、登校していくと既にグラウンドを走っている。まだ校庭の隅に下りた霜も溶けないうちから白い息を吐いて、時に背中から湯気をあげて。どれくらいそうやって走っているのだろう。それを横目に自分はマフラーに首をうずめながら校舎に入って、また教室の窓辺に陣取って彼女が走り止めるまで見届けることしかできない。こんなに離れていたら転んでも助けに行くこともできない。泣いていても涙に気付くこともできないだろう。

 教室からグランドを見下ろす時間が増えて、気付いたことがある。円香はかなり頻繁にある生徒の方を見ている。毎日飽きもせず、グランドを見下ろす自分と同じように、彼女も飽きもせず一人の生徒を見ている。

 遠すぎて、彼をみつめる円香の表情までは見えなかったけれど、彼女が彼に注意を向けていることだけは森野の目には明らかに見えた。その意味することろは、自分と同じなのではないかと思った。そして、そのことに二重の意味で打ちのめされた。一つは言わずもがなの自分の失恋。もう一つは、円香を取り巻く状況の残酷さだ。噂を注意深く聞いていれば、その底に潜んでいる意図を読み解くことは難しいことではなかった。少なくとも森野にとってはそれは容易い部類の推理だ。何度も繰り返し、噂に含まれる情報を繋ぎ合わせれば、自然と分かる。円香は、同じ陸上部の仲間との関係を嫉妬されている。同じ学年の小松陽太。明るくて、優しくて、やんちゃなクラスの人気者。その近くに物静かだけれど大人びて美しい彼女がいつもいることが、彼に憧れる女子生徒達には面白くなかったに違いない。その陽太こそが、いつも円香の視線の先にいる生徒なのだ。もしも、彼女の想いが彼にあるなら、彼の恋人に辛く当たって、彼を略奪しようとしているという噂をどんな思いで聞いているだろう。面白おかしく脚色されたその噂をどんな思いで。森野には本当のところ、円香と陽太の間に何があったのか、あるいは何もないのか分からない。それでも、彼の見つめる彼女は自分と同じように胸に思いを秘めてただじっと彼を見つめているだけのように見えた。何かを堪えるように。耐えるように。


 廊下ですれ違う彼女の頬が、以前より痩せたことに気付いた日には思わず声が漏れた。辛くないわけがない。苦しくないわけがない。彼女は真っ直ぐに顔を上げているけれど、それだけのことが、どんなに大変か。何かしたいのに、森野はその姿を目で見送ることしかできなかった。自分の加わっている会話で彼女の話が出れば諌めるけれど、親しくもない女子生徒がたむろするところへ出向いって行って、君達そういうのはいじめというんだ、止めなさいなんてとても言えなかった。彼女の頬が、腕が、脚が、痩せて行くのに、自分は一言、声をかけることさえできない。


 冬の間、不甲斐なさに泣いた夜は一度ではなかった。

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